冊子「『デジタル教科書』を問い直す~危ぶまれる子どもたちの思考力~」
歌人の俵万智さんが寄稿していると知ってこの冊子を読んでみました
川島隆太さんも寄稿しています
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ぜひ、ご一読ください
川島さんの言うように、
(デジタル教科書の迅速な導入計画は壮大な社会実験、人体実験である、と明言した上で)「ヒトを対象として、何か新しい研究を行う時には、研究の目的と安全性に関して、客観的事実をもとに論理的に説明することが最低限のお作法であることは常識である。目的では、なぜその研究を今行う必要があるのか、どのような研究の成果が予想されるのか、その成果がどのように社会で活用できるのかを明らかにする必要がある。安全性に関しては、実験の対象者に、研究の目的や予想される結果について説明をした上で、研究に参加することでどのような影響があると予想されるのかを説明、参加同意を得る必要がある。(中略:文科省ホームページでは)教育ICT化の安全性に関しては、何も触れられておらず、倫理的配慮がなされているとは思えない。」
そう、コロナ化で急速に学校現場にICTが入り込み、
その数年前まで「子どもたちに電子機器をできるだけ触らせないで」と学校通信にあったのに、まさにてのひら返し
言語脳科学者・脳計測科学者で東大大学院教授の酒井さんは
「さまざまな問題点を抱えたデジタル教科書やAIが導入されることで、子どもたちの言葉の力と考える力が衰え、全ての教科で学力低下が懸念される」と断言
そして俵万智さん
「デジタル情報は、中途半端に出会った気にさせます。端末を手にすることで気が散る、子どもには情報量が多すぎる、検索して手軽に結論を得る癖がつく、視力の低下…聞こえてくる弊害は多々あります。その解決策が示されないまま導入することは、大げさにいえば人体実験ではないでしょうか。子どもの人生は一度きりです。もっと慎重になるべきだと思います。最後に、さらに「そもそも」なことを言いますと、教育にとって大事なのは、教科書よりも教員です。優秀な人、素敵な人が教員になれば、紙とかデジタルとか関係ありません。デジタルに使うお金があるなら、先生がたの給料を上げた方が、よっぽどいいのではないでしょうか。」
子どもとメディア研究所の清川輝基さんの講演会に何度も言っています
本に書けないきわどいこと、その広い人脈から、公には知られていない現実を講演では色々話してくれます
清川先生はずっとずっと前から、
家庭でデジタル端末を子どもに使わせることについて「人体実験にわが子を差し出している」と断言していました
その影響がどのようなものなのか、誰も知らない、結果が出ていない
そして、子どもの生活や、視力、運動能力に明らかに異変が出ているのに、平然と買い与えている
子や孫に喜ばれるため、望みを叶えるために、よく調べもせず、疑いもせず、売っているから、流行しているから、という無責任な理由で買ってしまう、と
最初にその話を聞いてから何年経ったでしょう
その後、コロナ後の講演では、ついに、学校で積極的にデジタル端末を使わせてしまっている、という悲劇が起こっていました
質疑応答で、ある方が挙手をしました
「育休から戻ったら、子どもたちがタブレット端末を一人一台持っていて、宿題や連絡帳の役割もタブレットに変わっていて戸惑っている。どうしたらいいのか」と質問していました
私はその方の発言を聞いて、どうにもならない違和感を覚えました
「いやなら使わなければいいのに」
私が担任だったら、タブレットの役割を最小限に(なんならナシに)するだろうな
清川さんの講演に来るくらいの先生だから、きっと「よくない」って思っているはず
他のクラスがどうでも、担任の先生ならクラス内のことはクラス内でできるはず
全ての細かいことまで全部他のクラスに合わせなければならないとしたら、
教室の貼り紙や、装飾、黒板周辺の小道具など、担任の先生の自由がきく部分はどうなっているのか
なんなら宿題だって他のクラスと全然違うものを作って出していた先生に出会ったこともあります
もちろん、「全部同じではなくては困ります」と言ってくるような管理職(上司)とは折り合いが悪かったかもしれないけど、あの先生が子どもたちのためにしてくれていたことを、私も、子どもたちも一生忘れないでしょう
話が逸れました
戻します
連絡帳くらい、自分で書かせればいい
そう、思っていました
ところが
結論から言うと、たぶん、もうそれは難しいことなのでしょう
子どもたちの多くは、そんなこともできなくなっています
板書されたことをできるだけ正確にノートに書き写す、ということ
それを日常的にしていないからです
その、講演会でのとある教諭の質問について悶々と考えてから数年経ちました
それから色々な教諭と話しました
学校現場でのさまざまな現実を知りました
そして、
全国に散らばっている私の生徒たちの学校の様子を知りました
私たちの小中学生時代は、
教科書とノートが授業を受けるための必需品でした
ノートは市販の大学ノートで、
先生が黒板に書くことを書き写すために必要でした
でも、今はノートの代わりにファイルを持っています
もちろん、ノートを使う授業をする先生もいるでしょう
でも、大半はプリント穴埋め式です
いつからなのか
たぶん、最初は先生の負担を減らすために、先生同士が工夫して、作り出した方法なんだと思います
私たちの時代でも、大きな模造紙に板書を予め作ってきて、それを黒板に貼って授業した先生がひとり…いたような記憶があります
もしかして教育学部の学生の教育実習だったかもしれません(それが最先端だったのかな?)
今は模造紙ではなく、
プロジェクターを使ってボードに映し、そこに書きこむ形が多いようです
なんだか急に興味が出てきました
塾や予備校はどうなんでしょう
私がよく目にする塾関連の授業動画では相変わらず黒板に板書している先生がいます
私も板書をすごくたくさんしていたので、
1ヶ月で制服のブラウスがダメになっていました
袖に、チョークの色がついて落ちなくなるのです
生徒たちは板書を書き写しながら話を聞きます
その頃から、そんなマルチタスクが完璧にできるのは最上位クラスのみだったので、
私は、クラスごとに板書を書き写す時間を設けたり設けなかったりと区別していました
「今は書かないで話を聞いて」と声をかけてから話し始めないと、書くことに集中して聞かなくなる、また、下位クラスでは、書いている途中に消しゴムやシャープペンが気になって、違う世界へ飛んでいってしまう子が多いからです
それでも、
まっさらなノートに日付、ページ、問題番号を書いて、自分で見やすく書きまとめていく作業は、どのクラスでもとても頭を使う作業でした
もちろん、
ただ書き写す、というのがとても困難な生徒もいて、それはこちらはすぐにわかりますから、個別に対応するだけです
そういう生徒にはこっそり穴埋め式の教材を別で作ってあげたりもしたものです
数式を教科書からノートに書き写す、ということを一生懸命させていた数学担当もいました
まず、問題を書き写し間違えるので、不正解になる、と嘆いていて、
よく見ていると、
1文字、1文字、教科書とノートを視点が往復しているのだと気づき、
一度に何文字まで記憶して書き写せるのか、調べながら、鍛えながら根気よく見ていました
たとえば35x-568yという数式で、
一度に覚えられる子もいれば、
35xを書くまでに教科書とノートを視点が3往復する子もいるということです
いろんな特性の子がいます
でも、それを矯正したり鍛えたりすることだけが重要なのではありません
重要なのは、そういう作業を通じて、本人が自分の特性を知る、ということです
差がよくわからない(しかも画面で何を見ているのか教壇から見えない、という)デジタル端末ではますます子どもは自分の特性を知らずに認めずにやり過ごしていくでしょう
とにかく、教科書が紙かどうかはともかく、
話を聞くこと、書き写すこと、紙に鉛筆で思考過程を書いて解くこと、
ページをめくること、書いてあることを探すこと、そういうアナログな動きそのものが、
子どもの脳を活性化させています
指先を使って、消しゴムをペンケースから取り出し、決めた部分だけをゴシゴシと消すこと
鉛筆とペンを持ち替えること
開いた教科書が閉じてしまわないよう、おもりを乗せておくこと、手でおさえること
そんなの全部なくていい、と言いきれるでしょうか
子どもたちは頭と身体を使って、授業を受けていたのです
デジタル教科書なら指定のページをぱっぱとタップしたりしてすぐに見つけられるでしょう
触れば音も出てくるし、なんならヒントも出てくるのでしょうか
でも、俵万智さんの言う通り、そんなことより先生の質では?
高機能な端末なら、ひとりでも勉強が進められるわけで、先生の質は問わない、先生はいらない、ってことにもなるんじゃないかなあ
とにかく子どもたちはデジタル教科書以前に、
まっさらなノートに自分なりにノートを書いていく、という経験をあまりしていません
だから
書けないし、まとめられません
話を聞いて「大事」って思っても、ぽーっと聞いているだけで、メモもしません
説明しているのだから話を聞けば「なるほど」と思うのは当たり前です
でも、聞いているだけでは忘れてしまうんだ、ってことを知らないし、
忘れてしまっても気づかないのです
そのくらい、「知識を得る」「知識を定着させる」ということに関心がないのです
関心を持てない、持たないように教育されてきた、という感じです
学校だけ、親だけが悪いんじゃないんです
社会全体の仕組みがそうしてしまったんです
だからって誰かのせいにしていられない
だからだから、気づいた人は動こうよ、って伝え続けています
子どもの当たり前で自然な発達を守ろうよ、って
私の高校時代の地学の先生は、
「授業の最初に必ず雑談をするから、それもノートにメモしておいて」と言って、
子どもの頃、利根川を泳いで渡った武勇伝とか、そういう小咄をしました
私はイラスト付きでノートの上部の余白にそれをメモしていました
そこから、その日の授業が始まります
先生曰く、「記憶を引き出すトリガーだ」とのこと
なるほどです
その話は私もよく生徒たちにしていました
でも、
いつからか、
雑談どころか、大切なことも、書かずに聞いているだけ、見ているだけで「納得」みたいな顔をする子が増えました
そして、デジタルどころか、紙の教科書にさえ大きく太字で書いてある重要事項も、
書いてあっても読んでいないんだな、という状態が多く見られるようになりました
たとえば英文の書き方
文頭は大文字で、
単語と単語の間は1文字分くらい空ける
教科書の最初の数ページを見れば、
I(アイ=私は)はなんでかいつも大文字だな、って見える
それを、
「そういうもんなんだな」とひとりで納得する(合格!)
「なんでこいつだけいつもどこででも大文字なん?」って聞いてくる(合格!)
気にも留めずに大文字で書いたり小文字で書いたり…(どうか気にしてくれっ!!しかもルールだ!)
これってなんでなのかなあ
30年以上定点観察してきて、確実に子どもたちの様子は以前と違っていて
そして連絡帳の話に戻ると、
黒板に先生や日直が書いたことが連絡帳に書き写せない、という子が増えていて、
だから、タブレットで一斉連絡とか、先生が予め用意する物を家庭用にプリントしておくとか、そういう対処がなされるようになってきたのだけど、
それって、しないままだと一生しないので
ああ、そうか、大人になってそういうことが必要になっても、
携帯電話で写真を撮ればいいんだ
それで済むんだ
以前、友達がぼそっと言っていました
大事大事、って結構スマホで撮影してくるけど、
見かえしたことないんだよね
昔はいちいち手帳に書いたりノートに書いたりしていて、
そういうの、あとで見かえして思い出したりして楽しんでたな
時代が変わった、で済まされるでしょうか
大人の生活の変化じゃないんです
人間の、発達段階に関わる重要案件です