立体的で独特な絵にいつも惚れ惚れしてしまう恐竜好き生徒くんの作品

今日は最近送ったどんぐり相談メールの私の返信から一部改定してここに掲載しようと思います

お宝をいやがり、間違いを恐れるのは学習教材の影響が多分にあると思います
普通の学習教材は正解することがもちろんよいことですから、
なんならタブレット学習だったりすれば正解するとパンパカパーン!とかなんとか、画面上の演出で、正解して素晴らしい!ってのが少なからずあるんじゃないでしょうか
普通のプリント学習でもそうですよね
○が多くて、点数が高い方がいいに決まってる、と刷り込まれますから、ここからスタートするとまずはそこを払拭するまでに時間はかかります

でもまあ、そういうのをすっかりやめてしまえば子どもはすぐに忘れてしまいますけどね
長年の経験でなければ、リセットするのは簡単です
リセットできないのは保護者の方の方かもしれない、というケースも時々あります

どんぐりをやっていても、正解させたい、お宝にさせたくない、と思ってしまっていると、不思議と子どもには伝わるものです
昨日も別の方からの相談で、頭ではそんな風に思ってはいけない、ってわかっているのに、なぜか拭い去れない、と言って悩んでいる方がいました
そりゃそうですよね
その保護者の方も受験戦争を勝ち抜いて、高学歴を手に入れた経歴をお持ちで、決してそれだけがいいと思っているわけではないのに、正解してなんぼ、という世界で戦ってきているので、間違ってもそれは素敵なこと、なんて心から思うことがとても難しい、というのはよくわかります
 
でもね
私たち(保護者のみなさんたち)が育った時代と、今とでは、何もかもが違いすぎて…
子どもが、間違ったり、迷ったり、失敗してもいいやって試したり、
そういうことをするチャンスが激減しているんですよね
何もかも整然と効率的に合理的にできていて、
子どもが育つために必要な余白がないんです
それは、学びの場以前に、遊びの場でも…
きちんと作り上げられたプログラムにのっとって遊ぶことはどんどん充実していますよね
デジタルゲームもそうですし、テーマパークやショッピングモールなんかもそうですね
便利で、一瞬で楽しめて、自分が何も工夫しなくても満足した気分になれるんです
でも、
そんな環境に最初から置かれる人間が、
将来どうなってしまうのか
みんな考えたことないのかなあ、っていつも思うし、想像してみて~って言うんです
 
宿題制限やマシーンはやり過ぎだよ、って意見もよく寄せられます

私たちの時代も宿題はあって、そんなん適当にやっつけてなんとかなったし
なんなら宿題で漢字練習したり計算練習した方が「勉強ができるようになる」「最低限の学力は身につく」と、本気で思い込んでいる保護者さんもいるようですが、それは絶対にあり得ないんです
そう思って宿題を出している先生も、実はあまりいません
 
それは、私の子どもたちや教室の生徒たちが証明してくれています
私は、
宿題を毎日させられることの弊害はかなり大きいと実感しています
毎日、課題を与えられ、それを管理される、ということの弊害です
内容はもちろんなのですが、
家に帰って毎日、何を学習するかを他人が決めて、それをやってきたかどうかを毎日学校でチェックをされるわけです

もし大人だったら…?うんざりしますよね
自分の学習に必要だと思ってしているわけでも、
その日こなした宿題について翌日ことこまかにチェックしてもらい、不足しているところ、わからなかったところ、間違っているところを指摘してもらって教えてもらえるわけでもない、先生がチェックしているのは「命じられたことをしてきたかどうか」だけなんです
ひとりひとり、習熟度や理解度も違うのに、全員に同じ宿題を出し、その後のフォローもしない
それが現在の小中学生の宿題です

中学生になると「毎日」ではなく、ある程度の期限を決めた課題が出されますが、小学生の頃毎日出されていたので、今度はその進捗を管理するのが大変なことになっていきます
 
(実際、東京など都会から、「宿題撤廃」の学校は増えています。先進国では日本がかなり遅れています。宿題は教育虐待、というような結論を出した国もあります)
 
昔だって宿題はそんな感じでした
でも、宿題以外の生活が全然違ったんです
子どもの暮らしにはもっと余白がありました
宿題以外の学びも多かったんです
 
たとえば語彙力ひとつとっても、
昔は親がよく誰かと家で電話をしていたり、近所の人と会話をしているのを聞くこともありました
家族の多い家なら夫婦以外の大人の会話も自然に耳にしていました
今は夫婦でも会話をあまりしない家庭が多いようです
以前は暇な時テレビでナイターとか見ていたお父さんが、
今は自分のスマホを覗いているのですから、
家中に響き渡るテレビの音のように共有されることがないので、そこから会話に繋がることもありません
(スマホでは、一緒の画面を見たり一緒の音を聞いたりして共有することもありません。それどころか、その人が何を見ているのか、家族の誰にもわからないし、なんなら何を見ているのか教えたくない人もいるのかも)
 
さらに、いま、会社からの連絡も、保護者の連絡網もほとんどラインやメールですから、家の中で親が他人と話しているのを聞く機会はありません
子どもは、当たり前に家で知ることができた会話の仕方も聞いたことがない状態で小学生になります
 
それなのに、国語の教科書を開けば学ぶべき項目が出てくる、漢字も次から次へ出てくる
言葉に触れていないのに、言葉に関する知識だけを急に身につけるよう強いられるわけです
算数も、理科も社会もみんな同じです

30年塾講師として仕事をしてきましたが、
子どもの「準備学習」の状況は年々悲惨な状況に陥ってきています
30年前の子どもなら当たり前にひとりでできたことが、
今の子どもにはできない

それが、物理的な…蛇口をひねるとか雑巾を絞るとかハサミがなくても紙を半分に切れるとか、そういうのができなくなったのはもう一昔前ですが…そうじゃなくて、なんというか、当たり前に聞いたことがあるはずの言葉を知らなかったり、数量体験がなさすぎたり…私の場合、ずっと途切れずに見続けているのでショックは少ないのですが、一般の人が目の当たりにすると相当びっくりするような、子どもの状態というのはそんな風で

しかも、一番身近にいる保護者の方が一番それに気づいていない…子どもなんてそんなもんでしょう?周りもみんなそうだし…と、当然ながら我が子の同世代かその前後しか見ていないので、そう思い込んでしまっているのも無理はないのですが…
少なくともご自身が子どものころ、ご自身の親が子どもの頃の話などを、少し冷静に聞いて考えてみていただけたらわかるかもしれないのになあと思ったりすることも多いです
(まあ、最近ではそれなりに激動の時代を生き抜いてきたはずの祖父母世代の子育て観が「どうなっちゃってるんだろうなあ…」と心配になってしまう場面も多々見受けられますが…)
 
それが、どんぐりがいま、必要な理由です
糸山先生はそんな現状を危惧してどんぐりを開発したんです
それももう20年以上も前だけれど
 
別にどんぐりじゃなくてもいいんです
そんな現状を知り、今の時代、失われてしまったものを自分たちで補って子育てができるなら
 
でも、
たとえば慎重に丁寧に子育てしている人でも、「学校で英語学習が始まるから」と心配になり、教材を購入したり契約したりする…(そういう相談もとても増えています。小学英語が必修化され、国語と算数と同じ道をたどりつつあります…生活で体験させずに机上だけでなんとかしようとする間違った流れで…)

大切なのはその教科のその成績、点数ではないのに、子どもがそんな小さなことについて学び始めることにいちいち対応するより、どんなことでも積極的に学び取り、教えてくださる方の話に素直に耳を傾け、わからない、不思議だな、どうしてだろうな、って思う気持ちをわくわくとふくらませることができる日常生活さえあれば、なにも予習する必要なんかないし、何も準備してあげる必要なんかないんです

それに、
学校の勉強でわからなかったり困ったりしたら、「助けてよ」って子どもが言ってくれるような親子関係であることも、とても重要なんです
勉強に限らず、親にそういうネガティブな気持ちを、素直に伝えられるということが
 
子どもが困る前に手を打つことは、子どもを成長させることとはかけ離れてしまうのです
 
親が勉強を教えようとか、勉強させるために何か企てようとすれば、本当に勉強面で困った時、子どもは親に弱みを見せ、助けを求めることができるでしょうか

さて、そんなわけで、
お宝行きを泣くほどいやがるのは「正解にこだわる」習慣がすでについているからです
正解したら評価をしてもらえて、不正解はダメなものだ、と
それは、学校では当たり前になっていることですが、学校だけならまだ救えます
「学校なんてそんなもんでしょ」と、高学年になるにつれて器用に使い分けます
その他、前述したとおり、宿題や学習教材、なんなら遊びの中ででも、正解のあることばかりやっていると、なかなか払拭できないので要注意です
 
本来、
子どもは自由に考えるのが好きなんです
自由に考えることができるためには、絶対的な安心感が必要です

最近では遊んでいても、カードゲームなどをしていても、ことば遊びをしていても、正解かどうか、速いかどうか、自分が優れているかどうかを常に気にしている子が増えていて、ただもう、純粋に楽しめないものかな、と残念に思うことが多いですが、それが勉強面にも表れているんです
常に評価され、速く、正確にということを求められているからなんですね
それは、習いごとの影響も大きいのです
たとえスポーツや芸術系の習いごとであっても、評価、優劣を気にすることを避けられない場合が多いですから、させるなら子ども時代(人格や思考力の形成期)は相当に注意が必要です
指導者が子どもの特性をよく知っていて、そのように対応してくれるならいいのですが、私の知る限り、そのような指導者は多くないように思えます
 
どんぐりと違って、普通の学習プリントにはいろいろなことが書いてある
解きやすいよう、なんなら算数の式が立てられるように絵図まで描いてある
その教材を穴埋めすること、教えられた考え方をなぞることが「勉強」だと思っている子が多いですよね
漢字は、漢字練習をして覚えるものだと思い込んでいる
でも、道を歩けばそこらじゅうに漢字は書いてある
家の中にあるいろいろなものにも書いてある
それらを「なんだろう?」と不思議に思って気にするだけで、
漢字学習は始まるんです
ブロックや積み木で遊んでいる時、
マニュアル通りの遊び方から外れて、たとえば色分けを始める
そうすると、この色よりこの色の方が7個多いな、と気づいたりする
並べてみて、はみ出る
それが「列に並んだら片方が○○人多い」という絵に繋がっていったりします
生まれたての赤ちゃんが、全てに目を見張り、
乳児が全てをひとまず口に入れて確認したりするように、
子どもはまだまだ、知らないことを知ろうと好奇心旺盛に日々学び続けています
それを、狭く、小さな世界、決まった方法で習得させよう、なんていう大人の思惑が、意欲ごと失わせてしまっているのが随所で見受けられます
 
正解を求めるのではなく、
評価を気にして気を揉むこともなく、
自分が考えた形跡を残すどんぐりの世界をただただ楽しめるように
これから少しの間だけ、
軌道にのるまでぎゅっと頑張ってみてください

頑張るのは、大人です
子どもたちに頑張らせることなど、何もないんですよ
子どもたちは日々、子どもらしく伸びやかに過ごしていればいいんです
たくさん動いて、たくさん笑って、たくさん話して、たくさん考えて
あー、楽しかった、と眠りについて目覚める、それを繰り返すだけでいいんですよ
 
そんなことを守るために、
大人が頑張らなきゃいけない世の中になってしまっています
一昔前なら放っておけば勝手に育ったのにね
でも、子どもが人生を楽しむために、
子ども時代だけぎゅっと、大人が、子どもが自動的に健全に育つための環境を守るために、頑張るだけなんです
あっという間に、親の影響力などなくなってしまう
だから今だけなんです