先月おこなわれた群馬県公立高校の入試問題です
この問題の(2)を私がどんぐり問題にアレンジ

白にわとり3羽をてんびんの左側に、黒にわとり2羽をてんびんの右側に乗せると、ちょうどつり合って止まりました。
また、白にわとり2羽と、重さが20gの黄色にわとり4羽をてんびんの左側に、黒にわとり3羽を右側に乗せると、これもつり合ったのです。
では、白にわとりと黒にわとりの重さはそれぞれ何gでしょうか。同じ色のにわとりはみんな同じ重さです。

6年生に挑戦してもらおうと思ったら、オレも!っていう低学年も何人かいて、何日もかけて挑戦していましたよ
そして、
解けちゃったんです

最近ならったばかりだという「比」を使って解いた6年生
「学校で考えていたんだけどね、解けた!って思ったとき、きーーーもちよかったんだよ!」と言っていました

別の6年生は予想を立てて解いていく「当てはめ」で正解しています
自分で考えた立派な方法です
おみごと


いっぱい計算してるけど、ビジョンは最初から描けていた様子の5年生
2週にわたって考えました
正解は出ています
ほら↓

ビジョンが見えたとき、
「このまま続ければ解ける」と思ったみたいで、
「よし!!」とひとり言を言っていました
解き方が見えているので、何回、何十回と計算が必要でも気にしません
このまま続ければ解ける、とわかっているからです

これはなんと小3の作品
しっかり正解しています
実はこれは高校入試の問題、中学3年生が解くんだよ、と教えたら、大興奮で、迎えに来たお母さんに一生懸命ノートを開いて見せていました


某塾のCMで、
「基礎を重ねれば難しい問題が解けるようになります!」と言っているのを聞きました
確かに難しい問題を解くためにも基礎知識や基礎的な技術は必要です
でも、長年多くの子どもたちの勉強する様子を見てきてわかっているのは、考えないでできるような基礎練習はときに苦痛になる、ということと、考えないでできるような基礎練習だけで勉強した気持ちになってそれ以上の思考を展開するエネルギーが残っていない、という状態になってしまっている子どもたちの多さです
子どもたちのエネルギー量には限界があるのに、もったいないなあ、と思います
大人は適宜エネルギー補給や休息を自分でできるけど、子どもはそんなことがまだできません
目の前にあるミッションに全力で臨みます
いいえ、子どもだって「疲れた」と言うし、「少し休みたい」と言って休息を取りますよ、と反論したい方もいるでしょう
でも、子どもが「疲れた」というのは、実は異常事態です
信じられないかもしれませんが、数十年前、「子どもが疲れた、という」というのが調査で明らかになり、新聞の記事になったことがあります
それくらい、子どもは疲れないはずのものでした
大人から見て「疲れているな」とわかっても、子ども自身が「疲れた」と認識することは実は不自然です
よくそういうことを言う子は、親が先に言葉にしていることがほとんどです
親御さんはよかれとおもって、いたわりの気持ちで「疲れたんだね」などと声を掛けるのだと思います
でも、私は、「疲れた、もう動けない」と言っていた子が次の瞬間には全力で走り出してそのまま遊び続けている、という光景を何度も見たことがあります
「疲れた」は子どもの、大人へのアピールに過ぎません
子どもは決して「疲れない」という意味ではないんです
大人が言語化したり、暗示を掛けたりしすぎることによって、
自分の状態をネガティブな言葉で表現して自らにブレーキをかけている場面がとても多いです
この、子どもの状態を言語化する危険性については書きかけているので、近いうち、またの機会に…

遊びでも、学びでも
子どもの目の前に、何を置くのかは、大人が決めることです
大人が暮らす環境に、子どもはいるのですから
子どもが勝手に自分の暮らす環境を作っている例は、ほとんどないと思います
エネルギーだけ消費する単純な基礎練習だけで満足させたり、疲れさせたりしてしまうのか、
自ら挑戦する余力がある状態で、こんな風に、自ら難問に挑戦することで大人が予想もしないような工夫や飛躍を見せるのか
私たちの選択、設定次第なのです

なんで?子どもは子どもで自由にさせるべき
子どもは自分で選んで学び取るものでしょ
そう考える人や、そう言う人は多いです
でもここで、いつも同じ話題になっていくのですが、
自由ってなんでしょうか
子どもを伸び伸び育てることと、自由に育てること、好きなようにさせること、全部選択させること、ひとつひとつ、丁寧に考えないと、この人工的過ぎる世の中では、子育てにおかしな轍がついてしまいます
放っておけば勝手に逞しく育った時代とは違い、家の中も、外も、大人がこしらえた人工的過ぎる環境に今の子どもは包まれています
意識して、その環境を脱し、人間として、しっかりと能力をつかっていくには、大人がしっかりと環境を整える必要があるのです
子どもが「自然」に近い状態に包まれると、大人が大きなアクションを起こさなくても、そこからは、勝手に賢く、優しく、強く育っていきます
そんな子どもたちを私はずっと見てきました
ただ勉強ができるだけじゃない
ただ点数がとれるだけじゃない
自分で考えて、自分で工夫して「生きている」子どもたちの目は、まぶしいほどに輝いています

ときどき、そんな子どもたちの目が見たくて、オリジナル問題をこうして出題したりしています
同様に、
そんな子どもたちの目が見たくて、
子どもたちと野山や川にでかけます
信じられないかもしれませんが、
同じ目の輝きが見えます

川で石を積んでいるとき、
どの石の上を歩けば向こう岸に渡れるか決めるとき、
山で尾根を慎重に歩くとき、
崖を登るときどこに手をかけるか決めるとき、
草花で何か作るとき、
仲間よりいい枝を見つけたくて探しているとき、
どうしたらお母さんを喜ばせるような木の実を見つけられるか
どうしたらお父さんを驚かせることができるような技を繰り出せるか
子どもたちが一生懸命工夫して、自分で考えているとき、
まぶしいほどの輝く目をしています

そんな目をしているとき、
子どもたちの脳はぐんぐん成長しています
ぐんぐん伸びやかに伸びています
私にも追いつけないスピードで
私はそれを、後ろから眺めています
幸せな気持ちで