
『脱「学校」論』白井智子さん著
第1章 なぜ「学校」は機能しなくなったのか?いま「脱『学校』」が必要な理由
「違いを愛しむ」子どもを育てるために
教育を受け、教養を身につけていくことによって、人は自分を理解し、他者を慮る力を獲得する。教養の定義も色々あると思いますが、私自身は「人の心を慮り、理解しようとする力」「『どれだけ想像しても、人の心を完全に理解することはできない』ことを理解する力」だと考えています。それは「多様性を尊重する力」につながります。しかし、現状の教育は必ずしも、子どもたちにそうした力を身につけてもらえるかたちになっていません。
多様性を尊重する第一歩は、「違いを知ること」だと考えています。言葉、考え、学び方、あるいは身体…あらゆる人には差異があることを知り、その違いを慈しむことができること、人と自分とをむやみに比べないことが、自分の幸せな人生を自分の手で創っていくための最低限のベースです。
これまで多くの子どもたちに関わって得た実感から言えば、多くの子どもは放っておくと他人と自分を比べて嫉妬してしまい、ときには自分が優位に立つために相手を陥れようとしたりすらします。もっと言えば、大人ですらそうでしょう。その負のエネルギーが、大きな社会的な損失を産み続けている。(中略)「違いを慈しむこと」を知らない子どもたちが多いのは、その重要性を身をもって伝えている大人が少ないということ。教育の現場を含めて、「違い」を尊重することの優先順位が低いからです。
それはそうですよね。親は兄弟と自分を比べ、先生は自分のクラスと隣のクラスを比べ、教育委員会は隣の自治体と比べてその差に一喜一憂する。学校選びという自分が生きていくコミュニティを選ぶ人生の大きなターニングポイントでも、他者と比べてペーパーテストの点数が高い人が選ばれ、点数が低いと落伍者とされる。そんな環境で日々育っているのに、「他者と比べない。違いが大事」と言われたって、そんなの絵空事じゃないかと思ってしまうのは当然です。
みんなちがってみんないい、
とか、
世界に一つだけの花、
とか、
急に流行ってみんな「いいね」って言うけど
心の底からそう思っている人が多いならもう少し違う世の中になっているはず
「自分と違う」を文字に残し、相手を傷つける
違う考えの人と、対話もできない
そうか
教養ってそうかもしれない
と、振り返って思う
誰かと出会って
何かと出会って
新しいことに出会って
私たちは考える
自分の人生、生き方になぞらえる
その時、思考回路が、感性が、揺らぐだろうか、ってことなんじゃないかと
ゆらぎもしない固まった回路や感覚が、
人と交わろうとしない、人を慮ることもない原因なのでは
旅に出て思う、
いろんな土地にいろんな生活がある
本を読み、映画を見て思う、
こんなことが現実にあったら自分ならどうだろう
人に出会い、思う
この人の抱える人生ってどんなだろう
少しでも想像力が働くなら
少しでも感性が揺れ動くなら
そこから新しい視野が開けるのだと思う
何歳になっても
でも、
そもそも微動だにしないその部分が
邪魔しているのかもしれない
そんな風に、そんな人間に、育ててしまうのかもしれない
せめて親になれた人は
せめて子どもが身近に生きている生活をしてる人は
気づいてほしい
まだ間に合うと
子どもにはまだ
間に合うと