この本を読んで、一番知りたかったことは最後の最後の「6章」と「付録」という部分に少し書かれていました

『第6章 学習のつまずきの原因』には、
全部で7つの原因が例を挙げながらまとめられています
そして、まとめの部分で「これらの原因の対処の仕方について具体例も含めて述べるのは、それ自体で一冊の本のボリュームを必要とするので、別の本で書かせていただきたいと思う」と書かれています
それはとても楽しみです
一部を引用して紹介します

原因1 知識が断片的で、システムの一部になっていない
子どもたちは足し算の計算をする手続きは知っている。しかし、足し算の手続きの「意味」はよくわかっていない。また、足し算と引き算の関係もよくわかっていない。
四則演算の知識がシステムになっていないことによると考えられる。かけ算の本質はかけ算だけ学んでもわからない。かけ算が足し算、引き算、割り算とどういう関係にあり、どう違うのかを理解していなければ、かけ算を適確に運用して問題を解くことはできない

どんぐり倶楽部良識の算数文章問題は計算式から解く仕組みではなく、私の教室どんぐり学舎では3年生まで「計算は書かない約束」をしています
でも、学校で計算を習うと使ってみたくて仕方ない子どもたち
絵が描けているならいいよ、と言うと、計算式を書く子もいるのですが、これが、計算を封印して絵で表現し続けた子が必要に迫られてついに計算を使うときとはちょっと意味が違っていて、正直、計算する意味がないような状態
自分の描いた絵と、計算式とが連動していないというか、ただ漠然と習った式を書いて習った手続きで数値を導き出しているだけというか…それって、ただの計算練習じゃん、っていう状態なのです
新しく習ったことを実践してみたいのはわかるのですが、加法の符号の意味や等号の意味をしっかりと体得して使っている子はほぼいなくて、それはなぜなのかな…と考えると、学校ではただ計算の方法を教えて、練習させて、ただの技術だけを習得させようとする目的が先に立つからなんじゃないかな、と思うのです
どんぐりっこあるあるで、「計算が遅いとバカにされた」とか「某計算塾に行っている子は頭が良い、僕は頭が悪い…」と落ち込むとか、よく聞きますが、それは全くおかしな見解であることはどんぐり理論を理解している大人ならわかるはず
だから、全力で否定していいんです
そんなことはないよ、計算の意味を考えながらゆっくり丁寧に少ない問題を正確に解ける方がずっと頭がいいよ、ってね
以前ホリエモンさんが、小学生の時にやたら計算が速いクラスメイトがいて、どうしても勝てなくて、悔しくて理由を探ったら某計算塾に通っていることがわかり、対抗しようと自分も試しにそこへ体験授業に行ってみたら、なるほど、と納得
こんなトレーニングしたら速くなるだろうけど、オレには必要ないな、と理解して、入塾はしなかったという話をしていました
計算の意味も考えず、深く思考せず、ただひたすら、スピード勝負をしていた、と
その塾の使い方にも個人差がありますが、ただ速いだけ、ただ先取りするだけでじっくり考え、理解しながら進めてこなかった弊害を抱えた生徒を何人も見ているので、ホリエモンさんが目にして理解した状況が目に浮かびました
その塾が悪いのではなく、ただ速ければいい、ただ先取りできればいい、ランクアップすれば頭がいい、と短絡的に勘違いしている利用者の問題なんだろうと思いました
それで満足ならその人はそれでいいんだと思いますが、計算の遅いどんぐりっこをバカにするのは間違っていますよね

原因2 誤ったスキーマを持っている
割り算では6÷2とか12÷4のような、割り切れて答えが整数になる数同士の計算が最初に導入される。すると、子どもは、割り算は、必ず割り切れるというスキーマを作ってしまう。
いつも易しい計算手順、易しい概念から順番に教えていくと、子どもにとっては永遠の後出しじゃんけんが続くことになる可能性がある

「答えがヘンなんですけど」と言ってくる子がいます
中学生になればもっと抽象的になるのに…
でも、小学生の間はテストのタイトル(「小数の割り算」とか「分母の違う足し算」とか)に合わせて計算していれば解けたわけですから、最初から解き方を自分で考えるなんて至難の業です
さらに、答えが割り切れなかったり分数になっちゃったりすれば、あれ?ってなる
でも、これも、どんぐり問題を解いている子は不思議にも思わないみたいで
問題もヘンテコだし、答えもヘンテコ
そんなの慣れっこなんでしょう

原因3 推論が認知処理能力とかみあっていない
考える力の弱さ
ここでいう「考える力」とは「認知処理の負荷をコントロールしながら推論をする力」と言い換えられる
推論そのものができないのではない
子どもたちの間の個人差は、推論ができるかできないかということによるのではなく、認知処理の負荷に対処して推論ができるか、負荷に負けて推論ができなくなってしまうかというところから生まれている
難しい問題で正答していた子どもたちは、図を描いたり補助線を引いたり、頭に置いておかなければならないことをメモしたりして、認知処置の負荷に対処する工夫をしていた

小学生でどんぐりを結構ちゃんとやっている子も、
学校のテストだと補助線ひとつ描かないし、もちろん絵図も描かない
描いちゃいけない、と先生にいわれている子もいました(なぜ…意味不明!)
中学生になればもっと描かなくなります
中学生には文章題だけじゃなく、図形の問題と関数の問題を質問に出すときは必ず図や座標を大きく描いてから自分で解いてみて、それから提出するように、と話していますが、ほんとに、ほんとーーーに意地なのか?ってくらい描きません
言われてやっと描くくらい
でも、
最初から自分から描く子は、毎回描くので、どんどん理解の差が広がっていきます
図形の問題を解くのに、図形を描かずに数字とにらめっこしてるだけ
関数で出てくる動点の問題などは、図形と座標平面を両方描いて自分でアニメーションしないと理解が難しいのに、やっぱり数式と数値をじーっと見ている
今や、動画解説でご丁寧に動く動点問題の解説もありますが、あれを見ていたって理解はできません
大切なのは自分の頭の中で、動いていないものを動かすこと
どんぐりでいうCMCCのM moveです
描く習慣を止めない子はどんどん深い理解へと進んでいけるので、実際、テスト中に全て絵図にして丁寧に解いているかというとそこまでしなくても、その時には脳内で自在に再現できるのでテスト中も時間がかからず問題が解けるのです
練習のときに時間をかけて丁寧に実際に再現しているからです
先日、大学生の長女の家に行ったとき、机の上に書きかけのレポートのようなものが広がっているのが目に入りました
かわいい某野生生物の絵がいくつも描いてあったので、なんだろうな~と思って聞いてみたら、英語の論文を読まなければならないのだけれど、読みながら自分で理解するためにイラストとメモをしているんだ、と言っていました

原因5 行間を埋められない
「1枚の画用紙からカードが8枚作れます。45枚のカードを作るには、画用紙は何枚いりますか」という問題は、「45÷8=5あまり5」という式と答えは出ているのに、5枚だとカードは40枚しかできないから、あと5枚カードを作るためには画用紙があと1枚必要で、だから合計6枚になる、という結論に持っていけない
文章題がうまく解けない子どもは、文章に描かれていないことを補って自分で状況のイメージを作ることが苦手なのである

言うまでもなく、これはどんぐりの世界では必須のこと
絵を描いていれば、自動的に6枚必要だと見えてしまうから、式など書かずに「6枚」と、年長児でも描くのですが、これが小学校高学年でも計算式で求める子は、間違えます
5あまり5枚、などと答える子もいます
計算が脳内を侵略してくる感じでしょうか…
上にも書きましたが、なぜ計算が最強だと思いこんでしまうのでしょうか
計算の手続きなど、それこそ年長さんに教え込めばできるようになります
ただし、その意味を深く理解させることができないので絶対に年長さんに計算など教えません
教えることの弊害が恐ろしくてできません
絵を描く前に数字を覚えてしまった子のどんぐり、思考力の進化の難しさも目の当たりにしています
「自分でイメージを作ることが苦手」と、この本でも分析されているのです

原因6 メタ認知が働かず、答えのモニタリングができない
自分の「読み」が理屈に合っているかどうかモニタリングができていない
この答えがおかしくないかどうか、ちょっとでも確認すればわかるはずなのに、それをしようとしない
ある単語に目がいくと、それをキーワードにして勝手に読んでしまうということは算数文章題以外でもいわゆる「学力が伸びない」子どもに随所で見られた

どんぐり問題では絶対的な違和感があるはずなので気づく子の方が多いのですが、それでも、「全員で100人」って言ってるのに答えが500人になったり、「赤が青より6人多いです」って言ってるのに「赤10人、青10人」とかって書いていたりする子もいます
中学生になるともっとです
中学生になると、答えがおかしいかどうか検証する余裕すらなくなってくるかのようで、自分が何を計算しているのか、何を求めようとしているのかもわからなくなって、とにかくそれらしい数値が出たら書いてしまおう、という勢いのようなものを感じることさえあります
私は中学生にも、「これはどういう意味で書いてる?」「この式の意味は?」などととことん聞くのですが、答えられない子も多いです
小学生と同じで、計算の手続きだけは練習で身につくので、方程式も器用に解くのですが、深く理解していないのでちょっとアレンジされるとお手上げです
そんなことにあとでなるくらいなら、最初からしっかりと理解しようと頑張ればいいのですが、学校が急がせているのか、意味もわからず作業のように解いてあとでこんがらがる子はどんどん増えているように見えます
深く考える習慣をやめない子はまた、絶対に意味のわからないことはしない、と心に決めているので、思考も理解も深まるいっぽう、これまたどんどん差が開いていきます
何を聞いてもしっかりと意味がわかっていて、わからないことは必ず聞いてくるのです
そういう子の質問には簡単に答えることができないことが多いです
とても深くて、大切な質問なので、私自身も心身を清める思いで真剣に解説します

原因7 「問題を読んで解くこと」に対する認識
何のために算数を学ぶのかがわからず、算数の意味を感じ取れていない
学習性無力感に陥っている子どもが少なからずいる
これは単に「やる気の問題」でもない
「マインドセット」「非認知能力」が発達していない子どもが陥るのか?そんなことはない。ほとんどの子どもは、もともと学ぶことが好きで、算数が好きなのだ。小学1年生はこれから自分が学ぶことに期待に胸を膨らませて入学する。しかし、学校の勉強はどんどん抽象度を増し、難しくなる。つまずく子どもは頭が悪いからつまづくのか。そうではない。抽象的な算数の概念と自分のスキーマがぶつかって混乱するからつまずくのである。

同じ条件で、同じように学校の授業を受けても、「学習性無力感」に陥ってしまう子と、陥らない子といます
また、同じ学校の授業でも、陥らせやすい授業をしてしまう先生と、陥らせない先生といたりもします
たとえば以前、漢字が大好きで、習う前から難しい漢字を書いてみたり、新しい漢字を作ってみたりして遊んでいた子がいました
私にもいろいろな漢字で作った言葉を見せてくれたりして、学校で習う前からこれだけ興味があるとあとが楽だろうな~となんとなく思っていたのですが、高学年になったとき、担任がその子の書く漢字のほとんどに朱書きで直しをいれ、あるとき、テストがほぼ0点だったことがあり、それ以来、その子は一切漢字に興味を持てなくなってしまったのでした
担任が朱書きしたのを見ると、とめ、はね、はらい、つきでている、つきでていない、などなど、今は文科省が「そこまで指摘しなくてよい」とおふれを出して緩くなったことはなった部分ではありますが(相変わらず厳しい教師はいる)当時は直されるのが普通で、その担任がやけにその子に厳しかったのか、こてんぱんにやられたのでした
親御さんもがっかりして一緒に落ち込んでいました
私も、傷ついたその子を見てその教師を一瞬恨みました

でも、

でも、

それでその教師のせいで漢字が嫌いになり、学ぶ意欲も削がれ、そのまま勉強嫌いになったその子は、それでよかったのか?と考えると、そんなテスト1回だけのことで?そんな担任ひとりのせいで?

と、ふと考えたのです

ちょっとおかしいよ、って私だって思います
でも、当時の教え方では間違ってはいない漢字へのそれらの指摘
その子は傷ついた
親もショックを受けた
で、
それでその話がおしまいになっているところが、
私だったら別の導き方をするけどなあ、と感じる部分でした

いくら私が慰めても励ましても小学生は意味がないんです
大切なのは保護者の態度と言葉
ここが、その子の未来を変えられたかもしれないポイントだったのです

確かに学校はおかしい
なんなら教科書もおかしい
だからって対策はしないの?
子どもは、学校でされること、言われることが全てで、
家庭教育には何の効果も、何の救いもないの?
20年前なら、
学校はおかしい、教科書もおかしい、先生が悪い、教え方がよくない、と目くじらを立てていたかもしれません
でも、今は知っています
実践もしてきました
そして
糸山先生も言っています
「学力は家庭でつけるもの」であると

次回は、「付録1 ほんものの学力を育む家庭環境」から感想文を書こうと思います