1年に何回かある、「進学塾で教わった公式 VS 学校の授業」
この季節のあるあるは、中3「2乗に比例する関数」の変化の割合の求め方
詳細はさておき、
よくある「変化の割合」を求める方法で、
王道の求め方では数分かかるところ、
この公式を使うと3秒でわかってしまいます
うーん…3秒もかからないかも
私は自分で解くときは使いますし、だから、私の数学のノートのコピーを生徒たちには配布しているから、私がその解き方で解いているのはわかるはずです
でも、そもそも授業はしないので、生徒たちは、自分が取り組んでいる問題に対して、必要な資料として私のノートのコピーを開いているかもしれないけど、気づいていないかもしれません
その解き方で解きましょう、とは教えていないのですから

教科書にももちろん書いていない解き方で、
この時期、必ず、進学塾でそれを教わってきた生徒たちが数学の先生に質問するのです
「せんせーい、塾で教わったんですけど、この求め方で解いてもいいんですかーー」
何十年も見てきましたが、これは先生によって返答が違います
ある年は、その公式を証明できたら使用してよし、とおふれを出した先生がいました
頭ごなしに、塾で教わる解き方など禁止です、とした先生もいました
勝手にすれば、と放置した先生もいました

今年のDKRの生徒たちは、というと、
学校でそのやりとりを見ていて、興味を持ったわけです
「なんでその解き方で求められるんだろう」と
公式を使いたいわけでも、進学塾はそういうの教えてくれていいな~と思ったわけでも(あ、それはわからないな、思っているのかも)なく、ただただ、興味を持ったのです
教室でときどき、
ホワイトボードを使って何やら解き方を相談していることがあります
私に質問してくるのではなく、自分たちであーでもない、こーでもない、とやってるわけです
その日も、そんな感じでやりとりをしていました

私は「ああ、そんな季節だね」と思いながら、
「変化の割合のやつ?」と初めて声をかけました
生徒たちは「そうなんです、どうしてこのやり方で出るんですか?」
ここで初めて疑問形の言葉が出たので、
私は、「解の公式みたいに、文字で式を作れば証明できるよ」とだけ言いました
文字で式を作って公式を作る、ってそういうことだよね
どんな数値でもそれが成り立つことが、文字で証明できるよね、と

生徒たちは、自分の机に戻り、証明を始めました
次々と自分で完成させました

数学、たーーのしーーーー!!とひとりは雄叫びを上げていました

公式を先に教えることは、
教える方にとっても、教わる方にとっても、便利なことです
仕組みがよくわかっていなくても、公式にあてはめさえすれば、答えは出ます
小学校の算数の、図形の面積やら速さや割合やらから始まって、中学校も公式だらけです
塾と張り合っているのか、最近では、学校でも公式を徹底的に教え込む方法をとるところが増えたように思えます
一昔前までは、まだ、ゆっくりじっくり原理を教えようと、気づかせようとしてくれていたのに、最近では、より合理的に、最初に公式を教えて、あとは反復練習をさせる、と、まるで塾と同じような授業の進め方をしている小学校もあります

子どもたちはもちろん、意味もわからないまま、覚えさせられたことを習得するために反復しています
反復練習しているその姿は、いかにも一生懸命勉強しているように見えて、親御さんも安心なのでしょう
でも、実際には、自分の頭で考えているわけではありません
教えられた通りに同じ方法で行ったり来たりしているだけ
つまり、糸山先生のよく話される思考回路の構築の中で、1本道を行ったり来たりしているだけで、枝葉が広がらない、別のルートも作られない
だから、応用問題は解けるようになりません

小学生の間にそんなことをしていたら、12歳のシナプスプルーニングで「あまり使われていない」「複雑な思考回路」が削除されてしまいます
残るは単純に往復するだけの、応用力の利かない一本道のルートのみ

中学生になり、
応用問題に立ち向かおうと思って努力しても、どうしても前に進めない子が多いのはそのせいかと思われます
いくら解説しても、何時間もかけて教えて、その時はぱあっと明るい表情になって喜んで帰っても、次に会う時にはまた元に戻っていることもよくあります
イメージとしては、絶対に染みこまない小さなスポンジの上に、水を注いでも注いでも、すぐにこぼれてどこかへ行ってしまうような
スポンジが大きく、吸収力のあるものだったら、水を注げば注ぐほど、どんどん吸い込んでいくのに

クイズを出されて、うーん、わかんないな、と思ったらすぐに答えを教えてもらえるシステムだったとします
最初のうちは、うーん、わかんないな、という気持ちがすぐに解消されるので、楽しく感じるかもしれません
楽しいな、そういうことだったのか、わかって嬉しいな、もっとクイズを出されたいな、って
でも、
そんなのいつまで続けたいですか?

折り紙を折っていて、編み物をしていて、陶芸かなんかしていて、うーん、上手に作れないな、と思ったらすぐに、先生が代わりに作ってくれたり、直してくれたりするシステムだったらどうでしょうか
仕上がる作品は完璧です
でも、そこにどんな喜びが

一瞬、自分がわかったような、自分でできたような、錯覚もするかもしれません
でも、それが持続するかどうか
そして、それは本当に「自分がわかった」「自分でできた」のかどうか

少し考えたらわかります

子どもの場合特に、大人のように「試練」を自らに課せません
大人は努力の先に待っているものがわかることもあり、
いろいろなことを犠牲にしてまで頑張れたりもします
でも、
子どものうちからそんなことをしていたら、
健康な心や体が育つ前にそんなことを課していたら、
結局、ひ弱な心と体で大人になって苦労することになるでしょう

楽しく続けられるかどうか
それが子どもを導く上での判断基準です

でも、公式を教わらずに自分で導き出した子が
「数学楽しい!」って叫んだように、
どんな子もなるでしょうか

同じように「数値を文字に…」という私のアドバイスを聞いて、
「やってみよう」と思うこと、
そして、やってのけること、
そのとき、彼らの脳内に豊かに構築された思考回路がうごめく音が聞こえるようでした

どんぐりをやったら将来どんな子に育つの?
どんぐりをやることに意義があるの?
いろんなことを考える人がいるなあ、といつも思います

将来どんな子に育ってほしいか、とかいう大人のビジョンが明確なほど、
私には違和感があります

このメソッドで育てるとこうなりますよ、と明言しているメソッドで、「こうなりますよ」の部分が具体的であればあるほど怪しい、と私は思っています
誰もがみんな目指すべき具体的な目標など、存在しないのです
それが「偏差値が高くなりますよ」「よい大学に進めますよ」「よい会社に就職できますよ」「リーダーになれますよ」だとしたら、もっと怪しいです
全員が全員、それを目指したいわけではありません
それを目指したいのは、子どもの周囲にいる大人達ではないでしょうか
我が子がこういう学校に合格した、
孫がこういう学校に通っている、
教え子がこういう学校に行った、こういう職業に就いた
そう言いたい大人達の願望ではないでしょうか

子どもたちの人生は私たちの人生ではありません
彼らがどんな状況においても生き抜けるような健康な心と体と頭脳を
親は一緒に暮らす間に整えてやるんだと思います
先生は一緒にすごす短い間をそう意識すべきだと思います

そうすれば、子どもたちは自分の人生を自分で歩いていく
いつでも応援してくれて、いつでも認めてくれて、愛してくれる家族が、振り返ると笑っているから、堂々と、強く、前に向かって進んでいけるんです

それ以外に、私たちにできることはなんですか?
彼らが自分でできるようになるはずのことを、先に手を出して支えることですか?
彼らが自分でアイディアを見つけるはずのことを、先に提案して苦労を軽減させることですか?

最後に、市販のパズル問題集で有名な宮本算数教室の宮本先生と、『いま、ここで輝く』『プロフェッショナル』で有名になった「いもにい」との対談をご紹介します

保護者からの質問に答えていらっしゃるところが、わかりやすくて、響くかと思います
ぜひ、読んでみてください

DKRも教えない塾です
どんぐり学舎はもちろんですが

教えないのにぐんぐん伸びます
信じられないくらい、生き生きと
学校で脅されさえしなければ、もっと受験も楽しめるのにな、って思います
みんな学校で脅されて、キツそうです