「先生、どういうこと?」
DK生が不思議そうに国語の教科書を開いて見せてきました
そこには、内田樹さんのエッセイ『学ぶ力』という文章が掲載されていました
「なにが?」
私は生徒に尋ねました
「先生とおなじこと書いてるんだけど」
「おなじこと?」
どういうことだろう、と思って読んでみることにしました
教科書は来年改訂になります
この教科書が使用されるのも今年度が最後
もしかしたらこの文章は、新教科書には掲載されないかもしれない、という予想もあり、ここに全文を引用いたします

「学ぶ力」内田樹
 日本の子どもたちの学力が低下していると言われることがあります。そんなことを言われるといい気分がしないでしょう。私が、中学生だとしても、新聞記事やテレビのニュースでそのようなことを聞かされたら、おもしろくありません。しかし、この機会に、少しだけ気を鎮めて、「学力が低下した」とはどういうことなのか、考えてみましょう。

 そもそも、低下したとされている「学力」とは、何をさしているのでしょうか。「学力って、試験の点数のことでしょう。」と答える人が、ほとんどだと思います。本当にそうでしょうか。「学力」とは「試験の点数」のことなのでしょうか。私はそうは思いません。試験の点数は数値です。数値ならば、他の人と比べたり、個人の経年変化をみたりするうえでは参考になります。でも、学力とはそのような数値だけで捉えるものではありません。「学力」という言葉をよく見てください。訓読みをしたら「学ぶ力」になります。私は学力を「学ぶことができる力」「学べる力」として捉えるべきだと考えています。数値として示して、他人と比較したり、順位をつけたりするものではない。私はそう思います。
 例えば、ここに「消化力」が強い人がいるとしましょう。ご飯をおなかいっぱいにつめ込んでも、食休みもしないで、すぐに次の活動に取りかかれる人はまちがいなく、「消化力が強い」といえます。「消化力が強いです。」と人にも自慢できます。しかし、それを点数化して他人と比べたりしようとはしないはずです。「睡眠力」や「自然治癒力」というのも、同様のものだと思います。どんなときでもベッドに潜り込んだら、数秒で熟睡状態に入れる人は「睡眠力が高い」といえるでしょう。この力は健康維持のためにもストレスを軽減するうえでも、きわだって有用ですが、睡眠力を他人と比較して自慢したり、順位をつけたりすることは普通しません。怪我をしてもすぐに傷口が塞がってしまう自然治癒力も生きるうえでは、おそらく学力以上に重要な力でしょうが、その力も他人と比較するものではありません。私は「学力」もそういう能力と同じものではないかと思うのです。
 「学ぶ力」は他人と比べるものではなく、個人的なものだと思います。「学ぶ」ということに対して、どれくらい集中し、夢中になれるか、その強度や深度を評するためにこそ「学力」という言葉を用いるべきではないでしょうか。そして、それは消化力や睡眠力と同じように、「昨日の自分と比べたとき」の変化が問題なのだと思います。昨日よりも消化がいいか、一週間前よりも寝つきがよいか、一年前よりも傷の治りが早いか、その時間的変化を点検した時にはじめて、自分の身に「何か」起きていることがわかります。もし、「力」が伸びているなら、それは今の生き方が正しいということですし、「力」が落ちていれば、それは今の生き方のどこかに問題があるということです。
 人間が生きていくために本当に必要な「力」についての情報は、他人と比較した時の優劣ではなく、「昨日の自分」と比べた時の「力」変化についての情報なのです。そのことをあまりに多くの人が忘れているようなので、ここに声を大にして言っておきたいと思います。自分の「力」の微細な変化まで感知されている限り、私たちは自分の生き方の適不適を判定し、修正を加えることができます。
 「学ぶ力」も、そのような時間的変化のうちにおいてのみ、意味をもつ指標だと私は思います。そのうえで「学ぶ力」とはどういう条件で「伸びる」ものなのか、具体的にみてみましょう。
 「学ぶ力が伸びる」ための第一の条件は、自分には「まだまだ学ばなければならないことがたくさんある」という「学び足りなさ」の自覚があること。「無知の自覚」といってもよい。これが第一です。
 「私はもう知るべきことはみな知っているので、これ以上学ぶことはない。」と思っている人には「学ぶ力」がありません。このような人が、本来の意味での「学力がない人」だと私は思います。物事に興味や関心を示さず、人の話に耳を傾けないような人は、どんなに社会的な地位が高くても、有名な人であっても「学力のない人」です。
 第二の条件は、教えてくれる「師(先生)」を自ら見つけようとすること。
 学ぶべきことがあるのはわかっているのだけれど、誰に教わったらいいのかわからない、という人は残念ながら「学力がない」人です。いくら意欲があっても、これができないと学びは始まりません。
 ここでいう「師」とは、別に学校の先生である必要はありません。書物を読んで、「あ、この人を師匠と呼ぼう。」と思って、会ったことのない人を「師」に見立てることも可能です(だから、会っても言葉が通じない外国の人だって、亡くなった人だって、「師」にしていいのです)。街行く人の中に、ふとそのたたずまいに「何か光るもの」があると思われた人を、瞬間的に「師」に見立てて、その人から学ぶということでも、もちろんかまいません。生きて暮らしていれば、いたるところに師あり、ということになります。ただし、そのためには日頃からいつもアンテナの感度を上げて、「師を求めるセンサー」を機能させていることが必要です。
 第三の条件、それは「教えてくれる人を『その気』にさせること」です。
 こちらには学ぶ気がある、師には「教えるべき何か」があるとします。条件が二つ揃いました。しかし、それだけでは学びは起動しません。もう一つ、師が「教える気」になる必要があります。 
 昔から、師弟関係を描いた物語には、必ず「入門」をめぐるエピソードがあります。何か(武芸の奥義など)を学びたいと思っていた者が、達人に弟子入りしようとするのですが、「だめだ。」とすげなく断られる。それでも諦めずについていって、さまざまな試練の末に、「しかたがない。弟子にしてやろう。」ということになる。そのような話は数多くあります。
 では、どのようにしたら人は「大切なことを教えてもいい」という気になるのでしょう。
 例えば、「先生、これだけ払うから、その分教えてください。」といって札束を積み上げるような者は、普通弟子にしてもらえません。師を利益誘導したり、おだてたりしてもだめです。だいたい、金銭で態度が変わったり、ちやほやされると舞い上がったりするような人間は「師」として尊敬する気にこちらのほうがなれません。
 師を教える気にさせるのは、「お願いします。」という弟子のまっすぐな気持ち、師を見上げる真剣なまなざしだけです。これはあらゆる「弟子入り物語」に共通するパターンです。このとき、弟子の側の才能や経験などは、問題になりません。なまじ経験があって、「私はこのようなことを、こういう方法で習いたい。」というような注文を師に向かってつけるようなことをしたら、これもやはり弟子にはしてもらえません。それよりは、真っ白な状態がいい。まだ何も書いていないところに、白い紙に黒々と墨の跡を残すように、どんなこともどんどん吸収するような、学ぶ側の「無垢さ」、師の教えることは何でも受け入れますという「開放性」、それが「師をその気にさせる」ための力であり、弟子の構えです。たとえ、書物の中の実際に会うことができない師に対しても、この関係は同様です。同じ本を読んでいても、教えてもらえる人と、もらえない人がいるのです。
 「学ぶ(ことができる)力が伸びる」ために必要なのは、この三つです。繰り返します。
 第一に、「自分は学ばなければならない」という己の無知についての痛切な自覚があること。
 第二に、「あ、この人が私の師だ。」と直感できること。
 第三に、その「師」を教える気にさせる広々とした開放性。
 この三つの条件を一言で言い表すと、「私は学びたいのです。先生、どうか教えてください。」というセンテンスになります。数値で表せる成績や点数などの問題ではなく、たったこれだけの言葉。これが私の考える「学力」です。このセンテンスを素直に、はっきりと口に出せる人は、もうその段階で「学力のある人」です。
 逆に、どれほど知識があろうと、技術があろうと、これを口にできない人は「学力がない人」です。それは、英語ができないとか、数式を知らないとか、そういうことではありません。「学びたいのです。先生、教えてください。」という簡単な言葉を口にしようとしない。その言葉を口にすると、とても「損をした」ような気分になるので、できることなら、一生そんな台詞は言わずに済ませたい。誰かにものを頼むなんて、「借り」ができるみたいで嫌だ。そのように思う自分を「プライドが高い」とか「気骨がある」と思っている。それが「学力低下」という事態の本質だろうと私は思っています。
 自分の「学ぶ力」をどう伸ばすか、その答えはもうお示ししました。皆さんの健闘を祈ります。

内田樹(うちだ たつる)思想家  
出典「教育出版 中学2年生国語教科書『伝え合う言葉』のための書き下ろし

「どこが同じ??」と尋ねると
「他人と比べるんじゃなく、昨日の自分と比べるとか、一年後の自分と比べるとか…そういうところ」
「ああ、そうねえ…」

実はこの「理論」は、わたし自身が中学生の頃に自分に言い聞かせていた言葉でした
子どもの頃から「哲学」していた私は、自宅から2km弱の中学校への往復の徒歩道で、ひとりで、時には近所に住む幼なじみと2人で、「こういうときにはこう言おう」とかなんとか、自分たちの揺れる心を整えるための色々な言葉を考えては声に出していました(1人の時もです(笑))

部活のこととなると、「自信がある」とか「自信がない」とか
受験期になると、「がんばってね」とか「大丈夫だよ」とか
そういう言葉について、考えていました
その頃、私が出した結論は
「自信というのは、誰かと比べて優れているとか劣っているとかそういう基準で持つものではなく、自分の中で自分と比較した時に持っていいものなんじゃないかな」ということで、その日から、幼なじみとの間では「私、自信がある」と堂々と言っていいことにしました
…もちろん、いちいち説明できませんから、方々で「自信がある」って言いふらす勇気はなかったのです(なんだか、単なる自信過剰と思われるのが怖くて)
でも、「自信がある!」と声に出すことで、考えてみたらちょっと自信がないときほど、なんとなく元気になっていく「心」を感じました
そして、「大丈夫だよ」に関しても、先に第一志望の入試の日を迎えた幼なじみに言ったのです
「全力を尽くせば、あとは神様が決めてくれる、一番いい進路を!」
…これは、ご存じの方もいるかもしれませんが、私が今の仕事を始めた27年前から毎年、受験生にかけている言葉です
実は14歳の私が思いついたことでした
「がんばって」も当時からよく議論していました
おさななじみとの間では、「こういう時に使うとこうで、こうじゃないこともあるよね…」などと、「哲学」しながら学校へ向かって歩く毎日でした
今思えば、そうしないと、大人達の言葉や、ふるまい、世間からの目や印象に、つぶされそうだったローティーンの私たちの考えた回避策だったのでしょう

生徒達にも「成績で数値は出る。100人でテストを受けて、順位をつけたら100番がいる。でも、その数値で計れるのは君たちの学力ではない。」とずっと言い続けてきました

君たちは何がしたいの?どんな自分になりたいの?そのために今、不足している力はなんなの?足りてる力はなんなの?探ろう、探そう、迷って戻ってきてもいいから、今は、試そう、やってみよう、勇気を出して…

ずっと、ずっと、問いかけてきました

その生徒は、ミミタコな私のそれらの言葉と、内田さんの文章とに共通点を見いだしたのだと思います

このエッセイの後半部分は…解釈のしようによっては、単純に私が言っていることと同じかっていうとそうでもないかもしれませんが、前半部分については、「そうそう!そのとおり!」って声をあげながら読んでしまいました

師に教えを請うために熱意を見せよ、と単純に解釈すると、先生ってそんなにエライもの?と反発する中学生もいることでしょう
でも、内田さんが書いていらっしゃるように、師とは、「先生」と呼ばれる身近で生身の人間だけとは限らないのです
自然現象を見たり、本を読んだり映画を観たり、友達の話を聞いたりしていても突然「師」は目の前に現れるのです
そのことを、「師」と思えるかどうか、それに対して、「師」から何かを学びとる気持ちがわき起こっているかどうか、ということが、書かれていると私は解釈しました

実際、私にとっての「師」も、糸山先生のように、生身の直接会える「人間」の先生もいらっしゃるけれど、直接お会いするまでの数年間は糸山先生の著書とホームページが「師」でしたし、その他、
自然現象、自然の中の生物、そして、映画、本、それから、夫、子どもたち、友人達、生徒達…毎日、いろいろな「師」が今でも私に教えてくれています

確かに、学びとろうとしなければ、「師」は見つからないのだと思います

その前に、
中学生達にとって、せっかくの生身の直接会える存在である「先生」は、信頼でき、尊敬に値する「師」となっているのでしょうか

その子はこの文章を「学校の先生達全員に読んでほしい」とつぶやきました

手元には「高校入試対策」と銘打った分厚い問題集がありました
全員、一律で、小学校の基礎から全てやり直す、という内容の問題集をこの間までやっていたと思ったら、今度はまた一律で、「入試対策」と、また、基礎から何度も繰り返す分厚い問題集の課題が毎日、全教科、出されているのです

…3年生ではありません
確実に、数年前よりも、数十年前よりも、中学校で生徒に課される課題は増えており、膨大なそれらをどうこなすかが、中学生生活の困難の一部を占めています

全員いちりつに…
いま、まだそれをするかね?と、その子に必要なことは他にあるのに…と思っている私は思います
でも、生徒達に先生からの課題を拒否する権利も、自分で選択する権利も与えられてはいません

課題を与えられ、それをこなすことにかなりの労力を要する生徒の場合、「自ら学びたいと思う力」を持つ余裕は残るでしょうか
理解している子も、していない子も、「いちりつに」通り過ぎる授業計画の中で、どの子にとっても「学ぶ力」がわき起こるような工夫は、学校ではどれだけされているのでしょうか

学校だけの責任ではありません
むしろ、学校に入る前の6年もの歳月が、学校に入ってからの「学ぶ力」に影響していると私は考えています

我が子が学校に入るまでの6年間で、我が子に、「学校で学ぶ」ための力を、十分に備えてやることはできましたか?
もしかしたら、「学校で学ぶ」ことがいかにも退屈になってしまうような、そんな6年間を過ごしてしまってはいなかったですか?
たとえば
先取り…評価…管理…反復…パターン…スピード…間違いを許さない…などなど…
子どもが自由に考え、勝手に考え、時には失敗し、時にはやり直す姿を、大らかに認めて育てることはできましたか?
決まり事ばかりの遊びや、習い事、体を動かさずに楽しめる遊びで満たしすぎてはいませんでしたか?
うん、小学校時代まではそう心がけてきたぞ、という12年間をぎゅっと頑張ってきたご家庭でも、中学生になった途端雲行きが変わってしまってはいませんか
成績表を見て親御さんががっかりする姿を見せてしまってはいませんか
「成績」がふるわないのになかなか「勉強」しない我が子にしびれを切らし、叱ってしまったり、勉強させるための塾などを親が積極的に探し出して放り込んだりしていませんか
どれもこれも、子どもにとっては「成績がよくないとダメなんだ」と親から伝えられていることになるのです
テストの順位や入試の結果によって、親が自分を評価している、判断している、ということを、教えてしまっていることになるのです

時々学校から配布される通信などを読んでも、「学力テストがあるのでご家庭でも準備をしてください」などのメッセージが込められていることがあり、苦笑したことがあります
小学校の単元テストの前に勉強させることを推奨した担任の先生もいました
学級懇談会で「このクラスは平均点が低く、学力が低いです」と断言した担任の先生もいました
「家庭での努力が足りない。」と

素直で真面目な親御さんほど、学校からの「お願い」や「メッセージ」を真剣に受けとめることでしょう
だから、家でテスト対策をしたり、準備をさせたり、また、少しでもよい点数をとるためにはどうしたらよいか、真剣に考えてしまうことでしょう
子どもが自ら準備したがったならともかく、親や先生や塾に強制されている子が大多数でしょう
そんな小学生からの積み重ねで、中学生になる頃には、「自ら学びとる!」「学びに対して好奇心旺盛!」なんて子の方が珍しくなってしまっているのです
公教育+家庭で、そのような子どもを増やしておきながら、それにつける薬として課題を山ほど出していく…それしか、対策のしようがなくなっているのでしょう
訴訟対策の商品の注意書きのように、「学校はこんなに丁寧に箇条書きで詳細な勉強の進め方について決めて書いて手渡して管理しております!」と

結局、いつものことで、最後には「学校が悪い」「家庭が悪い」論争になって、子どもたちは置いてけぼりを喰らうことになるので、もう、その議論はいい加減にやめて、子どもたち自身が学ぶ力を備えた大人になって、人生を楽しむことができるようになるには身近にいる大人はどうしたらいいのか、身分などそっちのけで、一緒に考えてみることはできないでしょうか

こんなところで、ちっぽけな片田舎の教室のあるじがいくら大きな声で呼びかけても、
だーれも振り向きもしないので、私はただ、今日も、明日も、目の前の生徒達と親御さんに、真剣に伝え続けます

最後に、引用した中学生向けの「学ぶ力」というエッセイを、
大人自身についてのメッセージだと思いながらもう一度読んでみてください

子どもが「学ぶ力」を持っていないとしたら、それは、
身近にいる大人にも「学ぶ力」がないから、という可能性が十分に考えられるし、
もしかしたら
一番の要因だったりするのかもね…って
いやでも、最も身近な、私たち「手本」として日々過ごしているのでね…