昨年11月に発刊された新潮新書『スマホ脳』
スウェーデンの精神科医アンデス・ハンセンさんの著書です
ほとんどの人にとって、生活に欠かせないアイテムになっているスマホ
最初は便利で、役に立つ素晴らしい文明の利器!とみんな一生懸命使いこなそうとしていたのかもしれませんが、最近は、明らかに、スマホによって脳内が毒されているというか、支配されているというか、「便利に使いこなす」以上に脳が侵食されているような印象を受けることが多々あります
たとえば、なんでもかんでも、手元のその小さな端末で完結してしまうことによる、コミュニケーション不足
コミュニケーション障害と言っても過言ではないくらい、面と向かって人と話すことに抵抗が生じてしまっている人が増えています
それから、なんでもかんでも、手元のその小さな端末で完結してしまうことにより、情報収集も情報処理もよりパーソナルになり、結果、生活面でもかなり自分勝手になっていることに気づいていない人が多くなっています
人間は、他者と関わりながら生きている、というごく当たり前のことが、忘れられてきているように思うしかない場面が多すぎます
たとえば車を運転していても、電車に乗っていても、ほとんどの人が「我が物顔」
自分はひとりで生きている、とでも思っているのか、スマホさえあれば迷うことも困ることもないからなのか、他者の存在は邪魔でしかないような
そんな思考が浸透してきているように見えます
いくら便利でも、いくらパーソナルに自由に使えて気楽でも、他者を尊重できず、まるで自分だけの力と能力で生活できているかのように勘違いするような使い方をしているのなら、それはちっとも素晴らしい機械ではありません
このままみんながスマホを手放す世界には戻るわけはないので、私たちの世界は、どうなってしまうのだろう…と思っていた矢先にこの本が出版されました
予約購入して、昨年末から何度も読み返しました
前述したような、大人の脳への影響が主な内容で、巻末には「デジタル時代のアドバイス」と、スマホとうまくつきあうための具体的な方法も書いてあるので、ぜひ、一度みなさんも読んで確認してみてほしいです
※どんぐり文庫に今週はいります
ちなみに、そのアドバイスのうち、「画面をモノクロに」というのを読後すぐ実践し、現在も継続しています
簡単に設定できるので、試してみるとすぐに体感できますが、モノクロにすると途端に「見続ける気が失せる」ので、面白いですよ
この本によると、モノクロ画面はカラー画面に比べてドーパミンの放出量が少ないので、「もっと見たい」という欲求がなくなるのだそうです
ぜひ、一度実験してみてください
私はどんぐり学舎&DKRとしてSNSを使っていますが、何気なくいろいろな方の投稿を楽しみに見る、というような時間がないので、仕事上必要な情報を収集したり、尊敬する人たちの投稿を欠かさず読んだりする以外は、長時間見ることはもともとないのですが
さて、この本の第7章のタイトルは問題です
「バカになっていく子どもたち」ですって!なんと過激な!
この言葉はともかく、でもやっぱり、書いてあることには一理あります
精神科医の方が書いているのですから、実験や研究の結果など、科学的根拠も明記されています
どんぐり実践者のみなさんにおいては、小さな子どもにスマホを自由に使える状態で持たせている方はいないと思いますが、それがどんぐりルールだから、という理由で闇雲に「禁止」するのではなく、こうした裏付けがあるということが大事なので、ぜひ、読んで、納得していただきたいのです
一部抜粋してご紹介します
子どものスマホ依存
脳にはいくつもの領域とシステムがあり、同時進行で働くこともあるが、衝突してしまうこともある。立食パーティーでポテトチップスのボウルの前に立つと、脳内のあるシステムが「ボウルの中身を全部食べてしまえ」と呼びかける。同時に、別のシステムがブレーキをかける。もうすぐ水着の季節だということを思い出させ、「全部食べたら恥をかくぞ」とも囁く。これらのシステムは同じ速度で発達するわけではない。額の奥にある前頭葉は衝動に歯止めをかけ、報酬を先延ばしすることができるが、成熟するのが一番遅いこともわかっている。5~8歳になるまで完全には発達しないのだ。つまり、ポテトチップスを全部食べちゃダメだと言ってくれる脳の部分は、10代の頃はまだ割と無口なのである。一方、ポテトチップスを全部食べてしまえと背中を押す部分は、この年代ではちっとも静かにしてはいない。 前章で読んだように、スマホには人間の報酬系を活性化させて注目を引くという、とてつもない力がある。衝動にブレーキをかける脳内の領域は、ポテトチップスを我慢させるだけではない。スマホを手に取りたいという欲求も我慢させてくれる。この領域が子供や若者のうちは未発達であることが、デジタルなテクノロジーをさらに魅惑的なものにしてしまう。結果は見ての通りだ。レストランでスマホばかり眺めている子供。学校でも。バスでも。ソファでも。親にスマホを取り上げられて泣き叫ぶ子供。議論と言い争いが永遠に続くのだ。
アルコールは禁止するのに
前章では、ドーパミンが私たちを様々な行動に駆り立てる仕組みを見てきた。ドーパミンの量というのは、実際には脳内のドーパミンシステムの活動を指す。つまり、どれくらいのドーパミンが放出されたか、脳内細胞の表面に受容体がいくつあるか、その両方だ。
ドーパミンシステムの活動は生きている間に減少していき、10年で約1割減ると言われている。かといって、年を取るほど不幸になるという意味ではない。むしろ逆だろう。ただ、若い時ほどの興奮を感じることはなく、そこまでのリスクを冒すこともなくなる。
ドーパミンがいちばん活発なのはティーンエイジャーの頃で、その量は報酬という形で激しく増えるし、失望するとやはり激しく減る。つまり興奮もその反動も大きく、その時期は生きている実感や多幸感に酔いしれることもある。同時に、途方もない悲嘆に暮れることもある。例えば彼女や彼氏にフラれたりすると。
衝動を制御する能力が完全には成熟していない上に、激しい興奮を感じる時期と重なり、若者は危険を冒すことができる。保険会社が18歳のバイク乗りの保険加入を拒んだり、パラシュートクラブが5歳の生徒を募集したりしないのも、特におかしな話ではない。もうひとつ言えるのは、若者のほうが依存症になるリスクが高いということだ。アルコールを早くに覚えるのを規制しているのは、それが大きな理由だ。ところが、スマホを持たせることに関しては誰も懸念していないようだ。脳の報酬系を活性化する恐ろしい力を秘めているというのに。スマホを使う頻度を各年齢層で調べた複数の調査によれば、大まかに言って若いほどスマホを使う時間が長かった。ティーンエイジャーは大人よりもスマホを使っていて、中でも中学生がいちばん使っている。
幼児には向かないタブレット学習
幼いころの記憶に、自分がリビングのテレビに釘付けになって、『5匹のアリは4頭のゾウより多い』(訳註 :1973~5年に放映されたスウェーデンの子供向けテレビ番組。音楽に合わせて数字やアルファベットを紹介する)を観ながら指で数を数えようとしている、というのがある。俳優のマグヌス・ヘーレンスタム、ブラッセ・ブレンストレーム、エヴァ・レメーウスが出演していた番組で、子供教育番組の傑作と言えるだろう。私の世代は、大勢の子供がこれを観て数や文字を覚えた。とびきり面白い番組だったのだ。
『5匹のアリ…』のような番組を観て子供が数字や文字を学び、さらには読解力を身につけられるのは間違いない。だが、教育テレビ番組を活用できるのは、学齢期に近い年齢になってからのようだ。そう思わせる兆候が多くある。2~3歳の幼児への効果はそれほどなく、親などとの直接の交流から学んでいるはずだ。
タブレット端末やスマホのアプリに『5匹のアリ…』と同じ効果がある可能性も大いにある。まだあまり研究の進んでいない分野とはいえ。しかし学習という点では教育番組と同じく、学齢期に近い子供に最も効果があるようだ。タブレット端末を「学習タブレット」と呼んで2歳児に持たせ、何かを学んでくれると思うのは希望的観測でしかない。
カロリンスカ医科大学付属病院小児科のヒューゴ・ラーゲルクランツ教授は長年、子供の脳の発達を研究してきた。彼はタブレット端末が発達を助けるというアイデアには批判的で、むしろ小さい子供の場合は発達が遅れる可能性もあるという。テクノロジーがごく幼い子供にも良いとする誤った考えは、子供たちを小さな大人として見ている点にあるとラーゲルクランツは指摘する。パズル遊びを例に取ってみよう。大人にとっては、アプリのパズルと本物のパズルにそれほど大きな違いはないだろう。一方、2歳児は本物のパズルをすることで指の運動能力を鍛え、形や材質の感覚を身につける。そういった効果はiPadでは失われてしまう。
別の例に、書く能力がある。皆がキーボードを使う今、手で書いたり、きれいな字を書く練習をするなんて何の意味もないように思えるかもしれない。だから、教室の窓から文字の練習帳を投げ捨てて、代わりにタブレット端末やパソコンで書くことに集中しよう!もちろん、すでに書くことのできる大人はそれでいいだろう。しかしまだ書くことを習得していない場合は、ペンを使って練習をすることで文字を覚えていく。就学前の子供を対象にした研究では、手で、つまり紙とペンで書くという運動能力が、文字を読む能力とも深く関わっているのが示されている。
米国の小児科医のグループも、ラーゲルクランツと同じ主張をしている。小児科医の専門誌『Pediatrics (小児科学)』も、普通に遊ぶ代わりにタブレット端末やスマホを長時間使っている子供は、のちのち算数や理論科目を学ぶために必要な運動技能を習得できないと警告している。
ラーゲルクランツらの主張には、米国小児科学会も賛同している。子供、特に1歳半未満の子供は、タブレット端末やスマホ使用を制限すべきだ、と。私に言わせれば「1歳半未満」という年齢設定自体バカバカしい。まともに喋ることはおろか、まだ歩くこともままならない子もいるのに。しかしすぐに考え直した。2歳児の8割が定期的にインターネットを利用しているという現実を考慮すれば、ちっとも無駄な推奨ではない。「子供は遊ばせよう」という記事の中で、米国小児科学会は「衝動をコントロールする能力を発達させ、何かに注目を定めて社会的に機能するためには、遊びが必要だ」と指摘している。問題は、子供たちが遊ばなくなったことだ。「何もかもきっちり予定されていて、遊ぶ、なんて時代遅れ――大人がそう思っている現代に、我々は生きている」
医師たちには、ストレスフルな親に遊びを処方するようにも提案している。親子ともに 忙しい時間割に組み入れなさいというわけだ。
報酬を我慢できなくなる
私たちは皆、こんな考えと格闘する。「お皿の上のケーキを全部食べなければ、この夏はスタイルが良いまま過ごせるかもしれない」、「パーティーに行かずに家で勉強していれば、いい仕事に就けるかも」将来もっと大きな「ごほうび」をもらうために、すぐにもらえる「ごほうび」を我慢するのは非常に重要な能力だ。実際、それができるかできないかでその子の人生がどうなるかだいたいわかるという。マシュマロをすぐに1個もらうより2個もらうために5分待てる4歳児は基本的に、数十年後に学歴が高くいい仕事に就いている。
つまり、自制心は人生の早い段階で現れ、将来性にも関わってくる――と解釈できる。 しかし報酬を先延ばしにできる力は生まれたときからあるわけではなく、生活環境の影響を受けるし訓練で伸ばすこともできる。それでは、デジタルライフは自制心にどのような影響を及ぼすのだろうか。複数の調査でわかっているのは、よくスマホを使う人の
ほうが衝動的になりやすく、報酬を先延ばしにするのが下手だということだ。だが、それは、衝動的な人がスマホをよく使うだけなのでは?
ここでも、ニワトリと卵のどちらが先かという永遠の問いにぶつかり、その点を明らかにしようとした研究者たちがいる。数年前の実験で、スマホを使っていない被験者数人にスマホを持たせた(今ではスマホを持っていない人を見つけるのは至難の業ではあるが)。知りたいのは、報酬を先延ばしにする能力がスマホを使い始めることで変化するのかどうかだった。そして、まさにその通りになった。3カ月スマホを使用したあと、一連のテストを行い、報酬を先延ばしにするのが前より下手になっているのがわかった。
報酬を先延ばしにできなければ、上達に時間がかかるようなことを学べなくなる。クラシック系の楽器を習う生徒の数が著しく減ったのもひとつの兆候だ。ある音楽教師にその理由を尋ねたところ、こんな答えが返ってきた。「今の子どもは即座に手に入るごほうびに慣れているから、すぐに上達できないとやめてしまうんです。」
学校でのスマホ
2016年に私の著書『一流の頭脳』がスウェーデンで刊行された数週間後、ある学校の校長から「うちの高校で講演をしてもらえませんか」というメールをもらった。講堂で講演をしたのだが、ざっくり言って半数の生徒が途中でスマホを見ていた。自分の講演が聞くに堪えないせいだ、と私はがっかりした。しかし校長はこうとりなした。「全然、まったく逆ですよ。生徒たちがあんなに熱心に聞き入るのを見たのは久しぶりです」「でも、半分くらいの生徒はスマホをいじってたでしょう」「ええ、確かに。だけど、普段教室でどんなふうだか知ってますか? 全員がスマホをいじっていて、先生たちは生徒の注意を引くのに非常に苦労しているんです。前に勤めていた小学校では、休み時間に外で遊ぶ子供はいなかった。スマホを手に座ってるだけで」
帰り道、私は生徒たちが授業中にスマホをいじることについて考えた。私が学校に通っていた当時、歴史の先生は生徒が授業中にゲームボーイをするのを絶対に許さなかっただろう。仮に大きなポータブルテレビを引きずってきて映画を観ていたとしたら、数学の先生もそれを見逃しはしなかっただろう。あらゆる予測に反して先生たちがゲームボーイやテレビを許可していたら、私は学校で何を学べただろうか。
現在、多くの学校が授業中のスマホ使用を禁止している。個人的には当然だと思うが、 反対意見もある。学校でスマホを使った場合の影響、その研究結果は何を教えてくれるのだろうか。まず、教室にスマホがなければ、子供たちはもっとノートを取るだろう。 米国の研究者がある授業で子供たちを観察したところ、スマホを持っていない子供のほ うがよくノートを取っていた。それも、かなり。その子たちのほうがよく学んでもいた。後で授業の内容を質問すると、スマホを持っていた子たちよりも明らかによく覚えていた。
勉強するときに紙を使うこと自体にもメリットがあるのだろう。ノルウェーの研究者が小学校高学年のグループの半数に紙の書籍で短編小説を読ませ、残りの半分にはタブレット端末で読ませた。その結果、紙の書籍で読んだグループの方が内容をよく覚えていた。同じ小説を読んだのにだ。特によく覚えていたのは、話の中でどういう順番で出来事が起こったかだった。考えられる説明としては、脳がデジタル端末のメールやチャット、更新情報などがくれるドーパミンの報酬に慣れ切ってしまっているからというものだ。脳が文章に集中するよりも、報酬がないことを無視するのに貴重な処理能力を費やしてしまい、結果として学びが悪くなるのだろう。
(中略)
スクリーンタイムの概念
スクリーンタイムというのはずいぶん幅の広い概念だ。スカイプでいとことお喋りすることや作文を書くためにウィキペディアで情報を探すこともそうだし、キャンディ・クラッシュのゲームをしたり、Facebookをスクロールしたりも含まれる。
デジタル技術には老いも若きも知識を得たり、技能を訓練できたりする素晴らしさがある。コンピューターゲームは空間認識能力を養うし、問題解決の訓練にもなる。パイロットや外科医の研修生は最新のシミュレーションプログラムを使って、コクピットや手術室で危機的状況が起きた場合の対処を訓練する。こういった素晴らしい例には子どもを対象にしたものもある。
カロリンスカ研究所の教授トルケル・クリングベリは子どもでも大人でもコンピューターゲームを使えば作業記憶を鍛えられることを証明した。そのゲームによって集中力が高まり、ADHDの症状を和らげることもできる。自閉症の研究をしているサイオン・バロン=コーエンは自閉症の子どもが他人の感情を理解するためのプログラムを開発した。顔のついた自動車や列車の画像を使ったプログラムだ。子どもの自動車や列車への興味を利用して、表情を読む練習をさせている。
すでに書いた通り、人間には新しいものを発見し、学びたいという衝動がある。その衝動は非常に強く、【報酬の探求】と【情報の探求】を区別できないこともあるくらいだ。この衝動のおかげで、デジタルの補助手段を使うことで数学から言語、歴史、自然科学まであらゆることを学習できる。つまり、スクリーンのついた端末すべてに警告を発さなくてもいい。とはいえ、使用が自然にほどよく制限されるというのも甘い。7歳の子供にスマホを持たせ、それをその子がうまく扱えると期待するのは非現実的だ。教室の椅子にお菓子とコミック雑誌を置き、お菓子は本当にほしいときにひとつだけ、コミックは休憩したいときにちょっとだけ読むように、と指示するようなものだ。もちろんそれができる子もいるだろうが、大半の子供にとっては難しいことなのだから。
大人が依存して、性格まで変わってしまうほどのツールなのだから、
どれだけ「取扱い注意」なのかは容易に想像がつくはずです
どうか、これらの科学的な見解を知っておいてください
何度もこの章を読み返し、子ども担当の私が考えたことはまた別にあります
いつも書くことですが、「スマホ」が悪者なのではありません
いつでも誰かのせいにしようとする人は、「スマホが悪い」「ゲームが悪い」と言いたくなってしまうのでしょうけれど、私はずっと、そうは思っていません
「スマホが悪い」「ゲームが悪い」という人は、「学校が悪い」「宿題が悪い」とも言うでしょうし、結局のところ、「自分は何にも悪いことをしていない」と言いたいだけなんでしょう
私が考えた別のこと、それは、やっぱりいつも何度も書いていることだけれど、
親子関係
に尽きるということなんです
これも何度も書きますが、私の親友は中学生の子どもにスマホを持たせるとき、
・ロックをかけない
・帰宅したらリビングに置く
・中身(通信アプリでのやりとりなど)はいつでも見せられるように
と約束し、しっかりと実践していました
子どもたちも素直に従っていました
親友曰く、「中学生までは義務教育で、親に責任があるから」と、徹底していましたが、
高校入学後はルールを緩めたようです
身近に暮らしているわけではないので、日々の細かいところは知りませんが、
私も何度か会ったことがある、今では大学生になった彼女の子どもたちを見て、また、彼女との親子関係を見ていると、「こういうことなんだよなあ」と思うところがこれまでもたくさんありました
ずーっと遡って、私が長女を出産した直後、彼女が子どもたちを連れて他県から会いに来てくれた日のことが忘れられません
まだ小さな彼女の子どもたち、ふたりとも園児さんだったと思います
私が用意していたお茶菓子に、手をつけずにニコニコしていました
私が「どうぞ」と言っても、ニコニコしたまま手を出しません
母親が「いただいたら」と声を掛けて、やっと、ひとつずつ、手を伸ばして、「いただきます」と食べていました
その姿がとても可愛らしくて、忘れられません
母親が許可するまで手を出さないなんて、子どもらしくない、と思いますか?
いいえ、このことは、彼女と子どもたちを象徴するできごとであって、具体的な行動について細かく検証してほしいわけではないのです
何を象徴していたか、それは、子どもが小さいうちに主導権を握っているのが親だった、ということです
だから、10年後、スマホの扱い方について、中学生になった彼らは素直に従ったのです
私が出会ってきた「幼子と親」というケースで、この部分が確立しているケースはあまり多くありません
たとえば何ピースかのケーキの詰め合わせを家族や、大勢の仲間でいただくとします
さあ、ケーススタディです
みんなでそのケーキを分け合おう、となったとき、
私は一番最初に子どもに選ばせるようなことをしてきませんでした
さっきのお茶菓子のエピソード同様、「子どもが可愛そうに」と思いましたか?
いいえ、これも、このこと自体を深掘りする必要はありません
考えてほしいのです
そして、その時代から親子関係の基盤が構築されていくことを、知ってほしいのです
さて、長くなりすぎたので、ケーキの話はまたの機会に
一番に、子どもが好きなものを取らせてあげる
最優先に、子どもの希望を叶えてあげる
言葉だけ見ると、それはとても優しくて、あったかくて、思いやりがあって、素敵なことのように思えます
でも、実は、子どもはそれによって育つはずの部分を育てることなく成長してしまいます
『スマホ脳』の中に書かれていた、「自制心」のコントロールが、子どもの将来にかなり重要だということだけ見ても、我慢せずになんでも思い通りになるかどうか、その選択や体験をする機会はスマホの中だけの話ではなく、生活の中で何度も訪れます
なにより、親子関係の基盤が構築されるチャンスなのです
基盤が構築されていないことに気づくのは、
だいたい、子どもが思春期に入る頃…小学校高学年から中高生になるくらいからですから、
その時にはもう基盤を作り直すことはできず、別の対処法を考えるしかありません
そう、たとえばスマホもゲームも自由に扱える状態を安心して見守っている親はいません
多くの方は困っています
与えたのは自分たちなのに
そして、私の親友の家庭のようなルールを敷こうとしても、子どもは拒絶するでしょうし、守らせ続けることもできないでしょう
そういう親子関係を築いてきたからなのです
それは、「ケーキ」から始まっているのです
その話は、またの機会に