
先月、
富岡市のオルタナ校ゆずり葉学舎主催の座談会で、
篠秀夫先生との対談をしました
篠先生とは一昨年のゆずり葉学舎のイベントで初めてお目にかかったのですが、
そのずっと前から私は篠先生のブログの愛読者でしたので、
実物にお会いできたときは感激しました
その篠先生と今回は「対談」だなんて大役を仰せつかり、
嬉しくも恐れ多く、さてどうしよう…とずっとずっと考えながらいたのですが、
やはり、直接お会いすると不思議な篠先生、肩の力も抜けて、自然と微笑んでしまうのです
ビシッと芯の通った方なのですが、直接お会いすると全身から溢れる愛というか、やわらかな人間性にこちらもリラックスしてしまう不思議さは、師匠糸山泰造に通じるものがあります
シナリオも打ち合わせも無いに等しい状態で、前半は私と篠先生とで一方的にあれやこれやお話しする、という形で対談が始まりました
お昼ご飯を食べてからの後半は、来てくださった皆さんの言葉もいただきながら、車座になって座談会をしました
さてすべてが終わって篠先生を高崎駅まで車で送って、私はその後、夜間に中学生の授業があったのですが、そこからもうずっと、篠先生と話したこと、みなさんから出た言葉など、思い出しては考える、反芻を繰り返していました
もう、どこで話題にしたのか、誰が言い出したのか、正確には思い出せないのですが、(すぐ書けばよかったのに…まごまごしてました…)ああ、これは忘れないように記録しておくべきだし、みんなと一緒に考えなくては…と思ったことを思い出して書いていこうと思います
今日は「父性のロールモデル」について書きます
ここからは、お子さんを持つお父さんたちにもぜひ、目を通していただきたいです
座談会に来てくださった方はほぼ全員が女性でした
ゆずり葉学舎のこうちゃんと、これから教育について大学に入り直して学ぶことになっている、という父親ではない若い男性の合計二人、いましたが、その他はみんな女性でした
どんぐり学舎の茶話会も、入室前面談も、教育相談も、ほぼ担当はお母さんですし、
学校の行事も参観日も面談も、ほぼ、お母さんが占めていますよね
これは昔からきっと変わらないのですが、
きっと、子育てや、教育といった分野で玄関口を担当するのは家庭内では「お母さん」であることが多いです
そんな玄関口であるお母さんが外で得てきた情報を、
お父さんも自分ごととして、我が子の重大な案件として、本気で受けとめようとしているでしょうか
それとも、
全部相方に任せているから、と特に興味も持たないか…
…それが「自分ごとではない」という誤解を、家族にされてしまってはいないでしょうか
一緒に考えてほしいのに、
こうしていきたい、という方針に、寄り添ってほしいのに、
また、どんぐり理論なども、全部理解して全面的に協力してくれなくてもいいけど、せめて邪魔はしないでよ…みたいな嘆きはお母さんたちからよく聞きます
まあ、その事象はちょっと横に置いておき、昨今、「男子の子育てが難しい」と言われている原因がそこにあるということは世のお父さんたちはご存じでしょうか
仕事が忙しく、毎日外で頑張って働いているお父さん
でも、子どもたちからしてみると、自分に関わる難しい仕事をしてくれているのはお母さんです
自分のために学校や習い事の人に会って直接話をしたり、相談したりするのはお母さんで、
子育てや教育について調べたり、本を読んだりして勉強するのもお母さん
自分のための食事の支度や、汚れたものを綺麗に整えてくれるのもお母さんです
お父さんが頑張って外で働いているのはわかるけど、
なかなか実感できません
それより、目の前には、くるくると働き、せっせと世話を焼くお母さんの姿がありますから、
子どもはそれをロールモデルとして育ちます
現代の家庭内の大人のロールモデルは母親が多くを占めています
今の時代、男性とか女性とか、母性とか父性とか、そういう言葉をあまり使わない方がいいのだと思いますが、生物的な分類ですから男性と女性がいて、心理学の観点からも母性と父性というのが実際にあるのです
女性は家事や子育てを、なんて決まりはないし、今は男性でも積極的に家事や子育てに関わる方は増えているようなので、それはそれでいいのですが、母性と父性ってそういうこととも違うんです
そもそも母性が女性で、父性が男性、っていうのも違うんですよね、と篠先生と頷き合いました
主婦じゃなく、主夫として家のことや学校、習い事のことを中心となってしている男性もいるし、
両親が別離し、シングルで子育てをしている方だっています
そういうケースも特に「例外」として考えない、というところも篠先生と意見が一致していました
とにかく、男子が育つ間に「父性のロールモデル」は必須、そして、いま、それが圧倒的に足りていません
男子が、母性をロールモデルとして育っているのです
もしかしたらもうすでに、いま、お父さんをしている方々も、母性をロールモデルとして育ってきたのかもしれない世代です
お父さんは家から離れたところに仕事に行き、
家に帰ってくると仕事はしません
そういう、お勤め人が男性の仕事の多くを占めている今、それは仕方のないことなのですが、
見渡しても周囲に、「父性」が見えない昨今、
あえて父性のロールモデルを意識しないと、子どもが、特に男児が育ちづらい、ということなのです
そう、昔は父親が外に働きに出ていて、その姿が見えなくても、周囲に父性のロールモデルは転がっていました
学校にもあったし、近所にもいました
でも、いま、そんな姿もほぼありません
たとえば力仕事をする姿
たとえば男たちが集まって祭を作り上げる姿
お金を使うのではなく、力を使ってなにかを動かすそんな姿が、あまり見られなくなりました
私は、
ただのこぎりで太い木を切るだけでもいいのに
ただ川の向こうまで石を投げて、届いちゃうのを見せるだけでもいいのに
と言うと、篠先生も共感してくださいました
家の中でのことはやっぱり女性が主導権を握ります
細やかな仕事や、丁寧な手仕事は、男性が本領を発揮しづらいです
もちろん、そこに男女差はなく、うちは逆だ、というケースがたくさんあるのも承知しています
でも、私が書いているのは、ごく象徴的なことです
男性は力強く、女性は細やかで繊細だ、なんて古くさい決めつけだ、と批判されるかもしれないけど、
生物的に私たちの身体は、骨格も筋肉のつきかたも、男性と女性とで違っているのは事実で、
それを生かした生き方をしているのも事実です
子宮や母乳など、胎内で子どもをこしらえるのは女性ですし、子どもが産まれてしばらくは密着して育てるのも女性です
それは男女差別でも古くささでもなく、区別であり、役目であると私はずっと思っています
男性の大きな体と低い声を生かして、それを堂々と見せるだけで、それが父性のロールモデルになる、ということなのです
男性は立っているだけで、女性より威圧感があり、「強い」イメージがあります
それだけで充分存在意義があります
実際には心優しく繊細な男性なのだとしても、その体格や低い声を生かさない手はありません
その強さを何に使うのだ?というと、
家族や愛する人を守るために使うのです
その姿を見せるのです
子どもより遠くに石やボールを投げられる
子どもより速く走れる
子どもより大きくて重いものを持ち上げることができる
自分の得意なことでいいのです
私の教え子のいろいろな幼少期を思い出すと……
ある生徒は父親のバイクいじりをずっと見ていました
どんぐりをはじめたばかりの頃、クロッキー帳によくバイクのパーツや、タイヤの細かい印をやけにリアルに描いていたので、親御さんに聞いてみると、そういう姿がよくあったそうです
なんでも自分で直してしまう父親に憧れていたのだと思います
そしてもちろん、その父親は子どもと一緒に作業を楽しんでいたのです
ある生徒は父親と祖父が農業従事者だったので、
幼少期から当然のように農家仕事を手伝っていました
同じことをしても、父や祖父のようにはできないのですが、何年も手伝ううちに、彼らが本当に頼りに出来るほどまでに成長していきました
さて父性には最も大事なことがもうひとつあります
それは「社会性」を育てることです
これを語り出すと心理学の領域となり、延々と書くことが出てきてしまうので、簡単な例で言うと…
いま、たとえばスポーツの習い事なども、お母さんが主体となって送迎や役員、試合の見守りなどもしています
近所のサッカー教室なども道路から見ているとコート脇にいるのはお母さんが多いです
平日の夕方などだとお父さんはお仕事中だから仕方ないのですが、
そんな練習する姿をずっと見続けているからなのか、最近では、試合の時にトラブルが増えているようです
たとえば選手たちをいわゆる1軍と2軍に分けると、保護者から苦情が来るそうです
そして、試合に出場させるさせない、という采配にも、苦情が来るようです
これも、
母性と父性とでは違う反応になります
母性では、「一生懸命練習したし、休んでもいないのに、なんでうちの子は2軍で、しかも、練習を休んだ子が試合に出ているのにうちの子は出ていないの…!」
一方、父性では「うーん。一目瞭然。しょうがない実力差だな。もっと練習させないと…」
そうです、苦情を言うのはお母さんたちで、現実を受けとめやすいのがお父さんたちなのだそうです
これはスポーツ指導者さんの話です
私自身も、子どもたちと山歩きなどをするときにちょいちょい目撃するものに近いものがあります
お母さんは、子どもの様子をよく観察していて、「寒くない?着る?」とか、逆に、「暑いんじゃない?汗かいてるじゃない、脱いだら?ほら、リュック持っててあげる」「お腹すいた?ちょっと食べておく?」「水分とってる?ほら、お水飲んで…」黙って見ていると、いろいろ世話を焼きます
ある時、いつもお母さんが付き添ってくる家庭で、お母さんの不都合で代わりにお父さんが参加したことがありました
お父さんは山歩きも久々だったようで、子どもの観察などせず、自分の歩くのに必死で、しかも、景色や周囲の様子を見ては楽しんでいるようでした
もちろん、子どもの衣服の着脱や、水分だの空腹だのについても何も気づかないし、何も言いません
私たちスタッフは全体を見渡して、タイミングを見て声をかけたり、自分で着脱しようとしている子を待ったりしますから、親御さんが我が子にすることは何もないのです(だからDSSの活動では「我が子に声をかけないで」と最近では決まりを作っているほどです)
子どもたちは、母親がいるときはただ待っています
判断すら、母親に委ねるのです
でも、何もしてくれない父親の場合、待つこともなく、自分で判断して衣服の着脱も、水分が必要なときは自分で立ち止まって水筒を出し、飲むのです
リュックはジッパーが中途半端に開き、脱いでつっこんだ上着の袖が飛び出たりしているのですが、それを直す母親がいないので、そのまま元気に歩き続けます
自分で判断するから、私たちの声かけも自分ごとになります
もちろん、母性も父性もないや、それはその人の性格でしょ、といえばそうかもしれません
でも、前述のスポーツ指導者も私も、長年多くの親子を見てきた実感としてそういう傾向は否めません
昔のお父さんは家父長制や封建社会で「えらそう」にしていたし、そういう男性があちこちにいたし、男尊女卑で男性は偉かったのですが、それはそれで社会の秩序は保たれていた部分はあったようです
スポーツチームの1軍、2軍じゃないけど、ある程度実力差、身分差がある中でみんな暮らしていて、それをひっくり返す理論や感情論は多くなかった、だから、悔しくて頑張ることもあっただろうし、差別の中、力をつけてのし上がる人もいたのでしょう(男性でも、女性でも)
理不尽な社会ではあったけれど、今ほど、子どもが苦しんでいなかったはずです
でも、民主主義になり、男性が男性であるだけで「えらそう」に生きられなくなり、家庭内では母性性が主導権を握り、その結果、母子密着家庭も増えました
乳児期の母子密着が継続するようになったからです
工業化社会で、男性が働いている姿も我が子には見えづらくなっています
そもそも、その男性自身も母子密着のまま大人になっている傾向も強く、(もう繰り返しが始まっているのです)夫婦間、家族間での人間関係の構築が困難になっている人も多くなっています
そんな男性を父親のロールモデルとして見て育つのですから、
子どもが社会性を身につけるのは困難です
子どもが最初に出て行く社会、それは、学校です
男性とか女性とか父性とか母性とかこんなにたくさん書いておいて最後にこんなことを書くのはおかしいかもしれませんが、私の結論として、やっぱりみんな「ちゃんと人間として」生きるだけでいいのに、と考えます
人間
社会性をもって他者と共存するヒト
ただの生物的な分類ではなく、私たちは人間として生き、人間を育てています
人と生きていけるヒトを、人間を
男性だろうと女性だろうと、目の前にいる人は、自分と共に生きる人です
家族なら寝食を共にするでしょうし、
ご近所や学校の人ならそのときだけのお付き合いですが、それでも、共に生きる人です
仕事の場での人も、共に生きる人
そういう人と共に生きるのが人間です
誰かと共に生きるため、その人を尊重する
そんな姿を見せるだけで、子どもはそれをロールモデルとして成長していきます
シングルマザーで父性性が家の中にない、と困らなくても大丈夫
座談会でも話題になりましたが、お母さんが親しいお友だち親子と一緒に食事をしたとき、
その友達が我が子にちょっとした注意をしてくれたそうです
普段はお母さんだって注意していて、困っていたことなのに、我が子は友達(大人の女性)に注意されて初めて正したそうです
それも、父性性です
人と関わって生きること
そのチャンスはそこらじゅうにあります
注意してくれる大人がいるなんて、そんなにありがたいことはありません
それはたぶん、そもそも信頼関係の安定したお友だち同士だから成し得ることで、
そこでも、大人の社会性が生きています
「女の子は育てやすく、男の子は育てづらい」とよく言われますが、
私はそうは思いません
ただただ、男の子が育つために必須の「栄養素」が不足しているだけだと思います
途中までは男の子も女の子も同じで大丈夫なんですけど、
途中からどうしても父性性が必須になってきます
それは女の子にも必要ではあるのですが、
男の子には、それがないと育たない部分があるのです
女の子は母子密着を自分から脱出する傾向がありますし、
母親は元女の子なので、そのさじ加減がわりと無意識にわかっています
男の子はずっと密着を続けるのと、
母親もその手を緩めない傾向が実際にはあります
密着していたいのは、母親の方だったりするのです
目に見えて手を離しているとか、つかんでいるとかそういうことではありません
精神的なことです
そこで重要な役目を果たすのが父性性です
なくてはならない役目なのです
お父さんたち、どうですか?
我が子が
特に男児の我が子が、
まだ母子密着から脱してないとしたら
将来、なかなか脱することをせず、ずっと母親依存していたら
表だってそうは見えなくても、
いつか誰かと恋愛したときに、
相手を大切にできなかったら
結婚しても、幸せになれなかったら
子育てや妻との人間関係に悩んで苦しんでいたら
我が子が、です(それら、母子密着が原因かもしれません)
想像してみてください
それは喜ばしい未来でしょうか
もっと、
見せてください
男性として、堂々と生きている姿を
伴侶を選び、共に生きると誓った妻を、大切にする姿を見せてください
そうすれば妻は、男児との母子密着を緩めます
その必要がなくなるから
上手に子育てしようとしなくていいです
ただただかっこいいところを見せてください
それには外に行きましょう
遠くまでボールを投げてください
高い木の枝にジャンプして触れてみてください
子どもも真似をするでしょう
でも、あなたには敵わない
手加減しなくていいです
思い切り、すごいところを見せちゃってください
かけっこして、ラストスパートでぐんと抜いちゃって
泣き出すかもしれません
悔しくて、お父さん嫌い!って言うかもしれません(そう育てちゃってるからね)
でも、気にせず、そんな遊びを続けてください
やっぱりかばってくれる、許してくれる、優しいママが好き、ってまた母子密着の袋の中に戻ろうとするかもしれません
それでも、また次に遊べるときには、そんな遊びをしてください
自転車で遠くまで走ったり、
山や川や海を見せたりしてください
そこには、
お父さんよりももっと大きくて強いものがあります
怖がるかもしれない
でも、大丈夫
その子はお父さんと一緒にいるのだから
強くてかっこいいお父さんと一緒に
書きながら、「私は男児だったの?」と思い返していました
私の父は戦争で父親を亡くしているので、シングルマザーに育てられました
父は父親を知らないのに、私と弟の父親をやってきました
母は元幼稚園教諭だし、子ども劇場運動などで子育ての勉強を一生懸命していましたが、
私が手本にしていたのは主に父だったかもしれない、と書いていて思いました
昔は近所の子ども同士毎日真っ暗になるまで遊んだので、
自分の親だけがロールモデルじゃなかった、というのもありますね
父は母とよく話していたのもあって、
私や弟だけでなく、近所の子にも面白い外遊びを提案してくれました
淡々と、高い竹馬を作ってくれたり、
自転車で遠くまで行こうとしたり、
30kmほど離れた母の実家まで「歩いていってみよう」とか言い出したり、
家族の誕生会は「別荘」でホルモン焼きでした
「屋根なし壁なし別荘」と呼ぶ場所は何カ所かありました
山の上や、川原、私たちには別荘のようななじみの場所でした
夫婦して得意なスキーではスパルタ指導だったし…
夜勤明けで寝ていなくても、私たちが休日だと絶対に寝ないで一緒に遊んでくれました
晩御飯のあとは、仕事場で見た景色や生き物の話、私たちが話題にしたことを百科事典で調べて読み上げてくれたり、社会人になってから月給が出る旅に1枚ずつ買い集めた、という自慢のLPレコードをかけたり
母と違って、子どもの扱いはたぶん上手じゃなくて、
今でも当時と同じテンションでしゃべります
つまり、私たちが幼い頃から大人相手にしゃべるような口調でした
家の塀から門から自分で木工で作ってしまうし、車も、自転車も、父に頼むと直してくれました
私の今の生き方は父がロールモデルなんだな…と
一瞬思ったのですが、
大皿にたくさんの料理を毎日作ってくれた母、
みんなに声をかけて楽しいことしよう!っていつも大きな声で笑ってた母も、
やっぱりロールモデルでした
やれやれ
やっぱり、男児は父を、女児は母を、ということではなく、
子どもは親の、人間性、社会性をモデルに成長しているのです
特に、
誰かを大切にすること、それは、見せ続けなければなりません
だって、誰かを大切にし、大切にされる人間に育ってほしいのですから