以前から、「教えない授業」というワードにはアンテナを立てていました
私自身、もう長いこと、意地でもその手法を貫いているわけですが、
実際には、「教えられることに慣れている子」たちの方が世の中には多いので、
大変苦労しているのが現実です
子どもたちは、
いったいどこで、「教えられることに慣れて」しまうのでしょうか

それは、家庭内であり、学校であり、遊びの中でさえも、なり得るのです

教えられることに慣れていると、
自分で考えようとしない、または、自分で考えようとしてもそのエネルギーが不足しているため、考え続けることができません
エネルギーの不足はすぐに補うことができません
たとえるなら、エネルギーをためておく容器の大きさが、すでに固定されてしまっている状態です
大きな容器を持った子にはエネルギーを充填する余裕があるし、小さな容器の子はエネルギーを満タンにしてもすぐに空っぽになってしまうのです
エネルギーが空っぽになってしまえば、集中力も続かないし、考えようとすることもできません
そういう子は、一見すると、「集中力がない」「粘り強くない」「適当に流している」ように見えます
そして、大人はこう決めつけます
「やる気がない」
さらにこう諭します
「頑張れば、できる!」と

職業柄、私は、少しの間一緒に勉強するだけで、その子のエネルギーの容器の大きさがなんとなく見えてきます
私の立場では、どんな子でも、その子の可能性を最大限に生かす方法を一生懸命に探し、その子が将来、自分の足で立って自力で生きていくことを想像しながら、あの手この手で導きます
3分しか集中できない子には3分でできることを、3分もあるじゃないか、と
でも、
親御さんや、学校の先生は、なぜか、当人以外の子どもと比較したり、自分の中での「こうあるべき」と決めつけた姿にその子を近づけようと必死になってしまいます
そんな様子を見ると、私は心の底から思うのです
「容器をこしらえたのは、あなたたちじゃないですか~」

少し前まで、容器をスポンジと言っていたので、
以前私が書いた文章にはスポンジで出てくると思います
どっちでもいいです
どっちも同じです

要するに、子どもは、ある程度の時期まで、空っぽの容器を作っています
以前の言い方なら、乾いたスポンジです

容器を作っている途中に中身を入れようとしたら容器が大きくなることはありません
スポンジも、まだ大きくなろうとしているところで水を含ませることはしません

ある程度の時期で、容器やスポンジは大きさを決め、そこからは中身を入れたり出したりを繰り返すことになります

その時点で、容器やスポンジの大きさは固定されますから、容器やスポンジが小さい場合はキャパシティは少ないことに、大きければ多いことになります

正直、あとでその大きさを変えることは不可能だと私は経験上確信しています

容器は、どこで作られているのかというと、脳内や心の中だと思います
もちろん、これは比喩ですから、実際にそういった臓器が存在するわけではありません
私の中で考えていることをわかりやすく表現するために使っている比喩なのです

私がこのことに気づき、その子の持つ容器の大小によって勉強法や指導法を変えなくては、と思ったのは、今から四半世紀以上前、新人塾講師だった頃でした
「思った」だけで手探りでしたから、本当のところはどうなんだろう…とそれから色々と自分なりに調べて考えてきたのです

そこからは、何度もあちこちで書いている、進学塾で気づいてしまった「中学生では遅すぎる」理論に繋がるわけですが、その部分は今回は割愛し…

誤解を招かないようにここで一応書きますが、「遅すぎる」っていうのは一般論的な言葉であって、私の意見ではありません
わかりやすく表現しているだけです
中学生からでは救いようがない、とか、手遅れだ、とか、そういうことを言いたいのではありません
でも、どうしても、最初から丁寧にやっておけばよかったのに、という、積み木やレンガを積み上げるような、ボタンをかけ間違えないように気をつけて止めていくような、そんなイメージを持っていただきたいのと、じゃあ、中学生で容器が小さい子の場合、お先真っ暗なのか?と言ったらそんなことはありません
私が伝えたいのは、そういう状態の子に、その子の容器以上のことを強いることはどうなんだ?ということです
無理強いしておいて、できないとなると、その子を責めたり、低評価したりする、そのことに対して、訴えたいのです

だって、
また厳しいことを書きますが、
その容器をこしらえたのは、その子の周囲にいる大人達だからです

自分たちでこしらえておいて、その容器以上のものを無理矢理つかませようとしても、子どもは苦しいだけです

随分前から、「教えない授業」は各所で話題になっています
でも、
「勉強とは教わること」だと思い込んでいる子どもたちにとっては、そのような授業についてはピンとこないだろうなあ、と思います

たとえば私の中学部の教室D→K Roomではどんな授業をしているのか
うーん
授業はしていないと言うべきなのか…

きっかけをちりばめているといえばちりばめているけれど、
私から何か与えるような授業はほとんどすることはありません

私は、こうして文章を書いたり、教材を作ったりすることが好きなので、教室は宝の山です
それに気づいている子がいるかどうかは不明です
中1から中3まで、全く同じ教材を、毎週手渡しています
ずっと、全部、高校入試が照準なので、学年ごとに違うことをする必要はないのです
自作教材が多すぎて、そのことについてしゃべりたくてしょうがないので、塾生専用の限定YouTubeチャンネルを作っています
教室ではしゃべりきらないので、YouTubeでしゃべっているのです(笑)
いつ見てもいいし、何回見てもいい
見る、っていうか、聞くんですけどね
だから、今は、教室で、英文法の解説をしたり、英語の教科書本文の訳を説明したり、数学の難問解説をしたり、古文や漢文を読んで解説したりするようなことはほとんどありません
それら全てを、YouTubeにアップしています
今は、期末テストが近づいているので、期末テスト内容に関する話をします
期末テスト範囲を見せてもらうので、その範囲を見て、このタイミングでやっておくといいぞ、っていうことをアドバイスします
勉強法を知りたいという生徒には勉強法を何種類か提案し、Qノート (わからん帳)をしっかり提出する子には、毎回解説を書いて返却しています
質問されると、本棚の参考書を出し、「この索引をこういう風に使ってこのページを見るとわかるよ」と実際に一緒に開いて見せています
ひとりでできるようになることが1つでも増えることが目標なのです

自分で考えようとしている子に、教えることは何もないのです
勉強法のアドバイスさえ、本当は必要ないんだよね、って思いながら、言いながら、しています
だって、誰かが考えた勉強法が、自分に合うかどうかなんて、わからないから
だから、何通りかの方法を提案しているのです
それに、自分で方法を考えてごらん、と投げかけるのです
実際に試してみて、いい、と思ったら続けて、違う、と思ったらまた一緒に考えよう、と

そんな中、どの子にとっても必須だと確信しているのが、Qノート(わからん帳)です
最近では、学校でも同様のノートを作成させて提出させるようで、驚いています
学校用に作るならそれでもいいのです
でも、
どこかに提出するために作るのではないのです
自分を知るために必ず必要な作業なのです
自分のために作るのです

Qノート(わからん帳)についての詳細は何回も書いているけどまた近々他に書くとして、
とにかく、自分で考えようとしている子は、容器が大きいのです
容器の中で泳ぐ余裕すら感じることがあります
自分で考えたいので、自分で情報を探します
たとえば、問題集を解いて、答え合わせをする様子を見ていると、解説を読んで、じっと考えていたりします
それで、もう一度解き直したりしています
誰に言われなくても、です

考えない子は、○か×かだけつけて、解説は読みません
自分で解説を読もうともせず、「わかりません」と聞いてきます
聞いてくるならまだいい方で、
わからなくても素通りしてしまう子もいます
そして、自分で考えようともせず、ただ聞いてくるだけの子にいくら解説をしても、びっくりするほど定着しません
だって、自分でつかみとろうとしていないのですから
いくらボールを投げたって、受けとろうと腕を前に出しもしていないのです
その習慣が、ないのです

まるでゼンマイ式のおもちゃみたいに、
私が寄り添っている間は私がゼンマイを回し続けているから絶好調で解いているのですが、私が離れると途端に力をなくし、ゼンマイが止まってしまうように思考停止する子もいます
私は、どうしたら私と離れても、自力でゼンマイをまき直すことができるか、あれこれ試しますが、やはり、なかなか難しいのが現実です

小学校に入る前に自分の名前くらい書けないとね、なんていう母親同士のおしゃべりを耳にしたのが数十年前、今では、漢字や計算も先取りしてなんぼ、みたいな情報が飛び交っています

いいのかなぁ…容器はまだ大きくなろうとしている途中なのになあ…止まってしまうよ~と私は思います

勉強はいいのいいの、うちはスポーツをしっかりとさせたいのよ!と何かしらのスポーツ教室通いを園児時代や、小学校低学年時代から始める家庭もあります

いいのかなぁ…型にはめて…容器はまだ大きくなろうとしている途中なのになあ…
私はまた、内心思います

賑やかなテレビ、音楽、わくわくするような動画、刺激的な大画面で小さな子どもたちの繊細な感覚器官や脳を刺激して一緒に喜んでいる家庭もあります

大丈夫かなあ…豊かに育つはずの繊細な脳や心の部分が、貧弱に育ってしまわないかしら…まだまだ容器は大きく強くなろうとしているのになあ…
と、私はまたまた思います

しまいには、
自らの手足を動かさなくても戦いに参加できて、冒険に出られる小さなゲーム機が、子どもの心と体を勘違いさせていきます

やばいなあ、その全知全能感…だいじょぶかしら…
と私は胸が苦しくなります

そんな、ありふれた生活習慣の中で、子どもの容器の大きさは確定されていきます
思考の臨界期とも言われるある時期で、その容器を大きくする作業は止まります
その後はそれぞれの大きさの容器を持って、
子どもは、自分の人生を生き抜いていくのです

たとえば大きな家と小さな家とを比較したら、そりゃあ、大きな家の方が広々していて、収納もたくさんあって、快適で、ゆとりを感じることでしょう
小さな家は窮屈で、不便かもしれません
でも、
いずれにせよ、それが我が家なら、その家を、それぞれが大切にして生活していけばいい

小さな家の人が大きな家の人を一生うらやましがり続け、
大きな家の人が小さな家の人を一生蔑み続けるなんて、
そんな悲しい人生はいやですよね
狭いながらも楽しい我が家~♪なんて歌が昔あったそうですが…

でも、大きな家か、小さな家かは、ほとんどの場合、それぞれの経済的事情がからんでくるわけですが、
私が見てきた子どもたちの「容器」の大小に関しては、
経済的事情は関係ないのです
むしろ、経済的に余裕があって子どもにあれこれ買い与えることができたり、行き届いた「教育」を購入することができたりする方が、注意が必要です
そして、
親御さんが「あれがいい」「これもいい」「あれもやっておかなくちゃ」「これもやらせておかなくちゃ」と一生懸命であればあるほど、自分で考えない子どもが育ってしまうという悲しい実例も少なくありません

だってそうでしょう
自分が子どもだったら、と想像してください
自分で考えて、手を伸ばし、何かを動かそうとします
その自分の手より先に、誰かの手が伸びてきて、「はいっ」と親切にも先にとって手渡してくれたら?
そんなことが数回続けば、
次からは自分の手を動かすことなく、その誰かの手がとってくれるのを待つようになるでしょう
自分で考えるより先に、誰かの手や言葉が出てくる、それが習慣になったら…

だから
小学生ではどんぐりしかやりません
どんぐりだけでこの恵まれた(子どもにとっては過酷な条件が増えた)現代の暮らしを補っています
便利になりすぎて、思考力を使わなくなったこの時代、
その便利を自分の中に上手に取り込めるのは、思考力のある人だけなのに、
こんな時代なんだから乗っかっちゃえばいいんだよ、という子どもへの誘惑も後を絶ちません
いいえ、
どんなに最新機器が登場しても、どんなAIが生活に入り込んできても、それをただ使いこなすだけでは、いつか使われるだけの物になってしまう
人間が考えることをやめたら世界は終わってしまいます
子ども時代だけは、最初からそれらありき、で暮らさせてはダメなんです

でも、実は塾講師としてはどんぐりっこが中学生になるとさみしいくらいです
本物の思考力を手に入れたどんぐりっこたちは、私のことなんか不要なんです
あ、いたの?って感じです(笑)

なんか質問ないの?質問してよ、ってわざと難しい問題を渡したりするのですが、ヒント言わないで!自分で考えたいから何にも言わないで!って追いやられます

だから私も一緒に勉強を続けます
ねえねえ、この問題、他に解き方ないのかなあ、とか聞くとひっかかってきます
ようやく相手をしてくれます
そうだなあ…
って

私が教えることなんか、なにもない
もし、転んで、助けて、って手を伸ばしてきたら、よしきた!と抱き上げてあげる
その準備をしているだけです

それなのに、多くの親御さんや、多くの学校の先生達は、転ばぬ先に手を伸ばし、
子どもたちのことを「どうせ自分で考えないんでしょ」と思っているかのように、
宿題や規則で牛耳って、エネルギーを浪費させています
もったいないなあ…
それでは、伸びるはずの能力も伸びないまま埋もれてしまうよ…
私はまた胸が苦しくなるのです
せっかくのハイブリッドブレーンのどんぐりっこDKたちだって、この宿題さえなかったら…もっと自分でしたい勉強があるだろうに…と思います(それでも、なんてことなくこなしてしまう見事なDKさんもいますけれどね)

子どもたちの無限の可能性を、
どこまでも大きくなるはずの容器を、
せめて気づいた大人達だけでも、
守ってあげることを始めませんか