このゲームは「ジャマイカ」
数字の書いてあるサイコロがくるくるまわる仕組みになっていて、
手の上で転がして机に置いて数字を決めたら、
黒い数字を足した数を、
白い数字を四則を駆使して表すゲームです
小学校低学年だと、足すか、引くかしかしませんが、結構楽しそうにやってます
大人も含め、中学生以上では四則どれでも自由に使えるので、結構頭を使います
この子は裏返しだけど…「できたよ!」って持ってきました
黒い数字は「11」
白い数字を全部足すと、やはり11になっています
2年生なので、足してぴったりの数字になるのを探して楽しんでいましたよ

さて
9月9日に、どんぐり学舎オンライン座談会を開催しました
前回、7月は「平日の午後」だったので、
今回は「平日の午前」に開催してみました
次回は11月、「土曜日の午前」を考えています

今日は、その7月と9月の座談会で話題となった「しつけ」について、
どのような内容だったのかをかいつまんで報告しようと思います

どんぐり的子育てをしている保護者さん、
…どんぐりじゃなくても、「自由に考えさせる」「子どもらしく育てる」「子どもの尊厳を守る」というような方針で子育てをしようとしている保護者さんの中には、「子どもを自由に」という部分と、「しつけ」の部分とで、ジレンマに陥ることが多々あるようです

私も、仕事柄「子どもを自由に伸び伸び」させているご家庭や、施設、機関などに見学に行ったり仕事で訪問したりする機会が多かったので、その都度、その場で考えさせられることはとても多かったのです

たとえば、「子どもを自由に」させているとある施設では、子どもが好きなところで好きなように遊び、好きな時間に食べ、子どもによっては好きなところで排泄もしていました
何をしても大人は諭したり、叱ったりすることなく、それはもう、子どもの楽園のような状態でした
確かに子どもたちは自然体でリラックスしていましたが、私には、子どもがこれから生きていく世界を考えると、果たして、このままでいいのか…と考えさせられる光景でした

代表の方に質問すると、「いつか子ども自身が気づくから」と、もちろんしっかりと確信を持ってそのような方針を貫いているのはわかりました
私が意見をするような立場でもないし、意見を求められているわけでもないので、話を聞くに留めましたが、あとで別のスタッフや保護者に質問すると、その施設を卒業した後、学校や社会に馴染めない子は相当数いる、という話でした

もちろん、私たちは「学校や社会に馴染める子を育て」ているわけではありません
それが「目標」ではありません
でも、子どもの立場に立って想像してみると、「なんでもあり」の自由な世界から、「そうはいかない」というある程度の規律を守らねばならない世界に急に飛び出た時に、どんなにショックを受けるか
ついこの間まで「いいよいいよ、好きにしていいよ」と言われていたのに、急に「ダメですよ!」と厳しく言われることにどれだけ戸惑うか

子どもを自由に育てる、子どもらしく伸び伸び育てるってなんだろう、どういうことなんだろう、と私はずっと考え続けてきました

我が家に遊びに来る子どもたちにもいろいろな子がいました
冷蔵庫や引き出しをどんどん開ける子がいました
私の目の前でしていたなら、その子を捕まえて話しました
「よその家の冷蔵庫や引き出しは、自分の家の冷蔵庫や引き出しとは違って、勝手に開けてはいけないよ。」
しっかり向かい合って、目を見て、優しい顔をして、でも、きっぱりと伝えると、大抵の子はわかってくれました
私の家が困るからではなく、この子が誰の家でも2度とそんなことをしなくなるよう、教えたつもりです
厄介なのは親御さんも同席しているのに、子どもがそのような行動をとっても何も注意しないケースです

教室でもよくあることです
そして、こういうことを私がこういう風に書くから、子どもの行動を見ていて、私の前で注意しようとするのですが、肝心の子どもは聞く耳を持たず…というケースも多いです(笑)

みなさん諭し方がうまくない…というか、慣れていない…というか、どうしたらいいのか、わからないのかもなあ…と心の中で苦笑してしまいます
そして、子どもが聞く耳を持たないのは(たとえしおらしく話を聞いているように見えても、私には聞く耳を持っているか持っていないかわかります)子どもの方も、普段から諭されることに慣れていないからなんだろうなあ、とわかります

何かよくないことをしたら、怒鳴られるか、ただダメ!って言われるかしながらここまできたんだろうなあ、って
だから、急に諭されたってなんのこっちゃわからん、って
さらに、もしかしたら他人が近くにいない状態の、家の中では親御さんはもっと怒りを露わにして叱るけど、人前ならそんなこともないから、と聞く耳を持たないのかなあ、って

私だって、最初からわかっていたわけではなく、初めての子である長女が成長して自我が芽生えだした頃(gang ageと言われる2歳くらい)には相当悩みました
失敗も重ねました
長女の状態を見て、猛省して、自分を正そうと何度もトライしました
頭ではわかっているのに、どうにも自分をコントロールできず、毎日自己嫌悪に陥っていた時期もありました
今思えば、育児ノイローゼに近かった時期もあります
言い訳に過ぎませんが、女性の出産後のホルモンバランスの崩れは、今思い出しても想像を絶します
10代の頃から1ヶ月に1回、その崩れを練習し続けているのに、やっぱり出産後のそれとは比較になりません
特に初産の後は、それまで生きてきて経験のないバランスの崩壊を体感します
知識はあり、頭ではわかっているのに、体と心が繋がっていない、体の中の謎の物質(=ホルモン)が心をかき乱すような…そんな時期は出産後数年間続きました

年齢を重ね、自分が崩れやすい時期も把握し、それなりの対策ができるようになる頃には子どもは育ち上がってしまいますから、やはり、言い訳に過ぎないのです
言い訳をしている場合ではないのです
子どもを犠牲にはできない
でも、やっぱりひとりきりでは大変過ぎます

ただ、そんな自分の状態を冷静に見つめ直したら、もしかしたら受けとめられるかもしれません
そんな話題も出ました

さて、
タイトルの言葉は、7月の座談会で、特別ゲストの糸山れい先生が最後にお土産で置いていってくれたものです

7月の座談会のあと、「あの言葉の意味は」という質問が私のところへ相次いだので、れい先生と相談して、9月の座談会まで解説はせず、各自考えておいてもらいましょう、ということになりました

そして9月の座談会、れい先生は忙しいどんぐり添削仕事の合間に顔を出してくれました
そして、いよいよこの言葉の真意が語られました

それは、れい先生本人が育った糸山家のしつけの話でした

糸山家の家訓「楽しく 静かに 命がけ」
この言葉も出席者みんなの心に静かに響いたことでしょう
わたしは、れい先生のお父様である糸山泰造先生の弟子として、ずっと糸山先生の理論を追求し続けてきたので、糸山先生ご自身がお子さんを家庭で育てるために大切にしていたこの家訓の意味は、手に取るようにわかりました

「楽しく」「静かに」「命がけ」ですよ

もう、これだけで、「しつけとは」に対する答えになっています

え…?どこが……?と首をかしげている方のために、もう少しだけ説明を続けますね

「しつけは厳しかったが、怒られることはなかった」
国語の問題のようですが、この言葉をもう少し、読みこんでみてください

そう、多くの人が、もしかしたら「そういうもの」と勘違いしているかもしれないこと
「厳しい」=「叱りつける」「怒る」ではない、ということ

つまり、
糸山家は「しつけが丁寧」であった、と
そういうことなんです

たとえば洗濯物を各自畳むことになっていた場合、
いつまでたっても自分の洗濯物を畳まない子に対し、
どのようにそのことを指摘し、伝えますか?

いつになったら畳むの!!!
自分の分は自分でしなさい!!!
早く!!

または、
言うのも面倒、叱るのも面倒だから、と親御さんで畳んで片付けてしまうか

糸山家では畳むのはお父さんで、畳んである洗濯物は各自しまうことになっていたそうです

れい先生は子ども時代、洗濯物をいつまでも片付けずにいると、
「楽しく」「静かに」指摘されたそうです
「そろそろ富士山になるよ」
それでも畳まないと
「そろそろエッフェル塔になるよ」
そして、塔が崩れて、しかも、着る服もなくなってしまうから、
結局自分で早々に片付けることになるれい少女なのでした

「良い意味で、しつこいしつけだったのでは」と私が言葉を足しました
でも、「しつこい」という言葉が的確でないことは私にもわかりました
糸山先生ご夫妻が、「楽しく」「静かに」「命がけ」で子育てをしている様子を目に浮かべると、
そんな言葉じゃそぐわないことはわかりました

子どもがどう育っていくか、
親子関係がどう構築されていくか、
その間にある最も大切な信頼関係について、
先生ご夫妻は理解し合っていたと思われます

「命がけ」とあるのは……
糸山先生の著書の後書きなどにも書かれているように、
糸山先生がとても若い頃に、まだ、お子さんたちも幼いころに、
ご病気になられたことも関わっている言葉なんだと思います

でも、
たとえ健康でも子育ては同じこと
2度と取り戻せない日々
2度とやり直せないその瞬間を、
命がけで過ごすことに、かわりはありません

全てをここに書くことは不可能で、
また、文字に興すことがよいことなのかどうか躊躇するほどの、
れい先生の大切なお話でした
いつか座談会にみなさんが出席でき、れい先生がまた来てくれるような機会があったら、
ぜひ、色々と質問してみてくださいね

さて私自身の子育てで言えば、
確かに「怒る」必要などほとんどない子育てでした
『精神科医の子育て論』(服部祥子さん著 新潮選書)でも「初動が大切」と書かれているように、
最初の最初、に、理由を説明して諭すと、
子どもは覚えました
前述した施設の状態とはかけ離れたもので、
ダメなものはダメだし、食事のマナーや、排泄のルール、よそのお宅でのマナーなどもどんなに幼くてもしっかりと話して教えてきました
失敗しても叱らない、というのがポイントです

何度も書いていますが、
次女が3歳くらいのとき、美術館に行く機会があり、私は会場の入り口でしっかりと美術館でのマナーを話しました
大きな声を出さない、壁にかかった額縁に触らない、近づきすぎない、走らない
向かいあって、しっかりと目を見て、きっぱりと優しく伝えました
次女は「うん」とにっこり頷きました

えーと、
長女の時は、というと、長女は私の体から絶対に離れないタイプの幼児だったので、会場に入る前に諭す必要はありませんでした
会場の中で、ひそひそとマナーを教えたことが1度あるくらいです
次女は、なにごとも全身で表現するおてんば娘だったのもあり、最初にしっかりと教えておくようにしました
最初に教え、その後も親が一切ぶれないことで、次女もぶれず、しっかりと守り続けるのでした

美術館の中で、私と長女はスタスタと展示を見て回りました
あれもう一度見てみようか、と戻ったりもしながら、夢中で見ていました
静かに次女も、一緒に見ていたのですが、はっと気づくと近くにいないので振り返ると、遠くの方から次女がすり足で一生懸命追いかけてきている姿がありました
私と小学生の長女がスタスタと移動する距離を、3歳の次女はそう簡単には移動できず、しかも「走らない」と約束しているわけですから、追いつくのに必死ですり足をしていたのです
パタパタと普通に早歩きをしたら、小走りになってしまう、と幼いながらも気遣ったのでしょう

なんともかわいらしく、懐かしく、そして、ちいさな子どもが約束を守ってくれた、という大切な思い出です

ちなみに、子どもと日常的に遊びにでかけるのは、美術館やお店やよそのお宅の室内、など、「気をつけることがたくさんある場所」ではなく、何も気にせず好き放題体を動かせる場所(自然のなか)がほとんどであったことも付け加えておきます
なんなら、よその子がたくさんいる公園さえ避けていた時期もありました
自分以外の誰かがいる時と、いない時とで、約束は変わります
ちょっと違う例かもしれませんが、
温泉に行ったとき(群馬には温泉がたくさんあります)、他のお客さんがいるときはお湯に脚を入れる時に波が大きく立たないように注意することまで教えましたが、誰もいない時は少し泳いだり、私が背中に子どもたちを乗せて「カメさんタクシー」と言って、露天風呂の中をぐるぐると這い回る遊びをよくしていました
カメさんタクシーは気まぐれで、時々乗客を落としてしまったりするのですが

本当は露天風呂で遊んではいけないのかもしれませんが、お家のお風呂より大きなお風呂でしかできない楽しみを、だーーれもいない時だけは、少しだけ、していいことにしていました

ほとんど自由に伸び伸びと体を動かして遊び回れるから、TPOを区別してはっきりと教えることができるのです
どこででも自由奔放に、というのも違う
どこででも制約があり気をつけ続ける、というのも、子どもには違う、不健全だと私は考えます


よく、「先生のお宅はちがうから」とか「○○ちゃん(うちの娘)はそういう性格だから」などと言われたことがありました
実際、同じように幼少期から同様の「しつけ」を丁寧にして、それでも、理解できる子とできない子、実行に移せること移せない子がいる、ということは子どもの特性上、あるのかもしれません
実際そんなことは試して比較はできません

でも、私が仕事で出会ったいろいろな親子を見ていると、そうじゃないんじゃないかな、という例が少なくありません

子どもに、誠意を持って、丁寧に、最初から、伝えてきましたか?

と、思い出してみてほしいのです

まだ幼いから、と闇雲に流していませんでしたか?

と、問うてみてほしいのです

ダメなものはダメ、と親がブレずに行動を示していましたか?

と、思い出してほしいのです

「今日くらいいいよね」があってもいいけど、それが多過ぎやしませんでしたか?
子どもが大人を見て覚えまくる大切な時期に、ブレまくる姿を見せすぎませんでしたか?

最後に言いたいのはいつも同じことです
子どもに何を見せてきたのか、
何をどう伝えてきたのか、その伝え方も学習してきた子どもです
それなのに、
あとになって全部子どものせいにするのはやっぱり筋が違いますよね、って話です

うちの子はどう言ってもだめな性格で…
うちの子はこういうことができない性格で…
などと、親が決めつけて子どもを説明することのほとんどが、
まるで子どもが勝手に産まれて勝手にひとりでそう育ったかのような言い方で、
そんな言葉を親御さんから聞くと、私は残念でならないのと、子どもの様子を見て胸が締め付けられることさえあるのです

だからって
「私はダメだ…」って親御さん(特にお母さん)がひとりで落ち込むのも違うんですよ
子どもは、それも見て、感じているんです
自分たちのせいなの?ってやっぱり思わせてしまうんです
れい先生も、私も、親御さんたちを追い詰めて悩ませたいわけではありません
気づいたら、まずは親御さんの方から自分を見つめ直し、自分を受けとめてほしい、
子どものせいにせず、子どもを追い詰めず、まずは自分を受けとめて
そう、伝え続けているんです
そのための手伝いを、しようとしているんです

一緒に生きていく
子どもと一緒に
親になったなら、親にさせてもらえたなら、そこを絶対に、譲ってはなりません

実際には、早ければ10代の途中で、親元を離れる子どもたち
その後も、
私たち親が与えた影響は子どもの中に残ります
だから、結局、どこまでも私たちは
親子は、一緒に生きていく
離れていても、一緒に生きているんです

その喜びと、難しさを、私たちは選んだのです

子どものせいにしてはいけません

私たちが最初から全部教えたのです
見せてきたのです

だから、
できないことを怒る必要などない
できるようになるまで伝え続ければいいだけなんです

厳しい=怒ることではない

だから、厳しく、丁寧なしつけを

それが、子どもの自律を促し、
子どもがいつか、自分の人生を楽しむための余裕、思考力を、
育むことになるのです