5mx27
今回は昨年度に撮影してあった5MXの作品を掲載してみました
5MXは大人でも苦戦するほどの難問が含まれていますが、
子どもたちはこうして絵を描いて思考を整理して解いてしまいます
倍のイメージ
和差のイメージ
数量のイメージ
比べて、
積み重ねて、
並べて、
整理して、
数値化して、
考えに考えているのがわかると思います
同じ問題でも全く違う解き方をしているのもわかると思います
そして、卵たちを野菜に変えたり、登場人物(動物)に表情があったり、細かな、余計な情報まで絵にしてあったり、色をふんだんに使ったり、と、子どもたちの遊び心が見えると思います
ゆっくり、じっくり、自分で工夫して、楽しんで、描いて解いています
中には、
なかなか正解しない時期、苦しんだ子もいます
積み重ねをしていて、いつも間違えてしまって、なかなか正解にたどり着けなかった子もいます
でも、関係ないんです
正解がたくさん出たらいい、正解を出さなくてはならない、という学習法ではないんです
それは、このような解法、その過程を見れば、一目瞭然かと思います
大きく真っ白なノートに、これだけのことをいちから描く子どもたち
誰にも方法を教わらず、何の手本も見ずに、自分だけの世界観で解いていく子どもたち
それだけで、どんなに素晴らしいか、これらの作品を見たらわかっていただけるかと思います
正解の方がいい、という概念は、小学校に入るずっと前からいつの間にか植えつけられるものです
クイズでも、なぞなぞでも、正解はあって、正解することが楽しい、嬉しいこと、というのは紛れもない事実です
でも、正解した瞬間の喜びや、正解したあとの優越感よりもずっと、正解するまでの過程を楽しむことができていたら、きっと、一番大事なのは正解することではない、ということがどんなに幼くてもわかると思います
それは、クイズやなぞなぞだけで体験させるのではなく、
たとえば自然の中で遊んでいるとき
川や、海の中で遊ぶ時、水は、自分の思うようには動いてくれないこと
石を積み上げたり、削ったりして遊ぶ時、全ては自分の思い通りにはいかないこと
風や、気温や、明るさ、暗さによって、外遊びは環境が変わり、その都度、どうやって楽しむのか、自分で考えて工夫する必要があります
日々の生活の中でも、
どうやったら上手にトウモロコシの皮が剥けるのか
どうやったらお風呂が綺麗に洗えるのか
どうやったら靴下を上手にたためるのか
ちょっとしたお手伝いの中にも、毎日繰り返すことで自分から工夫すべきことに気づくこともあります
でも、
人工的で、自動的なもので遊んだり、生活が便利すぎるものに囲まれたりしている場合、
求められることは合理的でミスがなくて迅速な「正解」しかありません
自分で考えなくても、工夫しなくても、簡単な操作で全てがうまくいく、というシステムに囲まれていたら、頭脳だってそれに対応してきます
そして、
自分で考えることはどんどん苦痛になっていくのです
まだ、今、学校では合理的でミスがなくて迅速な「正解」を全員で同時に得させることを目標にした教育が続いているように見えます
個々の先生によっては子どもたちそれぞれの育ちや、習得する感覚を尊重してくださる方が全くいないわけではないと思うのですが、私の経験上、ほとんどそんな先生はいません
集団生活が苦手な子が増えているのと、学校運営が太古の昔からほとんど変わっていないのとで、いま、公教育は限界を迎えているように見えます
それぞれが好きなことを自由にすればいい、ということを謳い文句にしているフリースクールもありますが、歴史は巡り巡って、なぜ、学校教育が始まったのか、ということを知ると、子どもたちが産まれて6年くらい経って、親と離れて集団生活をする必要性はやはりあるわけで、そして、ある程度の規律と、他者に囲まれた環境の中で、学ぶべきこと、自らの能力を磨き上げることは学校生活でしかできない部分もあるわけで
それでも、いま、まともに学校教育を受けていると、伸びるはずの能力も伸びず、育つはずの思考力も育たない、というジレンマに陥っているのが現状です
学校では、5MXのような難度の問題は実践しませんが、もしするとしても、きっと、公式や解き方を最初に見せて、それを真似させるような授業しかできないと思います
でも、実際には、誰にも教わらず、何の手本も見ずに子どもたちは自力でこんな風に解いてしまうのです
もし、どんぐりを授業に取り入れてみよう、と思う先生がいらっしゃったとしても、既に、考えることが苦痛になっている子どもたちや、自由に考える、という意味がわからない子達に対応するのはとても難しいと思います
私の教室にも、通信講座を受講してくださっている御家庭にも、ときどき相談メールを送ってくださる御家庭にも、「どんぐり実践は難しい」と感じている御家庭、親御さん、子どもたちはいます
週に1回、私たちと一緒にどんぐりタイムができるからって、それだけで、すっかりどんぐりっことして成長するわけではありません
ご存じの通り、どんぐりには「家庭内の環境設定」という最も重要なミッションが親に課されます
逆に、家庭生活まで介入されたくない、親の生活スタイルは変えたくない、学校の先生と宿題の相談をするのは嫌だ、どんぐりについて親が勉強するのは難しいし面倒だし時間がないから無理、と言いながら、「子どもの思考力を健全に育む」なんて到底無理だとおわかりになるかと思います
それは子どもの歯にフッ素を塗りながらもチョコレートやキャラメルを与え続けて虫歯になって苦情を言われた知人の歯科医の話や、
糖尿病の薬を飲みながら好物のアイスクリームがやめられなくて年々症状をひどくしている知人の話と重なります
厳しいようですが、
子どもを育てるということは、
子どもの教育について考えるということは、
親にとっては命がけのことで、
何にも代えがたいことで、
他のどんなことよりも優先すべきことで、優先できるはずのことなんじゃないか、と私は思うのです
しかも、
そんなに長い時間ではないんです
あっという間に、親が子どもに影響できる時期など終わってしまいます
親が子どもの環境を設定できる時期など終わってしまうのです
親のこしらえた環境などどんどん飛び出して、自分の好きな環境で生きようとするのが子どもで、それが人間の生き方です
いつまでも親の庇護の元、親のこしらえた環境の中でしか生きられなかったら、それこそ危険で、親元を離れて集団生活をすることや、社会生活を営むこと、自分で自分の家族を作ることなどとても難しいこととなってしまいます
考えることが嫌になっている子はどんぐりを嫌がります
でも、子どもは本来、自分で自由に考えたいのです
幼いながらも、どこかのタイミングで、「正解を求める」ということを強いられ、苦しい思いをしたことがある子は、そのことを忘れられず、自分で自由に考えることを恐れる傾向があります
ああ、そういえば、幼い頃に早期教育で厳しく躾けてしまった、とか、
早いうちから文字や英語を教え込もうとしてしまった、とか、
よかれと思ってしてしまったことが、小中学生になってから「学習意欲の低下」という現象として跳ね返ってくるのもよくある事例です
どんぐりのような問題を楽しんで自由に考える、ということに対して、大きな抵抗がある子にはそのような過去がある可能性があります
じゃあ、諦めるしかないのか
いいえ、そんな必要はありません
何度も書きますが、子どもは本来自分で自由に考えたいのです
最初は、親がこしらえた環境の中で守られて育ちます
その環境は、自由に思考できる状態を保つための環境です
たとえば
宿題が強制されない環境
デジタルメディアで脳内が占拠されない環境
(これは一見、子どもが喜んで視聴したり、遊んだりするから子どもの自由でいいんじゃないか、と思われがちですが、実際には、子どもの脳はそういった機器に誘導、操作されているに過ぎないんです。そして、受け身の遊びが楽になってしまい、主体性がなくなります)
自然の動きや音、気温や明暗の影響を受ける環境
そんな環境設定の中で十分に安心して育った子どもたちは、
次は自分で自分の環境を探しに出かけていきます
そのまま、課題がない環境、メディアから遠い環境、自然に近い環境を選ぶことが「正解」なのではありません
どんな環境も選べて、どんな環境でも楽しめる状態に育っていくのが、正解といえば正解なのです
敢えて逆を選ぶ子もいるでしょう
そんなこと子どもが自由に選ぶことであり、大人が軌道修正したり、ジャッジしたりすることではないんです
親は、
最初から子どもが「この環境でこの方面で生きていく」と決めつけることはできません
子どもが自分で自分の人生の環境を選び、こしらえ、そして、自分の人生を楽しめるように、そのために、まっさらで頑丈なベースを作ること、それが親の私たちの役目なのです
どんぐりは極端で、結局子どもの自由を制限しているのではないか、と意見されたことがあります
周囲のみんなはテレビも見ているし、ゲームも持っている
みんながしているのにさせないのは、子どもの自由を奪い、制限する極端な考え方なのではないか、と
この理屈で一旦考えてみてほしいポイントは
「みんながしていることは正しい」のかどうか、ということ
「テレビやゲームは子どもを自由にする」のかどうか、ということ
子どもと、その周辺の環境を長年見てきている私には、その2つのポイント、いずれも、NOと言ってしまいます
「みんながしていること」は、この国の経済の仕組みではどういうことなのか、説明は省きます
そして「みんながしていること」をしっかり実践することが、「幸せ」なのかどうか、大人の方々ご自身も、少し考えていただけるとわかるかもしれません
そして「テレビやゲーム」は、子どもを不自由にする要素の方が多いのです
テレビやゲームが悪いのではなく、子どもが成長過程でそれらを浴びすぎること、日常的に取り入れることで、本来育つはずだった力が育たないまま成長するのは事実です
それらを存分に楽しみ、溺れずに生かすためには、子ども自身の脳や心身が十分に育っていることが条件になると思っています
そして、「みんながしていること」を当たり前に、危機感も持たずさせ続けている昨今、子どもたちに関する問題は増え、大人になった子どもたちの問題も増え続けているのです
「それは自分の家には当てはまらない」とどうして言い切れるでしょうか
もし、どんぐり実践が難しい、と感じたら、
それは、親子でこれまでの生活を見直すための機会なんだと思います
子どもが、正解を求めすぎる完璧主義に育ってしまっているのではないか
子どもが、自分の頭で自由に考えることができない状態に成長してしまっているのではないか
親御さんが、過程を楽しめず、待つこともできず、子どもに正解させたいと思っているのではないか
親御さんが、どんぐりにちょっとだけ不信感を抱いているのではないか
親御さんが、どんぐりに関して勉強が足りていない、覚悟が足りていない可能性はないか
「どんぐり」という言葉は、私がどんぐり実践者でありどんぐり指導者なので、象徴的に使っていますが、これはなにも、「どんぐり」絶対主義、みたいなつもりで書いているのでは全くありません
どんぐり理論は、子ども本来の育ちを全うし、健全に心身を成長させるためのヒントを持っているだけで、どんぐり問題を使わずにそれができるのならそれでもいいのです
ただ私は、どんぐり問題を使うことで子どもたちの育ちを見ています
そのための修行をしているので
この作品の作者である子どもたちが、いかに親御さんの日々の努力や、葛藤や、丁寧な生活の中で育まれてきたか知っているから、何度見返しても感動してしまうのです
学校教育も受けてきた子どもたちです
いろいろな思いもしました
でも、その都度、親御さんは真剣に向き合ってきました
この子が健全に成長するには親としてどうしたらいいか
この子が自分の人生を生き抜くためにどう支えたらいいか
子どもたちは、そんなことはつゆ知らず、常に笑っていました
今も、笑っています
一番近くで見守ってくれる親御さんが、きっと、幸せな眼差しで寄り添っていてくれるからでしょう
難しい、と感じることは幸せなことです
私など、毎日、難しい…と感じることばかりで、自分の能力のなさ、力のなさを痛感することばかりで、本当に幸せです