ルソー著 今野一雄訳『エミール(上)』第2編より引用

 子どもを不幸にするいちばん確実な方法はなにか、それをあなたがたは知っているだろうか。それはいつでもなんでも手に入れられるようにしてやることだ。すぐに望みがかなえられるので、子どもの欲望はたえず大きくなって、おそかれはやかれ、やがてはあなたがたの無力のために、どうしても拒絶しなければならなくなる。ところが、そういう拒絶に慣れていない子どもは、ほしいものが手に入らないということより、拒絶されたことをいっそうつらく考えることになる。かれはまず、あなたがたが持っているステッキがほしいという。つぎには時計がほしいという。こんどは飛んでいる鳥がほしいという。光っている星がほしいという。見るものはなんでもほしいという。神でないのに、どうしてそういう子どもを満足させることができよう。
 自分の力でなんとかなるものはすべて自分のものだと考えるのは、人間にとって自然の傾向だ。この意味ではホッブスの原則はある点まで真実だ。わたしたちの欲望とともに、それを満足させる手段を大きくしていけば、人はみなあらゆるものの支配者になるだろう。だから、ほしいといえばなんでも手にはいる子どもは、自分を宇宙の所有者と考えるようになる。かれはあらゆる人間を自分の奴隷とみなす。そして最後に相手がなにかことわらなければならなくなると、自分は命令しさえすればなんでもでいると信じているかれらは、その拒絶を反逆行為と考える。道理を考えることのできない年齢にある子どもに言って聞かせるいっさいの理由は、子どもの考えでは口実に過ぎない。かれはあらゆる人のうちに悪意をみとめる。これは不正だという考えが、かれの天性をゆがめる。かれはすべての人に憎しみをもち、いくらきげんをとってもうけつけず、あらゆる反対に対して腹を立てる。
 そんなふうに、怒りに支配され、このうえなく激しい情念にさいなまれている子どもが幸福であるなどとどうして考えられよう。そんな子が幸福だとは、とんでもない。それは専制君主だ。だれよりもいやしい奴隷であるとともに、だれよりもみじめな人間だ。そんなふうに育てられた子どもをわたしは見たことがあるが、かれらは、肩のひと突きで家を倒せと言ったり、教会の塔のてっぺんに見える風見の鶏をくれと言ったり、行列する連隊をとめて、もっと太鼓の音を聞かせろ、と言ったりして、すぐに言う通りにしないと、かんだかい声でわめきちらし、もうだれの言うことにも耳をかさないというふうだった。みんながいくら一生懸命になってきげんをとってもだめで、なんでもすぐに手にはいるために、欲望はますます強くなり、不可能なことを言いはって、けっきょく、どちらをむいても反対と障害と苦悩をみいだすにすぎなかった。たえずどなりたて、いきりたち、あばれまわって、泣いたり、不平をいったりして毎日をすごしていた。そういう子どもたちが恵まれた人間といえるだろうか。弱さと支配欲が結びつけば狂気と不幸を生みだすにちがいない。甘やかされた二人の子どものうち1人は机をたたき、もう1人は海の水をむちで打たせる。いくら打ったり、たたいたりしたところで、かれらは満足して生きることはできない。
 そういう支配と圧制の観念が子どものときからかれらを不幸にしているとしたら、かれらが大きくなって、他人との交渉がひろがり、ひんぱんになったばあいには、いったいどうなるか。すべての人が自分のまえに頭を下げるのを見なれてきたかれらにとっては、世間に顔を出して、すべての人に抵抗を感じ、自分が思いのままに動かすつもりでいた宇宙の重みに自分がおしつぶされているのを見るとき、それはなんという驚きだろう。
 かれらの生意気な態度、子どもじみた虚栄心は、苦悩と軽蔑と嘲笑をまねくばかりだ。かれらは水を飲むように辱めを飲みこむ。苦しい試練はやがて、いままで自分の地位も力も知らなかったことをかれらに教えることになる。なに1つできないかれらは、もうなんにもできないのだと考えるようになる。これまで知らなかったいろいろな障害がかれらをがっかりさせ、多くの人の軽蔑がかれらを卑屈にする。かれらは卑怯者、臆病者、下劣なものとなり、いままで不相応にもちあげられていただけに、こんどは必要以下の低いところに投げ込まれてしまう。

(引用おわり)

訳者今野さんが1962年に書いた解説の一節の中で、
「いくら不朽の名作でも、200年前の教育論なんか読んでいる暇はない。ぜひお読みください、とは言いますまい。(中略)しかし、別のページを開いてみるとこんとは、つぎのような意味のことが読まれます。“遠い先のことばかり考えて現在のことを忘れているのはばかげたことだ。人間はいずれ死ぬ。生きている間に生活を楽しもうではないか。そして幼い者にも、純真で快活な時代を十分に楽しませようではないか。(中略)わたしたち大人のモラルや習慣で子どもをしばりつけるようなことはやめよう。子どもが理解できないことを教えようとしてやっきになるようなことはしまい。”こんなことを読むと、小さいかたのお相手にあけくれているあなたには、いくらか思いあたることもあるのではないかと思います。」と書いています

確かに、ルソーがエミールを書き、初めて出版されたのが1762年
今野さんが訳し、上記解説文を書いたのが1962年で、
現在は2019年ですから、いかにも時代遅れの教育論なのでしょうか?、
時代や国の違いから現代の日本人にとっては当てはまらないと思いがちな部分も多く、昔から賛否両論の本ですが…

私には『センス・オブ・ワンダー』と並んで、子どもに関わる人間ならだれでも根底に持っていてほしい基本的な理念が書かれている本だと昔から思っていました
「子どもを不幸にする」なんて過激で怖い言葉です
ルソーが上に書いた例は「何でも手に入る状態」の子どもの場合で、
特に、物欲の部分のことが書かれています
もちろん、長い長い『エミール』のなかの
ほんの一節でしかありません
ルソーは、「なら、どうすればいいのか」ということも
たくさん、たくさん書いていて、
やはり、
子どもでも大人でも「思うようにならない」自然の中で過ごすことが
一番だ、というようなことも何度も出てきます

そんなに大げさなことじゃなくても、でも、
周囲を見渡すと、子どもを「何でも手に入れられる状態にしている」なあ、と
感じてしまう例は少なくありません

そのほとんどが親の愛情であり、優しさであり、もちろん、
わが子のためを思い、よかれと思ってしていること、言っていることに
違いありません

でも、たとえば上記の物欲の部分で言ったら、
「自分は何も買ってもらえなかったから、わが子にはできるだけ買ってあげたい」
と言っている時点で、
これはもう、自分とわが子とを同一視し、
勝手に自分のことをわが子に置き換えて自分の願望を実現させているに過ぎません

それのどこが悪いの?と思う方もいるかもしれません
でも、たくさんの子どもたちと接してきて、また、たくさんの親御さんと話してきて、
どうしても、ご自分の願望を子どもの成長としっかりと分別できない方は、
どこかで必ず大きな壁にぶちあたり、
親子で苦しむことになります

たとえば学力や勉強面で言ったら、
「自分はもっと上の学校に行きたかったけど行けなかったからわが子にこそは」
という親の思いも、
「自分は努力して高学歴を勝ち取って今の生活に満足しているからわが子にも」
という親の思いも、両方とも、
親自身の願望をわが子に押しつけているに過ぎません

もっともっと些細な、生活の中のちいさなことでも、
子どもが暑いとか、寒いとか、体感して対策を自分で練る前に、
手出し口出しをしすぎてしまう
そのため、最初は涼しくしてもらったり、着替えさせてもらったり、
暖かくしてもらったりしてほほ笑んで満足そうな子どもも、
次の回では「暑い!!」「寒いんだけど!!」と
親に強く望むようになっていきます
何かしてもらって当たり前なのですから

それは、上記の「何でも手に入れられる状態」となんらかわりありません
子どもの考えるチャンスを奪い、
感覚を言葉で伝えるチャンスを奪い、
感情さえも奪います

いまは、子どもが少なくて、
「何でも与える」ひとが親以外にもごく身近にいます
こりゃ大変だ…と「子の親」に同情しなければならないほど
困った「祖父母」の存在も何度も見てきました

何でも手に入る時代だからこそ、
何でも簡単にできる時代だからこそ、
子どもを何でもできる素敵な人間に育てるためには、
わたしたち大人は「与えない」努力を要します

そして、奥に入り込んでどうしても見えづらくなってしまっている、
「心」を見失わないことです

かわいそうなのは欲しいものが手に入らない子どもではありません
なんでも親(祖父母など)が与えてくれて、それが当たり前と思っている子どもです
いくら「これが当たり前じゃないんだよ」と言い聞かせても、
それは伝わりません

かわいそうなのは不便で流行に乗らず暇をもてあましている子どもではありません
なんでも親(祖父母など)が手取り足取りケアしてくれて、できるだけの流行を取り入れ、物に溢れ、よいと言われる習い事やイベントにせっせと送迎してもらっている子の方です

子どもを不幸にするのは簡単なことです