私の娘が小学生低学年の頃、
図画工作の授業だったか、なんのためだったかは忘れましたが、
学校へ絵のモデルとなるものを持っていく日がありました
娘は大好きなクジラの小さな置物を持っていったのですが、
持ち帰ってきた時には支柱となる部分が破損していて、
自立できなくなっていました
しょんぼりしている娘を見て、私は理由を尋ねましたが、
クラスの男子が机の上から持っていって、
しばらく遊んでいたけど、机の上に戻ってきたときには、破損した状態で置かれていた、とのことでした

私は、それまでも何かと話をしてきた担任の先生に連絡しました
ただし、
その内容は以下のようなものでした

いつのまにか壊れていて、娘はがっかりしています
でも、私は犯人捜しをしてほしいわけでも、
謝罪や弁償をしてほしいわけでもありません
壊れたものは元に戻らないし、
壊れやすいものを持っていったところに課題があるのかもしれません
ただ、
今回のことでぜひ、クラスで話し合ってみてほしいのです
もし、
誤って何かを壊してしまったとき
どうすべきか
もし、
誰か、自分ではない人の大切なものを傷つけてしまったら、
また、もし自分のものが誰かに傷つけられたり壊されたりしたら、
どんな気持ちになるか
そういう議論や、考える機会を、クラスで作ってほしいのです

その後どうなったのか、記憶ははっきりしていません
担任の先生はきっと、この機会を生かしてくれたと思っています

いつからでしょうか
誰かの間違いや、誰かの行為に対して、
それは間違っているとか、おかしいとか、
一方的に決めつけて正論を押しつけて、
謝罪させたり、撤回させたり…
そういう、議論の余地もないような
いったんお互いに考えてみる猶予もないような
そんな風潮が当たり前になってきたのは

社会全体がそういうムードだからなのか、
子どもたちもそんな感じで、
親子間もきっと、知らず知らずそうなってきていて

悪いことをしたら謝る
それは正しいことかもしれません
でも、
謝る意味がわかっていなかったら謝る行為には何の意味も価値もありません
謝る気持ちがなかったら、相手には何も伝わりません

子ども同士のこと、
子どもが私やこの場所に対してやらかしたこと、
私も子どもと生きてきて長いこと、いろんな場面に遭遇してきました

私自身の子育ての中で、
感情的に無理矢理謝らせたりしたこともあります
今思うと我ながらがっかりしますが、
謝罪すべき相手がきょうだいやお友だちなどだったらともかく、
母である私自身に謝らせたことだってあります
なにやってるんでしょうか
何の意味もないどころか、子どもにどんな思いをさせたか…
思い出すだけで泣けてきます

ここでも、
謝る、という行為が持つ意味がよくわかると思います

感情的になって「謝ってほしい!」と思う時
ここは謝らせないと、と思う時
それは、自分も含め、謝罪相手に対して、
高ぶる感情を抑えたり、誠意を理解してもらうためだったり、
謝罪する人そのものの感情がどうであれ、
相手をなだめるための行為に思えます

今のご時世、
子どもと生きていると、
生きづらい…
そんな状況がよくあります
だから、
とりあえず謝っておこう、っていうことが必要なこともあります
相手が、
そうしないとおさまらないってこともあるし、
相手が、
謝罪さえすればいい、と思っている場合もありますから

でも、
それだけではなく、子どもとは、必ず話し合ってほしいのです
議論してほしいのです
どんなできごとだったか
自分はどんな気持ちだったか
相手の気持ちを想像してみるとどんなか

言葉で謝罪したり、
お金で弁償したり、
そんなことですべてが済むのではなく、
それよりもっと、価値のあるもの
もしミスをしたのだとしても、
ミスをしたことによって学ぶことが多ければ、
それはプラスの経験になるのです
負の遺産にはならないはずです

この議論、話し合いの際には重要なポイントがあります
それは、大人の正論で教え込まないことです
こうすべきだよ、と結論づけないことです
たとえ結論が出なくても、
揺れる感情や、迷いや、なにか起こったとき戸惑ったとき、
こうして、安心して話し合える環境があるんだ、と子どもが思えば、
そこから先は自分で丁寧に考えていくはずです
何か起こる度に、考えるはず
そして、話してくれるはずです

教室では毎日、色んなことが起こります
最近気になるのは、
公共物と自分のものとの区別をしないことです

時代の変化やコロナ禍で、
他人の家にお邪魔する機会がなくて教えるチャンスもなかったのかもしれません
やっぱり子どもにはいろいろな経験が必要です
失敗する経験も必要です
そうじゃないと、感情が揺れ動くこともなく、
考えるきっかけさえありません

先週は、
「くら」のアナログゲームの使い方で悩まされました
以前は、
みんなでひとつのゲームをしている光景がよくありました
最近は、
私がどんぐりタイム前に「これやろう」と誘ったとしても「自分はいい」とやらない子が増えてきました
ゲームをしないで本を読んでいる、とかならまだいいのですが、
みんなでするゲームをしないで自分だけ他のゲームを取り出して遊んでいる子もいます
ゲームに加わらない理由は個々にあるのでそれはまた別の機会に書くとして(それは一概にいけない行為だとは思っていません)
以前のようにみんなでひとつのゲームをしていた頃には起こらなかった問題が浮上してきました
だいたい、年長さんから6年生まで、全員が満足するようなゲームはあまりないので、
どちらかが合わせるしかありません
みんなで遊んでいた頃の子ども同士は、大きい子はなんとか小さい子に一緒に遊べるように試行錯誤していたし、小さい子も大きい子と遊ぼうと必死でした
でも、今はそこが分断されているように見えます
大きい子は小さい子のことを全然気にしないし、自分たちさえ楽しければいい、という感じで、全く関心もないのです
だから、小さなトラブルが起こります
私が介入することでもないのですが、最近のゲーム類の破損や紛失には頭を抱えていて、どうにもならない時にはくらに入っていきます

そして、なんでかなあ…と考えます
ま、結論、遊びが足りないんじゃないかな、って思うんです
これがしたい、あれがしたい、とそれぞれ主張してきて、
それは自分たちで話し合いなさいな、と言うと、議論も相談もできません
それぞれが自分の意見を通すことだけに一生懸命だから、
結局、発言力のある子や、年上の子が主導権を握ります
私はへえ~と眺めているだけです
ときどき、議論に加わります
あまりに理不尽なのでね(笑)

御家庭でも、押しつけず、正論で片づけず、大人の結論で済ませずに、
いろんな話をしていますか?
さて、話し合いましょう、議論しましょう、なんて時間を設けなくても(そんなことしたら逆効果かも)、日頃からいろんな話をしていれば、子どもは勝手に自分で考えます
そして、考えていることを話してくれます

クジラの置物
我が家でもそのとき、いろんな話をしました
いつでも、どんなことでも、わいわい、いろんな話をしています
子どもより何十年も先に生まれて生きてきたし、
子どもがいま直面している課題や、悩みをそういえば乗り越えてきたかもしれないけど、
それは、今の時点で私たちが知っているだけに過ぎないこと
乗り越え方は同じじゃないし、
それぞれの生き方は違うのです
だから、私たちの正論は押しつけません
お互いの考えを伝え合って、一緒に考えます

だから、
考えるのが当たり前になっていると思います
何か起こったとき、自分の気持ちと、相手の気持ちがあるってこと
傷つくこともあるけど、傷つけてしまうこともあるってこと
ただ言葉で謝ったら済むことではない、
お金だけじゃ解決しない、
相手を思い遣るってどういうことか
自分を大切にするってどういうことか

我が子に伝えたいいろんなこと、
箇条書きにしても仕切れないんです
でも、日頃、何気ないことでたくさん話していれば、
自然と全部伝わります
それが正しいとか間違っているとかじゃなく、
ああ、親はこう言ってた
親とこんな話をした
って思い出すだけでいいんです

できれば「先生」もそうあってほしいな
子どもに、自分の知ってるだけの小さな世界や、価値観を押しつけず、
それぞれの子が自分の頭で考え、自分の考えを伝えてくれるような
そんな関係性を構築してほしいな
毎日会えるんだから、できるはずなのにな
でも、
やっぱり家庭でそういうことが普通じゃないと、
いきなり学校でそうはならないわけで
ただただ、大人の結論を待っているような
指示を待っていてようやく動くような
そんな子どもを増やしちゃってるのは学校だけの責任じゃなくて、
そうじゃないとどうにもならないような子どもの習慣が、
家庭ですでに身についてしまっている、というのもあり…
やっぱりお互いが責任をなすりつけあっていたら、
子どもは何にも経験できないまま成長してしまうのです

子育てはリカバリーの連続
私が現役スキーヤーの頃(なんの現役なんだ)コブ斜面のレッスンでコーチがよく言っていたことです
次から次へとコブが来る
ひとつを丁寧に乗り越えたとて、すぐ次のコブがある
コブが来るのが当たり前だと思って、体勢を決めてできるだけ直線で滑り降りていく
モーグルなんて競技がメジャーじゃなかった時代ですが、
そんなレッスンを受けたのを時々、子育て論を考えている時、思います

コブを全部潰して平らにするのは違う(無理)
自分の好きなコブだけを選んで越えるのも違う(無理)
結局、
絶対に、コブがそこにある
絶対に、そこを乗り越える
整地斜面を滑るのとはわけがちがう
ぼーっとしていると投げ飛ばされる
コブにひっかかって転倒する
転倒しても起き上がれば続けられます
次のコブがまた来ます
体勢を整えます
その連続です
コブから逃げず、次に向かう
子育てと同じです
逃げずに、向き合うだけ
向き合い続けるだけ
それが、親になった意味
それが覚悟ですよね