教室でだってそうなんだから、
おうちどんぐりで頑張ってる保護者さんたちだって
この壁に当たることは少なくないのです


「子どもが、正解を出したがる件」

えっ…
それのなにがいけないの?
文章問題を解いて、「正解」を出すのも、「正解」が出るまで粘るのも、「正解」にたどり着くまで教えてもらうのも、当たり前のことで、悪いことであるはずがない…
誰しもそう思いますよね

自分たちだってそうやって勉強してきた
難しい問題にあたったり、何度解いても正解を導けない時、
先生に教えてもらったり、参考書で調べたりしたものだ!そんなの当然!とね!

どんぐりでは「ノーヒント」が指導者のルールですから、
問題を解いてる最中になにかアドバイスしたり、解き方を導くようなことをするのはタブーです
っていうか、そんなことをしたらそこで獲得するはずの「思考回路」は獲得できなくなるので、それを知ればアドバイスなんかしたくもなくなるんですけど、それでも、目の前に愛しい子どもが救いを求めるまなざしで目に涙をいっぱいに溜めて見つめてきたら…
心を鬼にするのは厳しい仕事かもしれませんね(頑張って修行してください!)

でも、私は大好きなんです
わからないなあ…むずかしいなあ…答えが出ないなあ…って悪戦苦闘する子どもたちの様子を見ることが
だから、「お宝にします…」と寂しそうに途中までの作品を申し訳なさそうに持ってくる子も大いに褒めます
途中まで解いたその作品を見て、「いいねえっ!」ってにこにこでしばらく眺めます

「なんだよ、解けてないのにその笑顔っ…」って、子どもたちは不可解な顔をしていますが、
それでも、その笑顔で伝え続けます
一番大事なのは、ここなんだよ、って

それでも正解が出ると嬉しそうで、「よかったねえ」って一緒に喜びはするのですが、
私の笑顔の分量は全く同じで、一生懸命描いて考えた形跡を見る時の心の中のメーターは、
正解が出ても出ていなくても、ほぼ同じくらいに振れています

ねえ、どうしたらこの気持ち、わかってくれるのよ!?って、声に出していうことだってあります
私はこの状態でも充分素晴らしいと思っているんだってば!
だからそんな悲しそうな顔しないでよー!って
わかってきた子は堂々と持ってきます
先週は、「楽しかった~」って言いながらクロッキー帳を持ってきた子がいました
正解はしていませんでした
「サイコーだね!」って言って、お宝スタンプを押して返しました

子どもたちをそんな風に、「変なこと言うセンセイだなあ、でも、まあ、そういうことなんかなあ」ってわからせていくのは、こんな日々の私の伝え方でコツコツと…というものなのですが、結構、わかっていただけないのは親御さんの方なのかもしれない!と時々思うことがあります

親御さんもまだ、まだ、「正解数が少ない…」とか、「またお宝…」とか、思っていませんか?

学校のプリントやテストに一般的にどういう感想を持つのか、私にはわかりません
私自身は、わが子の学校のプリントやテストで心を動かされたことはなく、
わが子が試行錯誤して解いたような問題もほとんど見たことがないので、
ああ、教科書通りこうやって解いてるわけねっ
という感想くらいしか持ちませんでした
自由に思考させてもらえる問題は少ないので仕方ないのです

でも、どんぐり問題に関しては、試行錯誤の跡しか見えません
試行錯誤を紙上で行う、ということさえできれば、
その紙面上で、「考えているな」か、「考えていないな」ということは、一目瞭然です
これは、ものすごいバロメーターではないですか?
私にとっては、どんぐり問題は、子どもたちを知るための大切な架け橋なんです

それなのに、大人が導いて「正解」を与えてあげよう、なんて、その子をますます迷わせることになりますし、その子の本当の姿はどんどん見えなくなるので、いずれは導き方もわからなくなるでしょう
そんなことより、「今、この子は、こういう問題で戸惑うのだな」「もしかしたらこの言葉の意味を体得していないのかもしれないな」とか、そういう部分を発見できたら、その子が獲得すべきことは何なのか、今、なにが不足していて、なにが余計なのか、わかってくるのです

学校のプリントやテストでも、そんなところを発見してくれる先生がいらっしゃるといいのですが、最近の傾向としては、全員揃った解き方をして、正解率を比較する、みたいな、いわゆる「1次データ」(子ども自身の答案作成時の状態を見ることができるデータ)は無視されたような状態です
そもそも、プリントそのものが、「考え方」を指定し、決められた通りに進めば誰でも解けるようになっている…それは恐らく、初めは「どんな子でも解けるように」という先生方、教材開発者の方々の親切な思いから作られたものなのでしょうけれど、それが実は、子どもたちの自由で伸び伸びとした考え方を封じることになっているなんて皮肉な現象に、どれだけの関係者が気づいているでしょうか

それでも最近は、「思考力」「自分の言葉で考え、答える」なんていうワードが、公教育の場でも出てきているのです
それは、再来年度からスタートする大学入試共通テストだったり、来たるAI時代における人間の持つ力の発揮方法であったり、そういう部分で、やはり、本当に必要な力はそこなんじゃないか、と一周まわって戻ってきた議論、とでも言いましょうか…
ずっとずっと、そんなこと当たり前だよ、ってやってきた私たちにとっては「おかえりなさーい」って気分でもあるのですが、そこで、やっぱり保護者のみなさんも、ご自分が受けた教育と、これからの子どもたちの受けるべき(?)教育って、ちょっと違うんだよ、っていうことを、勉強して、知ってほしいなあ、と思うのです
もちろん、小中学校の先生方も…
浸透するのがいつもとってもゆっくりなので、その間の子どもたちが少し心配なのです

『%が分からない大学生』という本の著者は、数学教育の専門家です
その本の中から、興味深い箇所を引用します



芳沢光雄著
光文社新書 2019年4月30日発行

第4章 数学は「心」が大切

4-1規則・プロセスを大切にする心

  規則・プロセスを大切にする「心」について、もう少し踏み込んで考えてみよう。
まず、規則・プロセスを大切にする心は、自分自身に自信を与える。そして得に数学の世界では、自信を持つことは「考え抜くこと」に結びつく。いわゆる計算問題が苦手であっても考え抜く姿勢を持つ学生は、最後に伸びることが多い。大学で数学を教えている多くの教員が思うことである。
 次節では、この「粘り強く考える心」について述べるが、これが数学の学びにとって最も大切な要素となる。
 規則・プロセスを大切にするとき、注意すべきことはそれぞれある。原則として、プロセスは他人に強制すべきものではない。得に、数学の優秀な人がマークシート式問題を嫌う第一の理由は、解き方を強制している点にある。自分自身で考えて問題の解法を探ることの楽しさを奪われる点に違和感を持つのだ。
 この件は、子どもの教育に関しても参考になる。親はついつい効果的な解法を子どもに教えたがる。しかし、まずは子どもに解きたいように解かせてみてから、「他の方法もあるよ」と言って効果的な解法を教えると良い。最初から効果的な解法を学ぶより、いろいろな解法を学ぶ中で効果的な方法を学ぶことが素晴らしいのだ。
(中略)
4-2粘り強く考える心
(前略)
 これから本格的なAIの時代に入ると、仕事の中身は大きく変わるだろう。コンピュータや機械と時間を競うかのような単純作業的な仕事はなくなり、それに代わって、いろいろなアイデアを論理的に説明するような創造的な仕事はより大切になるだろう。
 そのような時代を考えると、「は・じ・き」「く・も・わ」式の学びの延長であるマークシート式問題の答えを素速く当てるための学習と、問題解決のためにとことん考え抜く学びを比べた場合、どちらが大切になってくるかは言うまでもないだろう。
 そもそも前者のような問題ばかりに慣れていると、「数学とは問題を見たら答えを素速く当てる教科である」と勘違いしても不思議ではない。一頃、単純な計算だけを素速く行うと脳が”活性化する”という理由で、わざわざストップウォッチを持ち出して足し算と掛け算の訓練をすることが流行った。そのような奇妙な教育を子どもの頃に散々受けて、数学を誤解して大学生になった学生と話す度に、私は可能な限り手を差し伸べたいという気持ちを持って指導してきた。
(中略)
 さらに私は学生に対して、「問題を解くための手はどこかにある」という諦めない心が、数学に限らず人生全般にわたって大切であることを強調して発言している。
(中略)
 数学の苦手な学生の大多数は、問題集の問題を見て解けないと判断すると、直ぐに答えを見る悪い癖を付けている。問題を見てから1分くらい経つと、自分で考えることを諦めてしまう。「解き方」を思い出せないと判断すると、その段階でストップしてしまうのだ。そして、自宅で問題を解いている時には直ぐに答えを見て、一方で、小・中・高校や大学で問題を解いているときは直ぐに「この問題の『やり方』を教えてください」と教員に尋ねることになる。
 私は学生に、「問題が解けなくても、せめて15分くらいは自分で考える癖をつけることが良い。」と再三伝えている。その訳は大切なので次に述べよう。
 最近はカーナビゲーションが発達したことで、自動車の運転者が道に迷うことはほとんどなくなった。しかし、一昔前までは、道に迷うことは当然のようによくあった。そして、道に迷ったあとに目的地に到着した場合、運転者は同じ道で二度と迷わないのが普通である。しかし、同乗者は同じ道であっても、再び迷うことがよくあるのだ。
  これは、実は数学の問題を解く場合に似ていて、解けない場合でもしばらく考えてから答えを見たり他人に教えてもらったりすると、迷った分だけ「面」として理解することができるという性質を帯びることになる。そこで、時間を置いてから同じような問題に取り組んでも、なんとか解けるようになることがしばしば生じるのだ。
 一方、直ぐに答えを見たり他人に教えてもらったりすると、しばらくは最後の答えまでの道順を「線」として覚えている。しかし、時間を置いてから同じような問題に取り組むと、手も足も出なくなってしまうのだ。
 だからこそ、仮に自力で問題が解けなくても、「線」として理解するのではなく、「面」として問題を理解するためには、時間をかけて問題に取り組むことが大切なのである。ねばり強く考える心が大切なのは、それゆえである。
(引用ここまで)



大学で数学を教えている芳沢先生ですが、目次にも、文章中にも「心」という文字が多く使われていることが興味深いです

「粘り強く考え抜く力」ではなく、
「粘り強く考え抜く心」というのです

わたしには、わかります
「ちから」ではなくそれが「こころ」の問題だということが
だから、勉強しろ、しろ、速くたくさん解け、解け、って言われても、
その「心」は成長しないし、むしろ邪魔されてしまう、と思っています

表現は違うけれど、糸山先生が話してくださる「コピー回路」の話と似ているなあ、って思いながら読んでいると、次のような部分もありました

ところで、私は脳の仕組みに関してはほとんど知らないものの、非常に関心を持っているテーマがある。それは、おそらく深く解明されているとは思えないことだが、「夢の中で名案が浮かんで問題解決の手がかりになった」「ずっと考えていた問題が朝起きたら偶然に布団の中で解けた」というようなことが、数学ばかりでなく広い分野でしばしば起こるという現象だ。
 要するに人間は、眠っていたり他のことをしていたりする間でも、意識せずにいろいろと考えているということだ。このような現象は、何らかの問題に集中して取り組んでいる人ならば1回や2回は経験しているだろう。そして、そのような現象が起こるのは、真剣に考えたことがある問題に限られるようである。

なんとこれも、糸山先生の「小脳思考」のお話と同じです
私は中学生には「小脳思考」という言葉で、小学生には「お宝になった問題をくうちゅうで時々思い出してごらん、お風呂に入っている時、なにかを待っている時、ちょっと暇な時…ノートを開かなくてもいいから、1分暇があったらやってみー」って話すのです

私たちの脳には不思議なことがたくさんあって、
自分で自分の脳を使いこなすことも難しいと言われています
子どもたちの脳だって、大人にどうこうできるものじゃないんです
私たちにできるのは、子どもたちがその脳で、自分で自分のことを考えること、困難にぶちあたったとき解決の糸口を自分でさがすこと、…そんな逞しい子どもに成長してくれたらなあ、と願うこと、そして、邪魔しないこと、健全に導くこと
一番身近な大人が、まずそこをわかっていると、子どもは絶対、強く、優しく、賢く育つんですよ
それなのに、なぜ子どもたちは正解にこだわるのか?
正解じゃないとダメ、って大人に言われているからですよ
言われなくても、そういう圧を、日々感じているからなんです