この本には、「ネットに奪われる子どもたち」の様子が克明に描かれています
あまりの恐ろしさに、一度は本を閉じたくらいです
でも、清川さんはこのような著書で、私たち子どもを取り巻く大人達に何度も、何度も警告し続けてくれているのです
私が生まれる前から、ずっと

私たちはインターネットによって「思想」まで操作されています
そんなSF映画みたいなこと、非現実的だし、被害妄想にも程があるよ、と笑いますか
たぶん、そんな風に「インターネットを否定」されるとなぜか腹が立つことももう、
思想が操作されている証拠だと私には思えます
ゲームも同じです
かつては、テレビも同じでした

子どもに、浴びるほどそれらを見せること、それらで遊ばせることを、私たちはずっと「危険です」と警告をしてきました
間違いなく思考力は破壊されるし、心も壊されてしまうよ、と
どんぐりでは有名な「環境設定」というものです
実際、テレビやゲーム、動画にのめり込むわが子を見て、多くは、「母親」が不安を抱きます
なんだかよくわからないけど、こんな子どもの様子はイヤだな…
どんぐりとは無縁の知人が、「子どもが画面の前でじっと集中している姿が好きじゃないから」という理由で、子どもにテレビを無制限に見せることはしていなかったし、ゲーム機も買ったことがない、と言っていましたが、同様の感覚が、なぜか「母親」には多くあるように見えます
ところが、
多くの家庭で、テレビ・ゲーム・動画サイト・インターネットに対して抵抗感がなく、母親がどんなに嫌がっても子どもに見せたり遊ばせたりすることに疑問も抱かない「父親」がいます
「祖父母」も同じです
「いまどき、ゲームも持っていないのではいじめに遭う」
「テレビやニュースを見せないと頭がよくならない」
「ゲームは楽しいし、頭の運動になる」
などと、どんな根拠があるのかわかりませんが、多くの家庭で似たようなことを言われ、困り果てた「母親」からの相談が私のもとには多く寄せられます

ちなみに、どんぐり式に興味を持ち、勉強し、子どもとどんぐりをやってみよう、と決意するのも大半は母親です

それはなぜなんだろう、私はずっと考えてきました
もちろん、「父親」にも上記の母親と似たような感覚を持った人はいます
たとえば私の夫は無類のテレビ好きですが、子どもが小さい頃は子どもの前では決してテレビをつけませんでした
結婚前に、ふたりで知人の家庭に呼ばれて食事をしたときに、その家の子どもがテレビの真正面を陣取って食事をぼろぼろこぼしながら見入っている姿を見て、その家を出た後で、「あれじゃあ、ろくな人間に育たない」とぽろっとこぼしたことがあります
だって、テレビに夢中で自分の手に持ったスプーンの上の食べ物を、自分の口に運ぶこともできないのです
親は「あれあれ」と苦笑しながら自分のスプーンでそれをフォローして食べさせてあげている状態でした
その頃、同時に、デパートのエスカレーターで、携帯型のゲーム機をしながら前に母親、後ろに祖母、と挟まれた子どもが、足もとも、周囲も見ることなくじっとゲーム画面に集中して、それをフォローする前後の状態、という奇妙な様子も目撃
また、おばあちゃんが必至に自転車をこいでいる後ろの幼児用シートにゲームをしながら乗っている幼児も目撃
いったいどうなってるんだ?と二人で話したのがもう15年以上前のことです
そんな夫ですから、食卓にテレビは必須、なんて言うことはなかったし、ゲームにもさほど興味はないようで、我が家にはそれらがないのです
なぜか私の弟(実弟・義弟ふくむ)たちも同様の感性を持っているようです
そしてもちろん、「お父さん」としてどんぐりに問い合わせて、座談会に参加したり、イベントを企画してくれたりする方ももちろん、います

話を戻しますが、なぜ、「違和感」を持つのは母親が多いのか、という点について、私の考えは、よくお名前を勝手に出しますが、尊敬する小児科医の山田真先生がおっしゃっていた、「お母さんの”なにか様子がおかしい”にかなう診断はない」という言葉です
いくら診察しても、検査しても、何も病気が見つからない、でも、お母さんが「何かおかしい」と感じてそう言ってくれたら、それを信じる、と山田先生は言うのです
母親というのは、乳幼児の心身の異変を、自分の体の一部のように気づくことがあります
山田先生のおっしゃるのはそういうことに近いのではないかと思います

「父親」「祖父母」に察知する能力がないわけではないのですが、「母親」だけが、動物的にわが子にまつわる危険を察知したり、生理的に異変に気づいたりすることは、生物として、性別上の役割として、私たちが備え持っている性質なのだと思うのです

そういう意味で、「子どもが画面に没頭している」ことを「気持ちが悪い」と判断する母親、「なんとかしなくては」と危機感をもつ母親の感性をあてにすると、やはり、子どもにとって多少なりとも有害である、ということの裏付けになっているとは考えられないでしょうか

かつては、それでも、母親のそんな生物的な感覚が研ぎ澄まされていました
それでも、最近はその大切な感覚までもが、とうとう、奪われつつあるのか、と疑わざるを得ない光景が目につき始めています

それは、かつて、哺乳類の私たちのわが子にまつわる危険が、天敵であったり災害であったりしたのと違って、その質が、より複雑で、高度で、困難なものにとってかわったからではないかと思うのです

アメリカでの調査で、スマートフォンの普及率と中高生の自殺率の上昇に関連性があると断定されたものがあるそうです
自殺念慮(自殺を考えたことがある)の割合を加えるとかなり大きな数値になるということです
また、スマホに夢中になって赤ん坊を危険にさらした親の事件も日本でも何回もありました
ギャンブルに夢中になって駐車場の車内で子どもを死なせてしまった事件も多々ありましたが、その類の事件より問題にされないのも気になります

人間は、インターネット、特に、手元でPCのような使い方ができるスマートフォンという名の端末を手にしたことで、何を失ったのでしょうか
一番先に失ったのは、優れた動物的感覚、と言ってもいいのかもしれません

目の前に飛んでくるボールをよけられないこと、
目の前にいる人間に笑顔すら向けられないこと、
いつのまにか、その小さな端末の中から発せられることが「全て」と思いこみ、批判されることや自分で考えることを嫌い、動物的感覚でものを言う人を敬遠する…そう、どんぐりのように、人間の育ちの原点に還るような手法は、恐怖でもあるし、好まないのではないでしょうか

我が家では家族4人で新聞をくまなく読んでいるので、食卓での話題がよく新聞記事の内容になります
新聞を読むように、と命じたことも薦めたこともありませんが、私たち夫婦がずっと新聞を読んでいるので、その光景は自然だったのでしょう
小学校低学年までは、それでも実は、新聞さえも子どもから遠ざけていました
報道写真や、週刊誌の広告の内容など、子どもに簡単に見せたくないなあ、と思う部分が多かったので、あえて、低学年までは遠ざけていたのです
6年生くらいからそれぞれ、読み始めていたと思います
私たち夫婦がスマートフォンを持ったのは1年前ですから、スマホでニュースを見る、という感覚はなかったのですが、最近の人は、新聞よりもスマートフォンのニュースを読む方が多くなっている、と清川さんは話していました
講演後の座談では、「近所に新聞をとっている家がうちしかないんです!」と言っている方もいました
もちろん、新聞が全ての真実をしっかり書いてくれているとは言えません
新聞社によっても報道方針が異なります
それはまた、読み比べをすれば気づくこともあるし、長年の社風やその背景を知ればわかることでもあります
そこまで難しいことを考えなくても、ひとまず新聞は、ひととおりのニュースがだいたい書かれていて、どこを読むかは読者の判断である、というランダムな状態が守られています

同じ記事でも、読み比べてみると、スマホのニュースはかなり短くて、簡単にまとめられています
忙しくても一瞬でたくさんのニュースを見ることができるように、タイトルも興味深くひきつけられるよう工夫されているようです
新聞記事も、見出しの文字の大きさやレイアウト、紙面のどの位置にあるかでそれぞれの記事の存在感は違いますが、毎日、表紙から最後まで通して読むと、同じ順序でテーマにそったニュースが出てきます
そんな中で、自分がいつも気にしている分野のニュースや、毎日見逃さないようにしているページは、家族でも異なっているようです
それでは、スマホのニュースはどうでしょうか
スマホのニュースは「ニュースランキング」形式で表示されることが多いようです
要するに、見ている人が多いニュースほど上に来る、という形です
でも、本当に見ている人が多いニュースなのかどうかは疑わしい、という事実を清川さんは教えてくれました
これは、私は父からもよく聞いていた話です

私たちは、自分の手元にある小さな端末で、自分の思想も、信条も、支配されている可能性があるということだけ、書いておきます

毎年、6年生と中学3年生で実施される全国学力調査の生活調査の項目から、「ゲーム・ネット・スマホ」の言葉が消失したそうです
これだけ問題視する人がいて、実際に問題も起きていて、特に、無料通信アプリでのいじめ問題など、毎日毎日、どこかしらの学校で持ち上がっているはずです
それなのに、いま、その項目の調査をやめるのはどういう意図があるのでしょう

清川さんはそれについても文部科学省に問い合わせたそうです

そして、調べると、不都合な真実が出てくるからではないか、とおっしゃっていました

「なんかおかしい」という母親の特別な感性も奪い、もちろん、もともと危機感を覚えるほどでなかった父親もゲーム世代が占めてきているこの時代です
家族旅行中も、夫(父親)がスマホゲームをやめてくれない、という相談も受けたことがあります
ニュースは情報操作されているかもしれないネットニュースのみを信じ、それを批判されたら感情的に反抗する、それってもう、「あれ。そういわれてみればどうなんだろう?」って思えないのってもう、脳がやられちゃってるんじゃないかな?と単純に思うのですが違うでしょうか
頼みの綱だった祖父母のみなさんも、自分たちの育った時代にはなかったものを孫の周りに敷き詰めて、喜ぶ顔だけを楽しみにしている
いいえ、私たちは豊かな自然と、厳しい昭和・平成の時代を生き抜いてもなお、活発に生き生きとしている祖父母のみなさんの知恵と勇気に期待しているのです
いま、孫の周りには豊かな自然などなくて、あるのは電子機器ばかり
このままでは、孫の視力も、脳も、「やられて」しまう、という危機感を持って、若い親たちに手助けをしてやれませんか
物ではなく、自分で考えて、工夫する、という、当たり前の生き方を、
教えてやっていただけませんか

とある報道番組が、
この、選挙前にとあることを特集報道しようとして打ち切りになりました
その司会者の上田晋也さんの言葉をご紹介します

あくまで私個人の考えになりますけれども。いま、世界がいい方向に向かっているとは残念ながら私には思えません。
よりよい世の中にするために、いままで以上に一人ひとりが問題意識を持ち、考え、そして行動に移す…これが「非常に重要な時代ではないかな」と思います。
そして、今後生まれてくる子どもたちに、「いい時代に生まれてきたね」といえる世の中をつくる使命があると思っています。
私はこの番組において、いつもごくごく当たり前のことをいってきたつもりです。しかしながら、一方では「その当たり前のことをいいづらい世になりつつあるのではないかな」と危惧する部分もあります。
もしそうであるとするならば、それは健全な世の中とはいえないのではないでしょうか?

最後に、また当たり前のことをいわせていただこうと思いますが、私は政治、そして世の中を変えるのは政治家だとは思っていません。
政治や世の中を変えるのは、我々一人ひとりの意識だと思っています。

上田さんの悔しさが伝わってきます

また、ある専門家は、今の学校教育が変わるには、一度崩壊しなければならない、というようなことを書いていました
崩壊してもその後、よくなっていくなら…と希望が持てる一方で、その、崩壊してる最中の状態の学校に、わたしたちの子どもたちが通い続けているというのも事実です

誰が子どもたちを救えるのか
私たち大人にも、もともと備わっていたいきものとして健全に、そして、人間として仲間と生き抜く力を、取り戻すことが必要です

これは闘いではなく、ただ、取り戻すだけのこと
全く反対の意見を持っている人同士がいることも、とても大切なことです
でも、一方的に攻撃だけを続けることや、逃げることは意味を持ちません
異なる意見があるから、一緒に打開策を見つけることができる
迷っているならなおさら、きちんとした議論をするべきなのです

まずは家庭の中で
そして、今日からでも、子どもたちの生物としての優れた力を取り戻そう
大人の方々の力も、取り戻してください

まずは「変だな」「違和感があるな」という感覚を、思い出してください
思い出せないとしたら…スマホを3日間ほど、封印して暮らしてみてください

そう、大人がまず人間に戻らなくては
健全な人間に