久々に、半年以上前の新聞連載からの3回目
早期教育への疑問
今回は慶應大教授の中室牧子先生

『「学力」の経済学』で有名な中室先生ですが、
データを分析して、感情移入せず研究結果を淡々と説明なさるところが、
有無を言わせない…というか、なるほど、と、納得するしかない
そんな説得力を感じます

近年、教育経済学の分野では、親の「時間投資」に関する研究が進んでいます。幼少期に親が子どもに対してどのように時間を使ったか。また、その子どもがどうなったかを調べるものです。一方で、そこには親の学歴や収入による格差の存在も。
---時間投資とは
塾や習い事にいくらお金を出したか、というのは金銭的投資です。時間投資は、親が自分の時間を子どもに対してどう使ったか、ということです。近年、親の時間投資が子どもの認知能力(IQなどの学力)や非認知能力(忍耐力や社会性といった社会的スキル)に関わることを示す研究がいくつか出てきています。
---例えばどのような研究か
英国の子どもを対象に行われた研究が有名です。母親が子どもと過ごした時間が、3歳・5歳・7歳時点でその子の認知能力と非認知能力にどう影響したかを調べたところ、両方を高める効果があったことが示されました。(中略)
「勉強」に投資する時間(本の読み聞かせや宿題の手伝いなど)と「体験」に投資する時間(お絵かきや屋外での運動など)に分けて分析しているのですが、「勉強」ほどでなくても「体験」の効果も認知能力の向上をもたらしていました。(中略)
---年齢が小さいときほど、よいのか
英国で行われた研究も、それ以外の国で行われた研究も、幼少期の子どもに対する時間投資が認知能力に与える効果が大きいことを示しています。
子どもは大きくなれば自分で時間の使い方を決めます。米国の調査によると、子どもが単独で使い方を決める時間は10歳から14歳の間に約2倍に増加し、逆に親とともに意志決定をする時間はどんどん減っていきます。ですから、親とともに意志決定をする間の効果が大きいと言えます。
---具体的に何をすれば
米国の研究によると、「質」の高い時間が子どもの能力向上をもたらすことが示されています。その質は、「親子の間で適度は会話や交流があるか」「子どもを中心とした活動か」ということを計測しています。
たとえば会話をしながら一緒に食事をすることは質の高い時間に分類されますが、ただテレビを一緒に見ているだけでは質の高い時間に分類されません。
---親の心がけが大切
その通りです。ただ、これまでの研究では、国によらず、学歴の高い親の方が子どもへの時間投資が長くなる傾向がわかっています。意外にも、外で働いているかどうかは時間投資にさほど大きな影響を与えていません。
日本のデータを見ても、学歴の高い親の方が、勉強・体験によらず、子どもへの時間投資に積極的な傾向がみられ、親の考え方によって格差が存在していると言えます。
(中略)
親の時間投資や、体験の有無が、子どもの能力に関わりうるということを大人には知ってほしいと思います。

記事の中には、
重要なことがいくつも書いてあります

●親とともに意志決定をする間の効果が大きい
●「質」の高い時間が子どもの能力向上をもたらす
●外で働いているか働いていないかはさほど影響はない
●学歴差の影響は親の考え方の格差

なるほど、と思いますが、
具体的には、自分には何ができて、どういう時間が「質」の高い時間なのか、
それぞれの状況でこれは自分で考えないとなりません
みんなそれぞれ、違った環境、違った状況で子育てをしているのですから

小学生の頃、
とっても優しくて、穏やかで、いつも私を助けてくれる大好きな友達がいました
Nちゃんといいます
休み時間はいつも一緒に遊んで、放課後もよく遊びました
一旦家に帰ってから校庭に戻って、ブランコにのりながらおしゃべりしたり、しりとりや連想ゲームをしたり、雲梯の上に座って夕陽を見ながら夢の話をしたりしました
ふたりきりで遊ぶことはあまりなくて、いつもみんなでワイワイ遊んでいたのですが、
口数の少ないNちゃんは積極的ではないけれど、いつも一緒に笑って、とにかく穏やかで、なににつけても優しかったので、私は大好きでした
あるとき、
放課後遊ぶ約束をしていたのに雨が降ってきたので、私は初めて、Nちゃんの家に招かれました
一旦帰宅して、親に告げてから、迎えに来てくれたNちゃんと一緒にNちゃんの家に行きました
隣の町内なので、歩いてすぐでした
その時は、わたしひとりでした
Nちゃんの家は、私の家のある新興住宅地の入り口の近くにある古い平屋で、とっても小さなお家で、玄関を入ると、すぐに台所とお風呂場がありました
Nちゃんには弟妹がたくさんいて、おそらく、部屋は1つしかないようで、食事をするのも、遊ぶのも、眠るのも、台所とつながった一間だけだったと記憶しています
今で言う、1Kといったところです
まだ園児さんや赤ちゃんの弟妹たちと、Nちゃんのお母さんが、私を優しく出迎えてくれて、確か、おやつも出してくれました
私はNちゃんの家が楽しくて、居心地がよくて、大好きになりました
それからも何回か、遊びに行っていました
でも、
高学年になる前に、Nちゃんは引っ越して、転校してしまいました

親の学歴…とか、経済格差…とかいう話題が出たり、記事を読んだりすると、
いつもNちゃんの家を思い出します
お父さんも確かいたと思います
でも、忙しく働いていたし、お母さんも、「内職」をしていて、
私とNちゃんはそれが面白くてちょっと手伝わせてもらったりしました
おそらく、
Nちゃんのご両親は高学歴でもなければ、高給取りでもなく、専門職や経営者でもなかったはずです
でも、私が今まで出会った友達の中で、Nちゃんほど優しく、思いやりのある子はいません
今でも、Nちゃんのような人間になりたい、と時々思い出します
親の学歴や経済格差で、
どのような子が育つのか…と考える時、
自然とNちゃんの顔が浮かびます
Nちゃんや弟妹達に、とっても優しかったNちゃんのお母さんの顔も

勉強ができて、入学偏差値の高い学校に合格して進学することとか、
安定したいい職業につくこととか、
立派な功績を残すこととか、
そういうことよりずっと、
大事なことがあります

それは、愛される人間になること
信頼し合える人と関わり合える人間になること

そんな、人間として当たり前のことが、
ともすると、育ちづらくなっている気がしてなりません

だって、
小学生の頃から、何ができるかできないか、早くできるかできないか、評価はどうか
そんな基準で育てていて、
子ども本来の状態がどんななのか、
すごく時間を掛けて、すごくそぎ落とさないとわからないくらいになってしまっている
そんな子どもたちとたくさん出会ってきました

中学生になれば、成績が数値化され、
小学生までなんとかのんびりゆったり子育てを楽しんだ親御さんも多くが現実に引き戻され、
急に頭からツノや湯気を出したりしています

そんなはずはなかった
こんな風になる予定じゃなかった
後悔している人もいるかもしれません

そんなとき、思い出してほしいのは、
子どもの方に向いているかどうか
それだけです
どんなに忙しくても、高学歴や裕福じゃなくても、
どんなに周囲から色んな声が聞こえても、
自分の体のほとんどを、我が子に向けているかどうか
少しの間だけしか子どもとゆっくり過ごせない、という、忙しい親御さんも、
その少しの時間を、良質なあったかい時間にすることはできるんです

そして、離れている間も、子どもの方を向いていること
大人の都合じゃなくて、子どもの方を向いて生きていること
それが、
親や、子どもと生きる宿命を背負った者の「あたりまえ」なんです

子どものために時間を作って、向き合ってます!って言いながらも、
心身共に子どもの方を向いていないなあ、と感じる親御さんもいます
それは、
子どもを見ればわかります

どんぐり学舎でも、そんなスタートを切る子がいます
どんぐり理論に出会ってしまって、私との面談を経て、家族みんなでどんぐりライフをやっていこう、って決断して頑張ろうとするんだけれども、
それまでの生活、歴史がありますから、そんなにすぐに効果が表れるわけじゃないんです
でも、
すぐに見てわかるのは、
あふれ出てくる「思いやり」です

それは、誰も見ていないのに
誰にも頼まれていないのに
ふっと湧き出てくるもので、
私は、見ていないようで見ているので気づいちゃうのですが、
そんな姿を見ると、
あ、この子は変わってきた、とわかるのです

それは、いわゆる「非認知能力」に含まれるものなのですが、
ふっと思いやりの心で自分で行動に移す、って、実はすごく高尚なことです
そういう能力が備わっていない子や、育っていない子は、
自分のためにしか行動しません

みんなで遊んでいても、目の前で何かが起こっても、
自分のことしか考えないので、それなりの行動しかしないんです
それを、
ほら、優しくしなきゃダメでしょう、とか、
持ってあげなさい、とか、
命令されてやっているようでは意味がないんです

※それが、生まれ持った特徴である場合もあります
でも、人為的にそうなってしまっている場合がとても多くなっています
子どもは本来、生まれ持って思いやりが備わっているので、
「育っていない」のではなく、「失われた」か、「封印された」状態に近いと見えます
だから、安心して自分を出せるように、封印が解かれると優しくなるのです
じゃあ、生まれつきの子は思いやりがなくて自己中心的でもいいのか?というとそれも違います
それでは周囲から嫌われてしまいます
それだけは避けなくてはなりません
一生親が守ることはできないのですから
それはまた、別の話になるので、また別の機会に※

私はむしろ、問題が解けるかどうか、何かを覚えているかどうか、点数がどうか、なんてことよりも、そういう能力を重視して子どもたちを見てきました
それは、
進学塾時代、
人も羨むような好成績をとっていても、
決して人間性とは比例しないんだな、という現実を見過ぎてしまったからかもしれません
もちろん、比例する子もいるんですけど

中室先生とは全然違って、海外の研究データから分析とか、研究とか、そういうのではなく、こうして自分の見てきた子どもたちや保護者さんたちのことを思い出しながら書くしかない私です

ちなみに、高学歴の親の方が知的環境(時間)を作りやすいのは、
本を読んだり、新聞を読んだりする習慣の有無や、会話の文体などの違いだと思います
そういう姿を自然に見せてしまう、っていうだけで、高学歴じゃなくたって子どもの前で「子育て中はこれはやらないでおこう」って決めれば同じような環境は作れます
たとえば、
子どもにはじっくり考えてほしい、集中してほしい、勉強できるように…って思いながらも、スマホばっかいじってたら説得力がありません
スマホは瞬間的にいろいろな情報を得るための道具ですから
自分が言葉を豊富に知らなくても、子どもの話に耳を傾ける事はできるし、絵本を読み聞かせることもできます
子どもが話しかけても、「うざ!」とか「きも!」とか「すご!」なんかで済ませていたら、話は続かないでしょう
わたし、勉強を教えてあげられないから…と相談してくる親御さんもいますが、
勉強を教える親ほど子どもにとって迷惑な存在はありません
…関係性にもよりますが、常に親が勉強を教えるなんて…たとえ教えられたとしても、そんなのできれば避けてほしいです

親がたくさんの言葉を浴びせるのではなく、
子どもが自分からたくさんの言葉で親に話しかけたくなるような
親が勉強を教えたり、知的な情報を与えたりするのではなく、
子どもが今日学んだことを親に教えたくなるような
そんな関係が親子で築けたら、
親の学歴や経済格差なんか関係ないんです

Nちゃんのお母さんは、
赤ちゃんの世話をしながら、私たちが話すことに微笑みながら耳を傾けてくれました
学校では無口なNちゃんも、私と一緒に、我先に、とお母さんに話す姿を見て、意外だったけど、すごく嬉しかったのを覚えています

一緒にいるだけで幸せな気持ちになるなんて、
そんな人間に育ったらいいな、って思いませんか

高校生になり、
中学時代の卒業アルバムを見せ合う恒例行事のとき、
私は友人のアルバムの中でNちゃんを見つけました

どこに引っ越して、どこに転校したのかも、低学年だったので知りませんでしたが、
思いがけず、県内にはいたし、となりの市にいたんだとわかりました

同じ中学だったはずの友人にNちゃんのことを尋ねると、
「知らない」と言われました
相変わらずおとなしくて、存在感の薄い子だったのかもしれません
控えめに微笑むアルバムの個人写真を、私はずっと見ていました

そして今でも、Nちゃんの優しい眼差しや、一緒にいるだけでほんわかと幸せな気持ちになる不思議な存在感を、ときどき思い出します