かつて、「絵を描くこと」や「全身を使ったリズム運動」や「生活の中の手仕事」「自然遊び」を通してちょっとした「障がい」を治してしまう、と評判の伝説の保育士先生がお隣、埼玉県にいらっしゃいました
その「障がい」の度合いや、「治す」の判断基準などはここで全てを書くことができませんが、その保育士先生の園に見学に行った方の話では、子どもの「出す」もの全てから、その保育士先生や、他の先生方は「その子自身」をできるだけキャッチし、毎日、毎朝、毎夕、常に、その子に対して適切な関わりをするための努力を惜しまない、という雰囲気であったとのことでした
毎日、子どもたちが描く絵を並べ、その日のその子のことをとことん話し合う職員会議だったそうです

私が進学塾のいち教室を任されていたときも、毎回、日付が変わるまで生徒たちひとりひとりのことを話し合っていました
会議というよりも雑談なのですが、その日その教室にいたスタッフ全員が、その日その教室に来た全員の生徒と関わった気になってしまうくらい、些細なことも報告し合うのが日課になっていました
未熟で、力もない私が責任者であるにも関わらず、経験豊富な講師の先生方が私のもとでサポートしてくださり、私はその教室で、かけがえのない生徒たち、保護者さんたちと出会い、その絆は今でも続いているのです

話が逸れましたが、
「絵で障がいを治す」という風に簡単な言葉で書いてしまうのはちょっと違うかも、と認識しながら、今日は敢えて、そのことについて私の考えを述べようと思います

前述の保育園の保育理論と実践は、評判を呼び、全盛期には全国各地から見学者が押し寄せ、全国に波及していきました
今でも、各地にこの園のこの保育士先生の保育論を大切にしている保育園がたくさん残っています
群馬にもあります
ただ、時代と共に、その保育論はまるで「時代錯誤」とでも思われているのか、少しずつ、敬遠されたり、勘違いされたりし始めてきたように私には見えています
子どもの育ちに大切なことは、何十年前だろうと何百年前だろうと現代とそう変わってはいません
少なくとも、私がこの仕事をはじめて今年で29年目になりますが、その間、子どもたちの本質は何にも変わっていません
変わったのは社会と、大人たちです

「絵で障がいを治す」ことに関して、少し知っているのは、
その子がどんな色を使って描くのか、どんな筆圧で描くのか、何を描くのか、ということをつぶさに観察し、その日の関わり方を大人が工夫する、ということです
こうしなさい、ああしなさい、と絵について指図し、正すのではなく、その子の本質を絵を通して見抜き、適切な関わり方をする、ということなんです

どんぐりは、その保育園の「絵」とは違い、絵画として楽しむものではないかもしれません
上手か下手か、もちろんその保育園でもそんなことを重視している訳ではありません
どんぐりもそうです
でも、子どもがどんな風に鉛筆を持って、どんな風に線を引くか、私はそこまでを見て、その時の子どものことを想像します
生徒さんの場合、一緒に暮らしているわけではないので、想像の域を超えませんが、確かに、その日、どんな絵を描くか、昨年と比較して、今年、どんな絵を描いているかで、その子の状態や、成長が見えるのは確かなんです

先週までめんどくさそうに描いていたのに、
急に色を使ってニコニコで描くようになったり
「積み重ね算」で途中でずれてしまっているのに、気づかず…むしろ、気づかないふりでもしているのか、まるで時間稼ぎをするようにただひたすら数字を書いていた子が、急にすっきりと合理的な思考力を発揮して整理して書き始めたり

いったい何がおこった?

と、心の中で首をかしげるも、
いいぞいいぞ、いい感じ
と、やはり心の中で小躍りしてしまうわけです

教室に入るなり暴言を吐いたり、荷物を投げたり、あれあれ、って状態で
でも、なぜか、時間が終わる頃には、しんなりと、いつものその子に戻っていることもよくあります
…ということは、ここに入ってくる前に何かあったな
と、わかるので
わかっているから、ぎゅうっと押し込めたりせず、様子を見るんです
何を吐き出しているんだろう
何を訴えているんだろう


前述の保育園の理論でもどんぐりでも同じことなのですが、
いつからか子育ては「足し算」になってしまって、
ちょっと違うんだけどなあ…と思うような言葉をよく耳にするようになりました

すごくいい保育をしているから、と保育園を選んで、
自分の家の子育てにその保育を「プラス」する、「足し算」をする
簡単に言うと、「いいとこどり」をする
いい保育をしてくれている、すごくよく見てもらえている、いい経験をさせてもらっている、
ということで満足している
自分の生活スタイルは変えず、保育園に行っている時間を重宝がって安心する
それはそれで、まるでよくない、というわけではないのかもしれませんが、
なにか、「いいとこどり」では都合がよすぎるんじゃないかなあ、と思うところもあります

すごくいい勉強法がある
絵を描いて思考力を伸ばすんだって
考える力って大事だよね、とどんぐりを「プラス」する、「足し算」をする
そう、「いいとこどり」です
計算はスピードも大事だけど、じっくり意味を考えさせなくちゃね、とどんぐり以外の勉強法と両方の「いいとこどり」をしている方も少なくないようです

もし、他の学習法と併用などしていません、どんぐりオンリーです、という場合でも、どんぐりが生活に「足し算」されているだけだったら、それは「いいとこどり」でしかありません

前述の保育園の先生方は、子どもの絵や、動きを通して毎日の関わりを変えていく
だから、ちょっとした障がいは治してしまう(と、言われている)
でも、群馬の、その保育園の保育論を取り入れている園の先生が胸を張って言っていた言葉が忘れられません
「保育園は0歳から入れないとダメよ。家庭の保育じゃ子どもは健全に育たない。月曜日の保育は、家庭保育の矯正から始まるんだから。」
「土日に、テレビを見る、ビデオを見る、CDを聞く、がちゃがちゃした店に買い物に行く、遊園地に行く、そんなことをされたらそれまでの保育が台無しなのよ!」
私はその先生の言葉に圧倒されながらも、
どんぐりのことも自分では考えていました

いくらいい方法でも、いくら本物の学習法でも、いくら丁寧に手渡そうと思っても、受けとる側の方が同じように大切に思ってくださっていなかったら、それは壊れてしまうんだ、と

荒れに荒れて教室に入ってきた子が、帰る頃には穏やかになっている、なんて昔からよくあって、迎えに来た親御さんに指摘されることもよくありました
「子どもが別人のよう」と
でも、それでいいのでしょうか
そんなもったいないことで、いいのでしょうか
お家がそういう場所に、なれはしないでしょうか

私は、私の大好きなどんぐりを、大切に手渡していきたい
受け取り方がよくわからない人には、丁寧に、その方法を教えながら渡したい

最近、本格的にはじめたリモートマンツーマン授業では、
それまで、おうちどんぐりで親子で進めてきたご家庭にちょっとだけ私がリモートでお邪魔し、
いつもどんぐり学舎でやっているような進め方で1時間一緒に過ごしています

どんぐり学舎では、私が教室で作業しながら待っていると、少しずつ、生徒たちが集まってきて、私とお喋りしたり、作業を手伝ったりしながらみんなが揃うのを待っています
だいたい揃ったら、アナログゲームをするか、本の読み聞かせを聞くか、いずれかから授業は始まります
ゲームか本が終わったら、「どんぐりしよう!」とそれぞれがクロッキー帳を開きます

さっきまでギャーギャー遊んでいても、不思議とクロッキー帳を開くとみんなシーーンとなります
見学に来る方が異口同音におっしゃることですが、これが「どんぐり学舎の不思議」だそうです
私と子どもたちにとっては普通のことです

リモートでも、おしゃべりと遊びの時間が終わるとすんなりみんなどんぐりタイムに移ります
静かで、幸せな時間です

ただ、
実教室でも、リモートでも、
あとで親御さんに聞いてみると、「いつもと全然違った」と驚かれることが多いのです
「家ではすぐに切り替えられないのに」とか「ゲームで負けると泣いて怒ってしばらく他のことができない」とか、子どもたちの様子の違いに驚かれるのです
それは単に、わたし、という他人の大人が関わっている、というある種の緊張感もあるでしょうし、親への遠慮のなさが素直に感情を暴露できる良さでもあるのですが、それでも、子どもたちは「そうできる」のに敢えて「しない」のだということがわかります
そんなほどよい緊張感のような特別感のような子どもたちの感情を私は尊重し、子どもたちの絵をつぶさに観察し、次につなげるためのヒントを探します
私たち大人へのヒントです
子どもたちが教えてくれているはずなんです

さっき書いた「保育が台無し!」とおっしゃる保育士先生の言い分もわからないでもないけれど、確かに、どんぐり問題での進化も、進んだり、戻ったり…もったいないなあ…と思いつつ、それでも、子どもはいったい、今何を抱えているのか?ということを考えに考えます
そして、子どもの背景にいる親御さんのことを考えます
時には質問したり、お願いしたりすることもあります
どんぐりライフの基本は私が説明するまでもないとしても、
こうすればどうなるか、ということがわかっていらっしゃらないようなら説明することもあります

なによりも、親御さんご自身が、納得いくまでどんぐりについて勉強してくださったら楽になれるのになあ、と本当に思うのです

近々、どんぐり倶楽部創始者糸山泰造先生の新刊(改訂版)が発行されるようです
本を読み、知ること、いいとこどりではなく、今までの子どもとの生活の中で、今現在の子どもとの生活の中で、どこをどうすれば、子どもは自然体で、健全に進化、成長するんだろう、ということを考えてみてください

焦らず、ひとつひとつ見つけては大切に受けとってください
私も、みなさんが受けとるための手伝いをしたいと思っています

「絵で障がいを治す」こととどんぐりが少し似ているな、と思うのは、
「全て絵にする」という、経験したことのない算数の文章問題を解きながら、
(「計算の方が早いのに」と中途スタート組は特に思っているはずですが)
それでも、「どんぐりのルールだから」と敢えて全て絵にする、そんなことを日々繰り返すことで、いつの間にか、思考力が育ちはじめる、複雑な思考回路が構築されていく
音も立てずに静かに、ゆっくり、じっくりと、その回路はより複雑化して、豊かになっていく
当初は全くしなかった思考や、鉛筆の使い方、線の引き方を、確かにするようになってくるのです
その、最も大事な時期に、できかけの思考回路をガラガラと音を立てて崩すようなことさえしなければ、邪魔さえしなければ、子どもたちは勝手に、どんどん賢くなってしまいます
もう、私たち大人が、ついていけないくらいに

これがいい、あれがいい、これはよくない、あれはどうのこうの…
たくさんの子育て情報が飛び交っていますが、本当に大切なことは何一つ変わっていません
学力を伸ばすことが第一目標では、ヒトは人間に育ちません
人間が人間を傷つける事件が、目を覆いたくなるような事件が、毎日どこかで起こっています
自分の命に関わること以外で、他者を攻撃する動物を人間以外に特に知らないけれど、
私は、自分のエゴで他者を傷つけたり命を奪ったりする人間は、「人間」ではないと思っています
人間に育ててもらえなかったヒトたち
他者の心や状況を、想像する思考力もなく、思いやる心も持たない、人間以外の生物だと思っています

前述の保育論の先生の名前は、齊藤公子先生です
「ヒトを人間に育てる」という言葉をよく使ってらっしゃいました
私も昔、何冊か齊藤先生の著書を読みました

糸山先生も「ヒトを人間に育てる」のが親の役目、と書いていらっしゃいます

私たちの使命は、「ヒトを人間に育てること」なんです
「優秀な人間か」とか「美しい人間か」とかそれらは、
人間になってからその人間が自分で決めることであって、
親が決めたり、作ったり、牽引したりして連れていく境地ではないんです

※これからどんぐりを初めてみたい、どんぐり問題を体験してみたい、という方は、
どんぐり学舎での無料体験授業と、オンラインときどきどんぐり学舎(リモートマンツーマン授業)を活用なさってくださいね

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