今日の朝刊の投書で、
「孫の算数のノートを見て驚いた」という内容のものがありました
問題番号はここ、解答欄、計算場所と全て指定席のように決められた枠に書き込む形で、
価格は普通のノートの倍、と
「こんな至れり尽くせりのノートで、学習への意欲や関心、創造性が育まれるのだろうか」と投書主さんは危惧していらっしゃいました
ご覧になったことがない方は、お子さんやお孫さんのノートを覗いてみるといいと思います
小学生も、中学生も、「普通のノート」ではないものが多いと思います
おや、普通のノート!と思いきや、中には「指定席」の決まったプリントが貼り付けられていたりします
私の30年近い定点観察による見解では、
昔は、先生が板書したものを書き写したり、問題を解くときはまっさらなノートに子どもが書いていった
そのうち、「板書をそのまま書き写す」という作業ができない子が目立つようになり、先生方は板書をプリント化し始めた
板書を模造紙にあらかじめ書いておいて、貼り付けて授業を進める先生も出現
(最近ではプロジェクターを活用する先生も多い)
穴埋めのように、重要事項を書き込むようなプリントを作成し、板書を書き写すのと同等の効果を狙った
やがて、教材会社が先生のプリント作成の手間を代行するようになった
そして、「算数ノート」は、市販のなんでもありのまっさらなノートから、教材会社が学校向けに販売する特殊なものになっていった
そんなところではないかな、って思います
「指定席の決まったノート」が出現したとき、私は小学生の親で、担任の先生がそのノートを保護者との懇談会で見せて、「今はこのようなノートを使って誰でもきれいにノートがまとめられるようになっています」と誇らしげに説明していたのを覚えています
問題番号がすでに書いてあり、最初の数問は薄字で問題が印刷してあり、なぞるだけ
その後も、答えを書く位置も決まっていて、検算の場所も指定
ひとりの親が「このノート、本当に助かります!今までの普通のノートではもう、汚くて、どこに何が書いてあるのかまるでわからなかったから!」と喜びの声をあげると、他の方も「そうね、そのとおりね」と共感して喜び合っていました
なんか、通販番組みたいに主婦たちがキャッキャとそのノートを褒め称えている…(笑)
そうか、そういう風に喜ぶ親御さんもいるのねえ、と冷静に受けとめつつ、学校の先生が喜び、誇っていることに当時は少しがっかりしました
この先生がこの指定席ノートを疑問視しないんだから、普通のノートを書くための工夫へ子どもたちを導くことなど、できるはずはないんだろうな…と
その担任の先生が悪いのではなく、「学校ではこうですよ」と職場で当たり前に覚えてきたことです
なんなら、教材の購入は学年で意見をまとめるのでしょうし、学校単位で契約をするのですから、末端の若い担任の先生に意見する隙や決定権などないのでしょうから
周囲の先生の多くも、管理職の先生方も、何にも疑問に思わないからそのような教材が採用されているのです
みんなの前で意見を言うのは控えましたが、後日、先生と話す機会があったので、私がその「指定席ノート」を疑問視していることは先生に伝えました
喜んでいる親がいる一方で、まっさらなノートに先生の板書や言葉を自分で工夫して書き込むことで経験を積んでもらいたいのにな、って思っている親もいることを、伝えておく必要はあると思ったからです
何も、「明日から使わせないでください!」なんて言っていません
さて、
でも、実際には、「指定席」が決まっていないと確かに、どこに何を書いたらいいのかわからなくて、ぐちゃぐちゃになってしまい、大事なことがなんなのか、わかるように書くことなんて到底無理…という子どもがいることも知っています
「指定席」さえあれば、みんなと同じように書けて、みんなと同じノートが作れる
それによって、自分はできない、書けない、と劣等感を抱くこともない、と喜んでいるお子さんやその親御さんもいると思います
でも、「みんなと同じように書ける」って、そんなに大事なことなんでしょうか
それよりも、「みんなとは違う書き方だし、誰が見てもわかるって状態でもないけれど、自分だけはわかってるんだよね」っていうノートを書ける方が、ずっとかっこいいって私は思うんですけど、どうでしょうか
どんぐりをはじめて間もない子が「何をかけばいいかわからない」と泣いたり拗ねたりしてしまうことがあります
そりゃあそうでしょう
どんぐりは、机の上いっぱいに広がる大きなクロッキー帳の白紙、真っ白で罫線もないノートに、最初の最初っから自分だけで描き始めなければならないからです
学校の問題であれば、前述の指定席ノートならもちろん、段取りよく書き込んでいって解くことができますし、または、学校の先生が解き方の手順を先に説明してくれますので、その通りに数値を並べていけば答えが出るようになっています
以前から何度も書いていますが、テストの上部には「分数のかけ算」とか「2桁の引き算」とか、タイトルが書いてありますので、文章題もおおよそ、どんな計算方法で解けばいいのかわかります
文章に出てくる順にかけ算したり、引き算したりすれば答えが出ることを知っている子もいます
中学生になり、数学の問題などはより抽象的になり、それこそパターンで解いていく必要があるものも実際には出てきます
「yはxの2乗に比例し、xの値が2から5まで増加するときの変化の割合は-21である。yをxの式で表しなさい」なんて問われ、「何の話?」と首をかしげている暇はないし、そうだ、絵に描いてみよう、なんてやってる場合でもありません
もしかしたら、小学校の算数は、こういった中学数学の抽象的な問題を解くための先取りで、決められたパターンで答えを当てはめながら解く、ということの練習だということで方針が立っているのでしょうか
だから、どこに何を書くかまで指定して、教わった通りに解くことで答えが出る、という経験を積ませようということなのでしょうか
でも、小中全学年を通して見ている私は、小学生の時にいかに雑多な数量体験があり、具象思考が豊富であるかということが、中学以降の抽象思考に大いに影響しているし、実際、中学数学で躓かない子は小学校時代にゆっくり、たっぷり、自由に思考してきた子だということは確信しているのです
真っ白な大きな紙に、自分の自由に描いて考えていい、途中で間違ってもバッテンして何度描き直したっていい、なんて、ヤッホー!なんじゃないか、と思いきや、「何を描けばいいかわからない」とネガティブになってしまう子が多いと聞くと、本当に、その子のそれまでの背景を思い、切ない気持ちになるのです
そうだよね、決めてほしいんだよね、ここに何を書いて、って指示をしてほしいんだよね
…でも、そのままじゃダメかも…って親御さんだって気づいてる
だから、なんとかしたいんですよね
それには、まず、親御さんの気持ちから、排除しなきゃならないものがあると気づかなくては
(博士の髪型がファンキーすぎて添削どころじゃなかった…)
(クジラが水面でいろいろやってる…これも添削そっちのけで見入ってしまった…)
(どんぐり問題七不思議のうちの1つ、タヌキの日本海南下問題。子どもたちはすらっと解いてしまう。ハロウィンが近かったので、ジャコランタンとかおばけとか浮いてる……www)
さて「何でも自由に」「好きなようにさせておく」ということを、勘違いしている方が多いのも気になります
丈夫な体と元気な心の基盤が6歳とか7歳までにばっちり育ったら、
いよいよ「学ぶ」という段階に進みます
だから小学校が始まるのでしょうけれど、そのくらいの年齢の子どもたちの知識欲や、好奇心は、キラキラしてわくわくしてとっても元気です
体と心が元気に育っていて、遊びが充分に足りている子は、学ぶことにも意欲的です
新しいことに挑戦したいし、新しいことを知りたい、人の話も聞きたいのです
小学校6年間は、
まだまだ体と心の成長期まっただ中
やはり、それまでの6年間同様、最も優先すべきは体と心の淀みない成長と、充分に遊びで満ちていること
その上で、「考える楽しさ」「学ぶ喜び」を体験していくことです
「なんにもやりたくない」「めんどくさい」
は、正直言うと「老化」に似ています
エネルギーを使い果たし、あとはなるべく体力その他の力も浪費せず温存して穏やかに過ごしたい…
人間、誰でもいつかは老化しますので、そうなるのは必然ですが、子どもが「老化」するのはちょっと心配です
まだ人生、始まったばかりなのに!
どうして子どもが「老化」みたいになってしまうのか、
やはり日々過ごす環境を親が見つめ直す必要があります
もし私が子どもだったら、
普通に、自由に、子どもっぽく、ただ好きだから、ただ興味があるから、やってみたい、試してみたい、と思っているのに、「こうしなさい」「ああしなさい」と言われ続けたら、そりゃあもう、自分の意志で動こうなんてしたくなくなるかな
だって親や先生が決めたことなんでしょ?自分で決めちゃダメなんでしょ?そりゃあ、めんどくさいわね
それとも、
自分の頭を動かさなくても、ただボーッとしているだけで適当に楽しめる遊びとか覚えちゃったら、もうそれ以上、自分の体や頭を使って楽しめなくても別にいっかな、って思うかな
外遊びみたいに暑かったり寒かったりしないし汚れない、ただ座っていれば適当に刺激的に楽しめちゃったりする遊び道具があれば、外に行く必要なんかないよね
自分の体や心を動かすこともめんどくさくなるかも
ところで、
学校で「指定席ノート」が使われている場合、我が子にそういうものを使ってほしくない!!という気持ちになる方は、どうしたらいいか、ということなのですが…
どんぐりでは、家庭学習は家庭の判断で家庭の責任で行いますので、学校から出される課題は家庭の判断でどうにでもできるよう、担任の先生と春に交渉を済ませている前提があります
だから、ほとんど影響はありません
学校の授業で何をしていても、それは学校にいる間
よほどひどいことを(なんて言ったら学校の先生に失礼ですが)させられているのでなければ、
「学校ってそういうもの~」と子どもも割り切ります
我が家ではこれを「学校ごっこ」と呼びます
学校では、たくさんの子どもたち全員をまとめて指導するために、それに適した指導や教え方をしている、個人に向けてカスタマイズされた課題は出ない、個人に適した授業もしない、だから、カスタマイズするとしたら各家庭なんだ、ということを、子どもにわかる言葉で説明します
学校の先生も一生懸命、「全員」に教えやすいように、「全員」がまとまるように、どうしたらいいか工夫してくださっているんだ、だから、ちょっと合わないな、違うな、って思っても、それは、あなたのためにされていることや、言われていることではない、と思って大丈夫
あなたに必要なことは家でカスタマイズしてやっている(どんぐり問題だけ)から大丈夫
心配無用
学校では学校で、「学校ってこういうもの!」と思い切り楽しんじゃって!と
そう、「指定席ノート」も、
学校が、学校の先生が、「全員」を教えやすく、まとめやすくするために、教材会社さんと一緒に試行錯誤して生み出した代物
そもそも「全員」に、なんて無理なんだよ…って思っている先生方もたくさんいるんです
だから、先生や学校を批判せず、先生や学校のせいにせず、「我が家は家庭の責任で家庭学習はしています、先生のご負担、先生の責任には致しません」とにこやかに宣言してしまっていいんです
そうやって、そのことを、先生方に伝える人が多くなれば、先生方も「みんな一緒じゃなきゃダメだ」という意識と、「みんな一緒だなんて難しすぎる」という意識が、相反しているはずのそれらの矛盾が解消されるためにどうしたらいいか、考えてくださるはず
今は、その逆で、なにもかもを先生や学校のせいにする保護者が激増している、と現場の先生たちはよく話しています
それは今に始まったことではないけれど、私も何度も目に余る大人たちを目撃してきたけれど、結局は、残念ながら、家庭教育がうまくいっていない、ということに尽きるのです
うまくいっていない、というと語弊があるかな、
基本的には、上手とか、高度な、とか、そういうことじゃなくて、子どもを、人間らしく育てているかどうか、ということに尽きるのです
技じゃないのです
心なのです
上記した、丈夫な体と元気な心の基盤が6歳とか7歳までにばっちり育ったら…
という部分
その安定がないのに他のいろいろなことを足し算するのが優先される親たちの時代が到来して長いです
英語は2歳から…スイミングは1歳から…サッカー教室も野球教室も早いほうがいいから…
文字も早く書けるようにしないとついていけなくなるって…
みんなが持っているからゲームも買いましょう、話題についていけなくなるからテレビもあの映画も…
などなど…
ちょっと待って
その前に、そういうことを足し算する前に、
お子さんは、自分で自分のこと、どこまでできますか?
トイレを綺麗に使えますか?
汚しちゃったらどうしてますか?
正直に言えますか?
よその家で、公共の場でのふるまいはどうですか?
他人への言葉遣いはどうですか?
生き物や公共物、人のものを扱うときはどうですか?
他人に対してはどうですか?
そして、外であったことを、親に話しますか?
親との信頼関係は、どうですか?
困ったとき、失敗しちゃったとき、正直に打ち明けてくれますか?
小学校の先生たちが授業以外でどんなことをしているか、
1度聞いてみるとわかるかもしれません
各家庭でどこまで準備してから学校へ送り出せばいいのか
私の知る限り、「それ…小学校なの??」と耳を疑うようなことが日常茶飯事、という小学校の先生の信じられない余計な仕事があります
丈夫な体と元気な心の基盤が6歳とか7歳までにばっちり育っていたら、
大抵のことには動じないし、集団生活だって適当にやり過ごせちゃいます
集団生活が得意な子もいれば苦手な子もいる
でも、悩みながらも、もがきながらも、自分が集団で生きていく術を身につける強さと賢さを
本来の子どもたちは持っているんです
大人になるまでに、自分が人生を楽しめるポジションを迷いながらも探していきます
自分は集団生活は苦手なんで、と一匹狼を決め込んでいる人だって、生き生きと一匹狼をしている人は誰かとの関わりがあるはずです
信頼しあえる仲間が、少なくても必ずいるはずです
人間が本当に孤独で、誰も信じられず、信じてもらえないとどのような状態になるのか、ここ最近だけでも頻発している人間同士の事件を見れば考えさせられはしないでしょうか
集団生活なんかいつまでも続きません
好んで集団生活を選ぶ人は選ぶけど、選ばずに生きていく方法もあります
私だって、組織の一員としてこの仕事を続けることに限界を感じ、独立したのです
仕事上は、孤独な自営業で、一匹狼を気どって見えるかもしれないけど、
信頼できる人や、家族がいて、友人がいて、精神的に支えてもらっているのを日々感じながら、そういう人たちに感謝しながら生きています
何より、子どもたちと過ごす時間を提供してくださっている保護者さんたちの存在も、私にはとても大きいのです
話が逸れましたが
子どもの強さと賢さを、先手を打って失わせてしまうのは、
子どもを信じていない大人たちなんです
どんな時代が来ても、どんな環境になっても、
自分の人生を楽しめる人間に育てるために(育っていくために)
どんぐりは、あります
「教えやすいように」「まとめやすいように」どんなことをされても、どんな教材を使われても、
動じない強さと賢さを、身につけているどんぐりっこたちを、
私はたくさん知っているんです