16年ほど前
長女を出産、そして、
私がどんぐりに出会ったのとちょうど同じくらいの時期に出会ったこの本は、
精神科医の服部祥子先生の書かれたものです
内容はT君という自閉症のお子さんを育てたお知り合いのJ子さんというお母さんの子育て方法の紹介、そして、そこから服部先生が気づかされる「本当の子育てとは」ということについて
とてもわかりやすく、そして、ドラマチックに、描かれているものです

何度となく、「あそこになんて書いてあったかな…」などと、時々部分的に読み返してきた本ですが、時々、初めから終わりまで通して読みたくなり、読み終わると「そうだ、そうなんだ。」と自分の中で何度も何度も確認する、私にとってこの本はそんな存在です

今回、恐らく3度目くらいでしょうか
また最初から最後まで読み通し、初めて、「これはみなさんに伝えなくては」と奮い立ったので、ブログに書こうと思いました
でも、
できれば、この本を手にとって、実際に読んでみていただきたいのです
自閉症のお子さんをお持ちの親御さんはもちろん、
発達障害と診断されたお子さんの親御さん
それから、健常児を育てている親御さんも
そんな親御さんたちの近くにいる方々、それから、それから、
これから親になるかもしれない人たちにも
(以下、引用は色つき文字です)


 さて、赤ちゃんの時期を過ぎたT君は、初歩(1歳四ヶ月)も初語(1歳五ヶ月)も遅れ気味であった。クールで要求が少なく、おとなしくて1人遊びが多い子だった。呼んでも振り向かず、「自分勝手な感じのする子」という印象が強かった。しかし、じっとしているので何もしていないかのように見える時でも、よく観察をすると、雨戸の細かいすきまから光がさし込み、その光の中を塵埃が浮いていて、T君はどうもそれに見入っているらしいということにJ子さんは気づいている。また母親が外に出ていて帰ってみるとT君が泣いていた(1歳八ヶ月)。J子さんはその時、求めないように見えても、T君は母を彼なりに意識していると感じた。そんな中でJ子さんは「私が育てないと、この子は生きていけない」という考えをもったという。
 親が育てないと子どもは生きていけない。私は単純で明快なこの言葉の中に、子どもを生かし伸ばしていくことを目標にかかげた親の並々ならぬ決意を感じる。表面的に眺めただけでは、T君は人間に関心を寄せず、特異な偏りのある子としてしか見えない。ところがT君はT君ならではの素材を内に秘めている。その子の本質まで掘り下げて見ているのは親だけで、その親が育てなければ誰が育てられようか、という自負心が、私が育てようという言葉にはこめられている。穏やかに、ひかえめに、含蓄さえこめて語るJ子さんが、ごく当たり前のことだというようにさらりとこう語った時、私は高らかに情熱をこめた決意を聞くよりも、はるかに大きな迫力を感じた。
 J子さんの話を聞いていて私は、「子育ては親がとりくむに値するもっとも偉大な事業である」ということを久しぶりに確信した。いわゆる健常児(普通の能力を持っている子ども)の親には、放っておいても子は育つ、という考えがある。それはそれで大切な心理を包含してはいるが、その考えに「あぐら」をかき、親は適当にやっていればよいという粗雑な子育てをしてしまうことが多い。しかし雑駁な対応に終始してしまうには、子育てはあまりにもったいない活動である。四六時中、堅苦しく考えよというのではないが、子どもに障害があろうとなかろうと親であることの中核に「私が育てよう」という決意をもつことが、きわめて大切なことと思う。

「放っておいても子は育つ」を勘違いしている人は多いです
一番わかりやすい例が「食事」ではないでしょうか
おさな子の「食事」に気を遣った経験は、多かれ少なかれ、誰にでもあるのではないでしょうか
たとえば、まだ母乳(ミルク)しか飲んでいない授乳期の子どもに、お菓子やジュースを与える人はいません
子どもの手の届くところに、山盛りのお菓子やジュースを置いておけば、手に取りたい、口に入れたい、最初は興味本位でおもちゃのように触っていても、舐めたら甘い、美味しい、ですぐに夢中になることでしょう
もし好き放題に食べさせておいたら、肝心の食事をしっかり摂ることができなくなります
だから、普通はお菓子やジュースは隠しておいたり、手の届かないところに置いておいたりしませんでしたか?
できれば栄養のあるものをちゃんと食べさせたいな、と、完璧ではなくても、そんな風に思って子どもの食事の用意をしませんか?
大人が食べているからって、刺激の強い辛いものやしょっぱいもの、アルコール飲料を構わず飲食させる親もほとんどいないはずです
それは、「放っておいても子は育つ」とは違いますよね
放っておいてないです
食べるべき時に、食べるべきものをちゃんと食べさせよう、という親の意図
食べるべきじゃないものを、遠ざける親の意図です
それと同じように、
肝心な場面では、親が意図して子どもの環境を整えることは「放っておく」こととは違います
子どもが自分で選択できるようになるまでは、親がその方向性を示し、手本を見せ、教えること、それなくしては、子どもはどうしたらよいか、わからなくなります
それでも子どもが自分で獲得していく、という風に思う方もいるでしょう
でも、子どもは必ず誰かを手本にしているはずです
それが親だけである必要はないけれど、もし、手本にしたらまずいぞ…というモノを手本にしていたら、どうでしょうか
なんでもいいよ、なるようになるさ、テキトーでいいよ、っていう親の態度そのものを手本にしたり…
そうなると親は子どもが育つにつれ、「そんな風に育てた覚えはない」「子どもが言うことを聞いてくれない」という、よくあるパターンにはまっていきます

 運動機能も知能も正常な普通の子どもの場合はどうであろうか。彼らは自閉症児が直面しているような、目に見える困難性からは免れている。自閉症児対健常児を対比してみると、
「親になつきにくい」対「なつくことができる」(0~1歳)
「生活習慣や自律性を獲得しにくい」対「獲得することができる」(1~3歳)
「世界に広く興味をもつことや遊びを楽しむことが難しい」対「楽しむことができる」(3~6歳)
「集団参加や知的機能の開発を進めにくい」対「進めやすい」(6~12歳)
「異性や仲間との交流を生き生きと体験しにくい」対「体験できる」(12~20歳)
となる。つまり、旅路のどのステップでも立ち止まり悪戦苦闘せねばならぬ自閉症児に比べ、健常児は何とたやすくハードルを越える力をもっていることか。これは明らかに健常児の有利な点である。
 しかし皮肉なことに、子どもが能力をもっていて親が楽に育てることができるというプラスの利点の背後に、実は目に見えない陥が潜んでいる可能性がある。前述の不登校児A君の場合のように、親に悪意はなかったとしても、現実には各々の時期の発達課題を、その子らしくしっかり越えていくことをさせぬままに思春期に到ってしまい、いよいよ乗り越えられぬハードルを前にして呆然と立ちすくんでしまうようなケースが、今どんなに多いかしれない。なぜもっと早くに気づいて、適切な対応をしていなかったか、と涙ながらに後悔する親が多いが、これは健常児の子育てにも、障害児とはちがうマイナスの要因があるということを意味する。
 また、自閉症児はすでに述べたように、外の世界との接触が乏しく、自分の世界を守り容易に城を明け渡そうとしない。それは社会性を育てにくいという困難性を意味するが、同時に他者によって心を壊されることが少ないという利点でもある。
 これに対し健常児は、正常な記憶力や理解能力があるので、有害、無用、不自然、不健康なものでも、どんどんとり入れてしまい、その結果、心を壊してしまう危険性がある。
 このように考えてくると、自閉症児の子育てにも、健常児の子育てにも、各々ちがった意味での利点と危険性があり、各自プラスとマイナスのいずれにもさらされているということになる。
 したがって両者が各々自己を知りお互いにヒントを与え合い、学び合いながら、内面からの成熟という目標に向かって、同じ地平を旅していくこと、これが私の考える子育て論である。


子どもは真似っこが好きで、
親のすることを何でも真似ましたね
仲間ができるようになると、保育園などでも、誰かがぴょん、と石を飛び越えれば、次々と飛び越える子が出てくるし、誰かが布を頭にかぶれば、みんなしてかぶりだす
小さな、小さな、真似っこさんたちに甘んじて、親は、親の思うとおりに極端に導いてしまう例も少なくありません
最初の引用にあったように、T君はぼーっとしていたのではなく、光の筋の中の埃を見ていた(思わず見入った経験は私にもあります)
そんなことに気づけるJ子さんの子どもを見る目が素敵だな、と思うのと同時に、気づけない人も多いことを憂うのです
子どもの意志や、興味関心に関係なく、幼い頃から親が強引に牽引し続けた結果、自分で自分のことを考えられない思春期が訪れ、悩み、苦しむ子をたくさん見てきました
両手に抱えられるほど小さかった子どもたちも、どんどん成長して、いつか親より大きく、強くなっていきます
それでも、できる限り子を管理下に置こうとする親はいて、でも親は年をとり、おさな子を抱えていた頃とはテンションも体力も変わってきます
何でも真似て、かわいかった子は、いつの間にか大きくなって、自立しそうな雰囲気を漂わせますが、残念ながら、中身は親の管理化で、かなり貧相です
もう、完璧に従えることは難しいので、大きな声をあげたり、感情的に叱ったりして子どもを怖がらせることはできても、子どもが自分で考えて自分のために行動する原動力は親に奪われたままです
いつまでたっても、親を苛つかせることになります
なんでもできて、健康で、順調に成長してきたはずの「健常児」であっても、「かわいい時期」を過ぎてから、親に憎まれ口を叩くようになってから、「こんなはずじゃなかった」と親のほうが嘆くのは、お門違いというものです
嘆きたいのは子どもの方ですよね

ヴィゴツキー(1896~1934)は障害児の心理学と教育学の研究者です
この本には何度も引用されています

 ヴィゴツキーは器質的障害(1次的障害)とそれによって生ずる障害(2次的、3次的障害)を区別して考え、原則的には2次的及び3次的障害は予防することができ、除かれうるものとしている。つまり表面的には、さまざまな障害は複雑に錯綜し、明確にできない場合が多いが、それらを混同せずに問題の本質を正確に把握し、区別するよう提言している。
 J子さんは、ヴィゴツキーのこの理論を、実にわかりやすく次のようにノートしている。

〈障害児の示す兆候〉
1次的欠陥(障害)…脳の損傷
2次的欠陥(障害)…知恵おくれ、ことばのおくれ
3次的欠陥(障害)…身辺の自立ができない、遊べない、かんしゃく、あまえ、わがまま、偏食、虚弱、虫歯、肥満、便秘
2次的・3次的障害は適切な教育(とりくみ)によって変えることができる。では、できる限り、2次的・3次的障害はつけないように子育てをしよう

 J子さんのノートを参照しつつ、私流儀に解説をすると、もし脳の損傷があれば、これはすでにおこったものであり、いかんともしがたい。これを1次的障害という。そしてそれによって2次的に、知恵おくれやことばのおくれをひきおこしやすい。しかし、これは1次的障害ほど確定的なものではなく、教育的働きかけにより、よりよき発達につとめることができるものである。もちろん1次的障害による制約もあるであろうし、障害児が無限の発達を遂げるとは言えないかもしれないが、少なくとも発達の限界が未知数であるとは言えよう。つまりそこには教育の可能性が十分に横たわっているということである。
 さらに3次的障害という言うべき兆候は、社会化の問題(身辺の自立ができない、遊べない)、性格的な問題(かんしゃく、甘え、わがまま)、身体的な問題(偏食、虚弱、虫歯、肥満、便秘)等は、障害児にしばしば見られる状態像ではあるが、避け難くおこってくるものではない。どんなにそうなりやすくとも、必発兆候でない限り、これは教育的配慮により除かれる可能性をもつ。
生まれた時にすでにあるものは仕方がないとしても、障害を負っていない部分の脳(機能)をフルに生かし、伸ばしていく教育をしてやろうというJ子さんの思いは、「できる限り2次的・3次的障害をつけない子育てをしよう」という抱負の中に、明確に示されている。
 ヴィゴツキーのこの理論には、最初の一歩の重要性が強く打ち出されている。2次的・3次的障害は発達のごく早期から生じやすいものであるため、早期の、出発点からの教育はきわめて深い意義をもつ。しかし本文冒頭のヴィゴツキーの言葉の如く、我々はどんなに注意し努力をしても誤りを完全に避けることはできない。ただ、それでもなお、正しい方向に最初の一歩をすすめることの大切さを認識すべきだというヴィゴツキーの言葉は胸に響く。
 自閉症という障害をもつわが子が、2次的・3次的障害をできる限りつけないこと、歪みをつけないことを願って、J子さんはT君の生活習慣づくりや躾を第1歩から丁寧に、慎重におこなったのである。
 それに比べると、1次的障害をもたぬ健常児を育てている我々は、なんと無造作に、雑駁で乱暴に子どもを扱っていることかと思う。「子どもは自ら育つ力をもっているので、親は子育てを意識しない方がよい」という考え方もあり、それはそれで真理を包含してもいるが、現在まわりを見まわした時、障害をもたぬ健常な子どもの中にJ子さんのあげている3次的障害の項目が、しっかり身についてしまっているものが多いのに驚かされる。1次的障害も、2次的障害も免れているのだから、ハンディキャップのあるT君に比べると実に軽々とうまく育てられるはずなのに、と言いたくなる。これも結局第一歩のとりくみのまずさの結果であろう。したがって、ヴィゴツキーの理論は、障害児のためにあるのではなく、子ども全般の発達にかかわる普遍的な原理を含んでいると言える。

どの章も、すべて紹介したい文章ばかりですが、次回、「勉強について」「思春期について」の内容を引用して、この本の紹介を終える予定です
ぜひ、手にとってこの本を読み、子どもに関わる多くの人が、この本について語り合ってみてください
子育ての原点にかえれる1冊です