『学びがわからなくなったときに読む本』鳥羽和久さん編著

第5章 「言葉」が生まれる教室
~甲斐利恵子さん(風越学園の国語の先生)と鳥羽先生との対談~
より一部抜粋引用

鳥羽先生
(前略)いまは、「うちの子には好きなことしかやらせません」という子どもに理解があるふうの親が増えています。でも、好き・嫌いレベルの解像度では、やりたいことなんてわからないに決まっています。大人だって自分が好きだと思っていることのなかには、嫌いなこと、めんどくさいことも混じっているはずなんですよ。あらゆる行為には快と不快が混じっているという考え方が精神分析の基本的な知見です。(注『自我論集』ジークムント・フロイト著 参照)親は、そのことを人生の実感として知っているはずなのに、子どものことになると「好きなことだけやらせる」と雑な話にしてしまう。
甲斐先生
大人は感覚的にわかっているからいいですけど、子どもはまだわからないですからね。幼いうちは言葉も溜まっていないので、「好きじゃないから、やりたくない!」と拒絶するのは普通です。でも、抽象的な思考ができるようになり、ものごとに深く入り込むことができる中学生ぐらいの子は、きっと好き・嫌いだけで自分の行動を決めちゃいけないなと、わかっているのではないでしょうか。
では、やりたいことを見つけるにはどうしたらいいか。それは、「乗っかってみる力」がすごく大事だと、私は思っています。自分がおもしろくなさそうだなと思うことでも、おもしろがっている人がいるということは、どこかに取っ掛かりがある。本気になって一緒にやってみて、おもしろがれたら、ラッキー。
「どうしてもおもしろがれない…」となっても、そのとき初めて「自分は他のことができます」「これだったらやってみたいです」という発見にもつながる。そうなったらもう全力で応援しますよ。
鳥羽先生
子どもが跳び込んでみることのできる環境は大事です。好きか嫌いかもわからないままに跳び込んでみる。最初は苦しくても、花火がパーンと打ち上がるように突然「好き!」がやってくることがある。でも、そういった苦しみのなかでしか味わえない、かけがえのない瞬間的な喜びを捨象して、大人は「好き・嫌い」だけの判断で子どもに伝えてしまうことがありますね。
甲斐先生
最近も、中2の男の子が「りんちゃん、俺ずっとラクなほうを選んできたんだよ。でもラクな毎日はつまらないと気づいた。きっと苦しいから、楽しいんだよね」なんて言ってきたんです。
鳥羽先生
すごいなあ。本質に触れるチャンスが多いと、そういう言葉が自然に出てきてしまうんでしょうね。

(引用ここまで)

鳥羽先生の「子どもに理解があるふうの親」という表現に笑ってしまいました
この本は鳥羽先生といろいろな方が対談している形に編集されていて、
珠玉の言葉や興味深い話題がたくさん
読み応えがありました

子どもと接している人の多くが…
親として、ではなく、わが子ではない子どもと接している人の多くが、
私と同じようなことを
この引用部分と似たようなことを
経験していると思います

「うちのこ、これ好きじゃないので」
「好きなことだけやらせたい」
「これ嫌い!やりたくない!」
「これ嫌い!食べたくない!」

たとえば教室でみんなでゲームしよう、ってなっても
「好きじゃない。やりたくない。」とひとり、本を読んでいる
本を読んでいてもいいけど、それって家でひとりでもできることで、
子どもが群れる機会が少ない昨今、こんなに安心できる仲間と空間で、
さとちゃんというおっちょこちょいなおばちゃんひとり混じっているけれども、
せっかくの機会じゃん、家に帰ったらまたひとりかきょうだいだけだぞよ、
って思うんだけどな

「好きじゃない」って言葉がよくないなあ
誰が「好きか嫌いか」で「やるかやらないか」を判断するよう教えたんだろう
ずっと前から思っていました
そして、この部分を読んで少し納得したのです

きっと苦しいから、楽しいんだよね

そんなことに気づける中学生がいるのはすごい!って感動もしました
でも、この言葉はとっても深くて、ただこの部分を読んだだけではその子が本当に言いたかったことは理解できないな
もっともっと話を聞いてみたいな
って思いました


「うちの子、こうなので」
という言葉には本当に長いこと悩まされてきました
親が去った教室や公園で、目の前にいる子は親御さんの説明していたその子とは全く違っていて

そのことについては何度も書いてきました
もちろん、そんな風に決めつけない親御さんもいますが

他人の前での様子と、親の前での様子が違うのは当たり前だし、
どちらが本当のその子なのか、っていうと、どちらも本当です
でも、どちらかが手のつけられないほど困った状態で、
もう一面は素直で従順であるとき、
その乖離が激しいときは、その子の中の葛藤を見いだしてあげたいものです
親子の非常事態と言えます

子どもが家で荒れているのを悩んでいる親御さんもいて、
その逆で、
親には従順だけど学校では誰かをいじめていたり、教師に反抗的だったりする場合もあり

いずれにせよ、子どもが何かを訴えている、苦しくて、もがいているに違いないわけで

子どもが選んだり拒んだり
つかんだり手放したりするのを、
好きか嫌いかで判断せず、
特に気にせずいてほしい

でもね、
なんで大人が、子どもの好き嫌いにそんなに関心を寄せるのか、
それ自体に私は疑問があるのです
昔の親はそんなに興味をもっていたかなあ?って
もっと放っておかれたから、自然と好き嫌いが浅く広くなっていたような
好きみたいだから習わせよう、
好きみたいだから買ってあげよう、揃えよう、って
簡単にはならない時代だったからなのか、
それ幸い、好きでも嫌いでも、そんなの最初からわかるわけない、って
今でも思っていて

糸山先生の理論「出る杭は出る」という言葉が本当に大好きなんです

出る杭は打たれる、ではないんです
出る杭は出る
なんですよ

親が、子どもの「好き」を拾い上げて、一生懸命「ものにしよう」としても、
出ないものは出ませんが、
そんなこと親にしてもらわなくても、出るときは出る、ってことです

だから糸山先生は、
子どもの発達上、その時期にしか育たない部分を育てずに、それを犠牲にしてまで他を優先するのは違う、と言っていました

あとで育て直そうとしても、育たない部分です
それを差し置いて、親の意図で子どもの「好き」を勝手に強引に拾い上げて、
無理に伸ばそうとしても、出ないものは出ないんです

その代償の方が大きく、取り返しがつきません
それなのに、
ある年頃になると親御さんたちは忘れてしまう
子どもが勝手に「そうなった」と言い出す

あんなに子どもの自由意志を制限していたのに
決めつけていたのに
進化上、発達上、その時期にそんなことしちゃいけない、ってときに、
おもいっきりやらかしちゃったのに

違った、と思ったらやりなおして
まだ許してくれる間に
まだ、親との世界が全て、という幼いころに
許してもらって一緒にやり直せばいい

親だって初心者で、失敗して当然
怖いのは目の前の小さな人間を、
未熟でまっさらで全て整えてあげないとならない、という思い込みです

違う
違う
子どもはそんな生き物じゃありません
子どもは私たちを親にさせるためにやってきた存在です
親が偉そうに操作できる存在ではありません

それを、忘れないでください

語彙力の少ない子どもが
好きとか嫌いとか言っても、いちいち拾い上げなくていいです
華麗にスルーで

形容詞は本当に獲得が面白い
子どもが獲得するさまが、本当に興味深いです
大人は振り回されず、楽しんでください

形容詞の話はまたいつか