
どんぐり倶楽部良質の算数文章問題 3MX45
今日は、カードのトレード大会があります。カメ虫健太君は、3枚で2枚のカードをゲットしようと
思っています。健太くんは、50枚のカードを持っています。では、健太君は最高で何枚のカードをゲットできるでしょうか。
カメ虫健太くんの手持ち50枚のカード
交換する誰かさんの描写
そして「3枚と2枚をトレードする」ということの、全ての描写(矢印が最高!)
しっかり数えていくと、残りが2枚になってしまい、3枚には足りないのでトレードできない、という描写
そんなわけで、交換したカードを数えると、全部で32枚だった、という正答を出しています
誰が見てもわかる、誰が見ても思考過程や、正解が導かれる過程が見える、素晴らしい作品です
昨日は「わいわいどんぐりオンライン」の、今年度の初日でした
普段、家でおうちどんぐりをしている子が、画面越しではありますが、私と一緒に、仲間と一緒にどんぐりを解きます
それぞれが問題とクロッキー帳を用意して、最初、ちょっと遊んでから、どんぐりタイムを一緒にしています
今年度は日数を増やし、やむを得ず欠席した場合の振替ができたり、きょうだいが別々の日にエントリーできたり、と余裕を持たせる設定にしました
昨日は何年か継続している子と、全く初めての子とが混在していて、教室でもそうなのですが、私や、クラスに慣れている子が本当にいい空気を作ってくれました
初めてわいわいどんぐりに来た子達は、最後までつないでいて、みんなの作品を私に「じゃーん」と少しだけ見せるのですが(細かい添削は後日メールで画像を送っていただき、するのですが)そのとき、とても興味深そうに見ていたのが印象的でした
そう、こんな風に、全国に仲間がいるんだよ~って教えたくて
誰か他の子の作品を「こんな風に解きなさい」と見せることはよくないんです
もちろん親子どんぐりで、親が手本になるような解き方を見せるのもいけません
親子でも、仲間でも、全く違う問題にそれぞれが取り組むのがいちばんです
でも、やはり、教室では自然に他の子の作品が目に入るわけです
子ども同士、自然と影響し合うのはいいかもしれないなあ、と思うことはこれまで何度かありました
大きい子のどんぐり作品をちらっと見ては影響を受けて、
ふーん、って思うだけなんだけど、なんだかいつかのタイミングでふっと思い出す
そのくらいの影響なのですが、それが仲間で取り組む良さかな、とも思います
そんな教室の環境を、少しでも遠くて通えない仲間たちとも共有したくてはじめたわいわいどんぐりです
さて
この作品が送られてきた頃、私は頭を抱えながら資料の山に埋もれていました
起きている間ずっと考え続けている案件があり、
昔読んだ本をもういちど引っ張り出して読み返しているところです
数学者・遠山啓先生の『数学の学び方・教え方』第1章より 一部抜粋引用します
小学校以前の子どもにとって、たいへんわかりやすい量があります。非常に幼い子どもでも大きいお菓子と小さいお菓子があったら大きい方を選ぶという知恵を持っています。このように二つのものを比べて大きい、小さいを知るということが量の出発点です。
子どもは言葉を知るようになると、「大きい、小さい」が早くからわかります。これは体積という量へ発展する萌芽です。あるいは「暑い」「寒い」「冷たい」という言葉がわかるでしょう。これは温度という量への出発点であると考えられます。また「長い、短い」という形容詞を理解することは、長さという量へのきっかけであるとみられます。
私たちは大きい小さいとか、熱い冷たいとか、長い短い、重い軽い、速い遅いなどの形容詞をたくさん知っていますが、これは量が多種多様であるということと関係があります。このような形容詞は比較ということが前提になっています。その点では日本語よりは英語などのほうがはっきりしています。たとえばlarge,larger,largestというように、形容詞で三つに変化するものがあります。原級、比較級、最上級と変化することはそのことを物語っていると思います。
私たちがこのように多くの形容詞を身につけているということは、量というものが人間にとって根源的であることを意味しています。「数」がまだ出てこないまえから、「量」を知っていることは、それらが私たちの生命を維持していくために、欠くことのできないものであり、食物の大きいほうを取るということも、生命維持のための知恵だと思います。暑い寒いというのは、環境が夏から冬に変わっていくのに、これを知らないと生命の維持に支障をきたすからでしょう。刻々変化する環境のなかで、それに無関心では生きていけません。つまりそのときどきの環境の変化に適応することが必要です。
数学の本のはじまりに…すごい文章が載っています
最初に読んだ当時はする~っと読み流したのだと思います
そうだそうだ、と思いながらも、そうひっかかることもなく
でも、昨今、このあたりが危ういです
そうだ、たくさんの形容詞を覚えていればいいのだ、とでも勘違いしているのか、
ただひたすら言葉を覚えさせる教育法があります
量を体感するよりも先に数字を教え込み、計算をさせる教育法もあります
この1章の前の序章では、いかに日本の算数教育が間違った方向へ進んできてしまったのか、この本が書かれた1972年時点でのそれまでの歴史、その問題点が明記されています(これは私も別のところで勉強して、知っています)
でも、遠山先生はそのさらに前の「はしがき」の冒頭、まさにこの本の1ページ目で、こう記しています
いろいろの教科のなかで、この差別、選別の手段としてもっとも多く利用されているのが数学です。そして数学のできる、できないが、頭が良いか、悪いかのものさしになる、という誤った考えがひろがっています。これは、数学教育の研究にしたがっている私にとって、たいへん残念なことです。
数学はもちろん、そのはじまりである小学校の算数も、決してそのようなものではなく、適切な教え方さえすれば、すべての子どもに理解できるはずのものなのです。
もともと数学は単純な学問で、急所を徹底的にわからせることができたら、どんな人にもわかるようにできています。しかも急所に当たるところはそれほど多くはなく、1学年に、せいぜい、2カ所か3カ所しかありません。その数少ない急所に十分の時間をかけて教えさえすれば、あとの細かいことをごたごたと詰め込む必要のないものです。
(中略)
いま、子どもたちを「早く答えを出せ、早く答えを出せ」といってせきたて、子どもたちを爪先立たせ、浮き足立たせるような教育が支配的です。そんな必要はないのです。ゆっくり歩いていっても決しておくれることはないのです。
現在、上の学年にいけばいくほど「算数ぎらい」「数学ぎらい」の子どもが多くなっています。
がんらい、幼い子どもにとっては算数は人気のある教科なのです。
この本が出版されたとき、私はまだ産まれていませんが、「いま、子どもたちを…」って…
算数教育の課題が長く研究されているのがわかります
そして、最近では非認知能力という言葉も出てきて、
私自身、たくさんの子どもたちと過ごしてきて、それを体感、痛感してしまうできごとはたくさんあります
早く計算させて、早く言葉を覚えさせて…とやっている保護者の方や、習い事の先生方は、本当に子どもの特性を熟知しているのでしょうか
習い事の企業は、恐らくそんなことよりも生徒さんを集めるために保護者さんたちを惹きつける情報を見せて、集客するのでしょう
保護者さんたちはそのような情報を得て、我が子の教育に必要だと思って任せるのでしょう
でも…
話が逸れました
私が寝ても覚めても考え続けているのは、こういうことです
きっとまだまだ考えはまとまらないと思いますが、
ときどきそんな状態の脳内をここに書いてみようかな、って思っています
もし、一緒に考えてくださる方がいたら嬉しいです
もう、おわかりかと思います
数学者の方も序章や第1章に書いているのです
必要なのは、数字や数式を教え込むことではありません
たくさんの形容詞を暗記させることでもありません
体験ありき、
なのです
ただ「大きい」「長い」だけじゃないんです
何かと比べて、「わあっ!!」って思って、その言葉を体感するのです
体感すると自分のものになるのです
ああ、比較して、獲得した、という体験に
体験が、言葉につながるのです
座学や、小さな本やノートの中の世界ではなく、
子どもが全身で受けとる体験なのです
非認知能力が低い(これは、本当に中高の勉強に支障が出ます、間違いなく)原因も、
糸山先生がおっしゃる「人為的学習障害」が大半なのではないかと私は思っています
体験がない
言葉や数字や数式を詰め込む
学び取ろうとしない
察することができない
与えられる知識や、解法を待っている
それは
つまらない
だから勉強なんかしたくない
させられている間はするけど、
成績はとれるかもしれないけど、
それは、
生きる力にならない
中学生になって、
自主的に勉強しない、って急に言われる
子ども時代は手取足取りだったのに
急にそんなこと言われても、ねえ
遊びだって自由がなくて、作られたプログラムで遊ぶだけ
夢中にさせるプログラムになっているから、なかなか抜け出せない
自分で遊びを考えるよりずっと、プロの作った遊びに乗っかってるほうが楽しいから
そう思い込んでいるから
脳が、それ以上のことをしないようになってしまうから
それは人為的では
子どもが勝手にそうなったわけではないと
近くにいたら、
一緒に暮らしていたら、
きっとわかるはず
わかっているはず
私は糸山泰造理論と遠山啓理論を併せて学び直し、
算数のはじめのいっぽを間違えないで選べるようなものを、
選択肢をひとつ、作りたいと考えています
高校数学から落ちこぼれた私が
数学の専門家でもない私が
私だから見えること、私だから考えることができることを、
形に残してみよう、と