群馬県公立高校校規選抜試験の発表があり、
DK3年生も全員が卒業の日を迎えました

私にとっては塾講師としての28回目の高校受験が終わりました
私立高校の方が試験日程が早いので、私立高校が第1志望校だった生徒は早めに卒業していきました
公立高校が第1志望校の生徒は、昨日まで、自分がどの高校に進学するのか、決まっていませんでした
ようやく、全員が、4月から通う高校を確定し、今日から色々、準備を始めていることと思います

ある生徒は、合格発表のあと、直接会いに来てくれました
結果から言うと、公立高校は不合格で、第2志望校の私立高校に進学を決めた生徒です

世間では、この状態を、「入試に落ちて、滑り止めの学校に行く」とか、「受験に失敗した」とか言うのでしょうけれど、私は毎年、生徒にそんな言葉を使いませんし、思ったこともありません

なぜ、この日のこの試験に不合格だったことで、その子のこれまでの受験生生活、小中学校での生活を全て、「失敗」や「成功」と決めつけられてしまうのか、みなさんのほとんどの方よりも多くの受験を子どもたちの側らで経験してきた私は、疑問に思います
私は「合格」「不合格」でその子の状態を「成功」「失敗」だなんて思ったことは一度もありません
全力で取り組んだならあとはカミサマが決めること
導かれる方へ行けば一番幸せになれると信じること
私は毎年、そう話しています

そして、会いに来てくれた生徒の顔を見て、やっぱり思い出してしまうのが、20年以上前の、ある生徒との思い出です
これは、以前のブログにもたぶん書いたし、ことあるごとに書いてしまうので、もう知ってるし、もういいよ、という方はこの記事をここで閉じてください
そして、当事者諸君は、またかよ!またおれたちのことかよ!って思うかもしれないけど、私が、君たちとのあの日をどれだけ支えにしているか、今でも思い出すと涙が止まらないことを、笑って、そして読み飛ばして、そして許してください

A君は中学2年生になるときに私が新設教室の教室長として赴任した進学塾に入塾しました
厳しい進学塾で、年越し授業や合宿もありました
全教科、宿題もどっさり出て、夜遅くまで授業をするような塾でした
いろいろ、端折りますが、とにかく、控えめで、おとなしく、体の線も細く…
それなのに、厳しくて有名で、当時地域周辺に10教室くらい展開していたその進学塾のその校区初参入の新設教室に、説明会から熱心に参加してくださったらしいお母様のしっかりとした意思表示と比較すると、自分の意見は言わず、いつもお母さんの陰に隠れているような第一印象を受けた生徒でした

本当に端折りますが、
1年後、入塾当初通知表はほとんどアヒルさんだった彼は、学内順位上位に食い込んでいました
学校の先生にはカンニングを(たぶん冗談で)疑われるほど激変し、最も苦手だった英語で満点を取ってくるほどになりました

卵か鶏か、の話になりそうですが、彼のその1年間の豹変ぶりは私たちスタッフにとっては不思議なことでもありませんでした
塾の授業とか、授業時間とか宿題とか、そんなことは関係ありません
それだけで全員がそうなるなら、いくらだって授業時間を長くしたり、宿題を出したりしますが、そんなエビデンスは存在しません

彼は、とにかく素直でした
私は社員講師で、教室長ではありましたが、最も力のない講師だという自覚はありました
スタッフの中で最年少でしたし、社員講師以外の時間講師(いわゆるアルバイトの先生)の方が百戦錬磨でとても優れた方々でしたから、生徒たちが帰宅すると毎回深夜までひとりひとりについてミーティングをし、スタッフ間で生徒へのアドバイスに一貫性を持たせる指揮を執るくらいしか、私にはできませんでしたが、私にとっては命のように大切な教室でしたので、全てを捧げていました
そんな私たちスタッフ全員に対し、彼はとにかく、素直でした
(まあ、彼以外のみんなも素直で、保護者の方も素敵な方ばかり、素晴らしい生徒ばかりでしたが、特に純粋で、素直な子でした)
当初、あまりの宿題の量に親御さんが抗議をしてきたこともありました
部活も頑張っているし、学校の宿題も多い、それなのに、さらに塾の宿題がこんなにあるなんて、と
私の担当科目では宿題を極力出さないようにしていましたが、彼にとって課題であり、最も足を引っ張っていた英語に関しては、本当に尋常でない量の宿題が出されていましたので、英語担当の講師と何度も議論を重ねました
ベテランの英語講師は言いました「だって、成績を上げたいんでしょう?今の状態から脱したいんでしょう?それなら仕方ないですよ、あれくらい」と飄々と
私は親御さんの抗議の電話を受けたり、送迎時に車の横で抗議されたり、まあ、それはそれはいろいろな思いをしました
それで、彼自身に確認すると、彼は言うのです
「先生の出してくれた課題をやりきりたい」と
英語担当の講師と彼も直接話していたので、そう、彼は最初から納得の上で歯を食いしばって頑張っていたのです
あまりにも頑張っている姿が可愛そうになった親御さんが、抗議してきたわけだったのですが、何度話しても、A君本人が、苦しいけど頑張りたい、という気力を持っていたのです
私は、そのことを根気よく親御さんに伝え続けました
私たちが無理強いしているわけではない、彼自身が自分を変えたくて努力しているのだ、と

そんなこんなで、1年間の彼の急成長を支えた要素は様々ありましたが、彼は受験生になりました
当時、その地域で中学の上位の子が目指す高校を、彼は志望校に据えました
まあ、ここまでくればそこを目指すのは妥当でしょう、とスタッフ感でも納得していました
でも、彼の成績は3年生になってもぐんぐん伸びました
その頃、彼は誰よりも早く塾に来て、誰よりも遅くまで塾にいる生徒でした
まだ小学生がいる時間帯だと、空いている教室に移動しては、自習をし、
空いている講師を見つけては、質問を重ねました
特に、数学と社会を担当していたベテランの時間講師の先生とは、私から見ても心のつながりというか、強い絆と信頼関係で結ばれているように感じましたし、私もその先生を信頼、尊敬していました
その頃、親御さんも彼より前面に出て抗議してくるようなことはなくなりました
どんなに遅くまで彼が塾に残っていても、嫌な顔ひとつ見せずに送迎をしてくださっていました
当時、条例がありませんでしたので、彼は夜中の12時近くまで塾で勉強していました
私も、その後、ミーティングをして、本部に報告したりひとりで残務整理したりして、帰宅するのは午前3時過ぎでした

ついに、彼の志望校は、県のトップ校に変わりました
彼の成長ぶりと努力の分量からして、想定外というほどではありませんでしたが、やはり、難関校を受験するというのには相当の覚悟が要ります
何度も何度も、話し合いをしながら受験期を迎えました
第2志望校の私立高校に合格してからも、彼の努力する姿に変わりはありませんでした
あんなに控えめで消極的で、誰とも話せなかったような子だったのに、中3クラスはすっかり打ち解けて、チームのようになっていました
最初から積極的で賑やかで利発な3人組男子が彼とは別の中学校から来ていました
彼らとは共通項がなく感じ、いつまでも交わることはないのかな、と思っていたのですが、最後には、彼を中心に3人組が囲うように教室で座って授業を受けているくらい、仲良くなっていました

そして、公立高校入試、発表の日、
彼は、不合格でした

私は当時、まだ講師歴4年目のひよっこで、年齢も今の半分くらいでしたから、正直、彼の不合格の知らせを聞いて、膝から崩れ落ちるほどショックを受けました
進学塾は、入試当日はハチマキを巻いて応援に行き、合格発表当日も社員で分担して高校へ発表掲示を見に行って全塾生の合否を確認します(今ではネットで発表されるのでそんなことをする必要はなくなりましたね)
自分の担当している高校から本部に戻り、A君の受験した県内トップ校の発表を見に行った担当の先生からの報告を聞き、愕然としたのでした
思えば、もちろん厳しい試験でした
模試で合格圏に入っていたものの、当時、彼の住む地域からその高校へ入るには、狭き門をくぐらねばならなかったので、他の地域とは違う厳しさがあったのです
…でも、落ち込んでいる場合ではありませんでした
彼以外にも私の教室には20人以上の中3生がいましたし、合格発表当日の夜には、塾の本部の大ホールで「卒業祝賀会」が企画されていたのです
その準備をしなくては…ショックを受けている場合ではなかったのです

他の教室でも悲喜こもごもありましたが、私の教室も、その日で全ての生徒の進路が確定しました
例年、夜の祝賀会に来るのはその日の発表で合格した生徒がほとんどでした
全中3生と、その親御さんが参加できる立食パーティなのに、その日、公立が不合格だと来る気持ちになれないとか、なんとなくばつが悪い…という理由からか、当日不合格だった子は欠席することがほとんどでした
私も、A君には今日は会えないのか…教室に顔を見せてくれるかな…家庭訪問しようかな…なんて色々考えながら、祝賀会の準備をし、本部の入り口で生徒さんたちを出迎えるためにボーッと立っていました

すると、
A君と、彼の母親が、やってきたのです
満面の笑みを湛えて

2人の姿を見て、私は泣き崩れました
A君親子は笑って「先生、ありがとう」と言ってくれました
とてもすっきりとした笑顔でした
お母さんも「本当に今日までお世話になりました」と笑顔で言ってくださいました
”不合格なのに、来た”
事情を知っている社員講師の先輩方も、教室の生徒たちも、一瞬驚きました
でも、A君は、先に来ていた教室のメンバーたちに囲まれ、もみくちゃにされながら、パーティ会場へと上がっていきました

パーティでは先生方の挨拶や出し物、そして、各教室に、好きなことをしてよい時間が割り当てられました
私は例の3人組に全権委任し、少し離れたところで見ていることにしました
彼らのうち数人が黒板の前に立ち、他の生徒を全員自分たちの前に座らせ、授業の形式で、塾の先生たちの物真似を始めました

学校の先生の物真似で盛り上がることがあるのと同じで、大きな塾だと講師が特別講座で別の教室に行くこともあるので、特徴のある先生の物真似をすると他の教室の生徒たちからも笑いがこぼれました

B君「はい、じゃあ~これ、わかるひと!よし、じゃあ~C君!」(←先生の真似で)
C君「それは、●●だと思います」(←生徒役)
B君「んー?違うぞ!どうした?それじゃあ、A!」
A君「えっ!?えーと、▲▲です」
B君「そうだ!そうだよ!すごいな、A!」
他「お~~」
B君「よし、次の問題、それじゃあ、D!答えて」
D君「■■です」
B君「どうした、全然違うじゃないか。それじゃあ、A!わかるか?」
A君「えっ…なんでオレばっか…うーん、じゃあ、□□です」
B君「おお!!さすがだな、A!すごいじゃないか!!」
他「おお~~」

打ち合わせも、練習もなく、即興のコントのようなお芝居のような…
なんてことないふざけたやりとりで、
問題も適当に書いているだけだから、答えも「チョークです」とか「黒板消しです」とか、適当に返しているだけでした
でも、B君たちは、何を答えてもA君だけが正解し、やっぱりAはすごいんだ、という結論に至るコントをテンポ良く展開しました
短い時間でしたが、私は号泣してコンタクトレンズが取れてしまうほどで
もちろん、なぜ私がそんなに泣いているのか、理由がわかる人はほとんどいませんでしたけれど
洗面所の鏡の前にダッシュすると女子生徒が数名ついてきて「先生、大丈夫?」ってずっとそばにいてくれました
私は泣き笑いしてコンタクトと悪戦苦闘していました

それから数年後
A君は、第2志望校として合格していた私立高校で3年間トップクラスの成績を維持し、
某大学の教育学部に進学しました
私が最後に会ったのは、A君が19歳の時でしたが、その後、A君が数学の教師になったと聞きました
ちなみに、例のコントで先生役を即興で演じたB君も、教員になりました

他のみんなも、それぞれ、自分の生きる道を見つけ、家庭を築いたり、様々な業界でプロとして技を磨いていたり、と、自分の人生を歩んでいると聞いています

あれから、私は20回以上の生徒の高校受験に寄り添ってきました
A君が高校時代もよく連絡をくれたので、「第1志望不合格は不幸の始まりではない」ということは心から理解できていました
むしろ、不合格だったからこその出会いや、バネにできる力を得たと思えます
第1志望にせっかく合格したのに、理想と違った、と言って退学する子だっています
合格したら人生の勝利、全てにおいて成功した、なんて言えないことは、誰でも知っているはずです

合格か、不合格か
自分の受験の経験(だけ)と、
久々に我が子を通して受験を経験する親御さんにとっては、それはとても重要なことかもしれません
巷の塾も、いかに、合格実績を上げるか、そして、それを公表して集客の材料にするのか、必死です

でも私は、誰よりも真剣に、全力で、毎年受験生と、この時期を迎えてきた自負があり、そして、確信しているのです

合格か、不合格かは答えではない、ということを

人生はそこから始まる
どっちから始まったら有利か、なんて、誰にもわからない
少なくとも、周囲が決めつけることではない
たとえば、この学歴がいい、と親が決めることはできない
先生が決めることもできない
受験だから、って全力で頑張れる子ばかりじゃない
頑張れない悩みを持つ子たちとも過ごしてきました
尻を叩かないのは甘すぎる、
そんなんじゃひっぱりあげられない、と言われればそれまで
でも、
私は信じたい
じっと止まって悩んでいる時にも、彼らの目や耳は、心は、何かを感じてる
自分の人生を生きていこうとしている
それを待ってあげられるかどうか
待っていてあげたい
たとえ、世間が思うような好スタートを切れなくても、
その子にとって好スタートを切る時期が必ず来るから、
それまで、待っていてあげたい

この時期が来ると思い出す
いつものエピソード
涙がなくなるかと思うほど、生徒たちの愛に心を揺さぶられたその日
彼らと一緒に、私も進学塾を卒業したのでした

待ってあげてください
寄り添ってあげてください
世間がどう思おうと、親だけはずっと味方でいられます

羽ばたく瞬間は、高校受験だと決まっているわけではありません
大学受験でも就職試験でもないかもしれません
その子には、その子の、羽ばたくタイミングがあるはずなんです