昨日、お迎えに来た小学校1年生のお母さんから「学校で習った計算がわからないみたい」と言われました
車に子どもたちが乗っているから、ゆっくり話す間もなくて、どのくらい、どのようにわからないのか確認する間もなく、でも、私は言いました
「テスト0点でもいいから全部記録しておいて~(わからん帳を作っておいて)」
と
習ったのは2桁の引き算みたいです
方法はさくらんぼ計算みたいです
たとえば11-7だとすると、絵を描いて11個から7個とったら残りは4個、っていうのはわかるのに、計算方法がわからないみたいだ、と
「絵に描いてわかるならいいんだよ」と私は言いました
「1年生で大事なのは計算方法じゃなくて、数量感覚だから」と
それは、どんぐりをやっていたら自然に獲得していくこと
どんぐりを意識した親御さんが生活の中でも意識すれば自然に体験していくこと
昔の子が当たり前のように体験していたいろんなことがそのままじゃ体験できない今、
親御さんが意識することはとても大切なこと
そこを省いて、ただ、計算方法だけを習得しても、何にも考えず、計算だけならできるんだけどな…という子ができあがります
「全部で20個です」と書いてあるのに、答えに「50個」とか書いてしまう
なんで?って聞くと、「計算したらそうなったから」と平然と答える
小学生にして、中学レベルの計算問題は解けて、神童か!?と言われていたのに、中学生になっても低学年の教科書の文章題も作式できない
どんぐりをやってみたら0MXも解けない
もちろん、中学校でやっている方程式の文章題や関数、図形の証明などできるはずもない
いやいや、入試はどんぐりではないから
やっぱり計算力でしょ
そう思いたい気持ちもわかります
だって、計算力を高めるのは「簡単」なこと
はい、この方法でやりなさい、と教え、同じ方法で解けるまで練習を繰り返せばいい
意味がわかっていなくても、ここでこうしてここにこの数字を書く、という練習をひたすらさせればいい
教えるのも簡単だけど、解く方も実は簡単
(ええ、ええ、やってましたよ、やってましたとも、進学塾講師時代、最下位クラスに高校入試直前にね。だって、計算でしか点数を取れる可能性がない子たちがたくさんいるんですから。最後の手段、計算だけは全問正解できるようにするしかないんです。計算だけ全問正解しても、15点くらいですけどね…)
方法さえ覚えてしまえば、その通りするだけでどんどん○がもらえます
さくらんぼ計算だって覚えてしまえば頭を使わずどんどん正解が出るのです
でも、
そこに意味はあるのかな?って立ち止まって考えてみる……
(いや、かみしばいのかえるくん問題なんて、どう作式しましょうかね…それどころか、紙芝居のタイトルまで自分で決めて書いている。「かえるのたび」(読んでみた~い!)。そして、「下水道」と書かれた側溝の蓋を開けて楽しげに水遊びをするかえるくん。おうちはどこだっけ?と頭にはてなを浮かべるかえるくん。なんて素晴らしい作品なんだろう)
帰りがけに大急ぎで状況を伝えてくれたお母さんも「やっぱり!そうですよね!」と慌てて車に戻っていきました
まだきっと、不安が残っているでしょうに
急いで車に戻ってほしくて、雑な言葉で片付けちゃった気がして、申し訳なくてここに追記しています
そう、大事なのは方法じゃない
数の動きを理解しているということ
わかるということ
さくらんぼ計算や、その他、学校で教えてくれる「方法」は、先生方が検討し合って「よし、この教え方でいきましょう」と決めたものなんだと思います
この方法ならクラスの全員に教えてあげられる
全員が計算できるようになる
その年のクラスの面々や、それまでの習熟状況を重ね合わせ、検討し、採用する指導法!
と、確信して
…だったらいいな…という願いもこめつつ…
そうじゃなくて、「これをここで教えることになっているから」という理由だけで、一斉に教え、時間内に教え、そして、その通りできたかどうかチェックする
「毎年やってるから」「学年で統一して決まってるから」「指導案に書いてあるから」という理由だけで、ごり押ししてる…そんなんじゃないと思いたい
それにしても、
「学校で習ったらわからなくなった」という声がとても多いことは、学校の先生はどれだけご存じなのでしょうか
前述したように、教材研究をして、クラスの習熟度や特徴をつかんで、みんなにわかるように教えてくださっていると信じるならば、そんな感想を抱く子どもが多いことは先生にとってもつらいことなんじゃないかと思います
まさかさくらんぼ計算が指導案にあるとは思いたくありませんが、そのような「教え方の工夫」みたいな「教員の知恵」が経験者の先生から回ってきて、その方法を採用しなければならないとか、そういう風に決まっているのでしょうか
教科書通りに教えなければならない、という条件はわかりますが、たとえば小学校1年生に足し算や引き算を教える時、指を使ったり絵をかいたりおはじきを使ったりしてはいけないんでしょうか
高学年まで使えるからって計算方法を、1年生で習得させる意味はあると思うのでしょうか
そんなことをここに書いても、読んでくれる学校の先生はいらっしゃらないでしょうし、学校の先生に「職場や、文科省の命令に逆らってでも子どもたちの本物の思考力について考え直していただきたい!」なんて訴え、考えや方法を変えてもらうことなんて不可能です
じゃあ、どうしたらいいのか
それは、実は、元々、各家庭の役割なんです
各家庭が納得して堂々としていればいいだけのことなんです
学校の先生が教えることは、国が決めた学習指導要領に則ったもの、則った順番で決まっており、個々の子どもの理解力や習熟度に合わせなければいけない、というルールはありません
だから、「お家でできるようにしておいてください」などと平気で連絡帳に書かれるのです
「お家でできるように…って!?どうしたらいいの!?」って戸惑う親御さんもたくさんいます
先生と同じ教え方で?教科書通り?どう教わったの?と子どもに問い詰めて、説明できない子どもを叱ってしまう例も多々あります
どうして家庭にまで学校の授業を持ち込み、親が先生の役をしなければならないんでしょうか
でも、授業時間内で教えきれなかったり、できる子とできない子とが明確に分かれてしまった場合、先生は宿題で補い、「小学校内容なら親にも教えられるだろう」とでも思っているのか、家庭に丸投げするパターンが本当に多いです
先生そりゃないぜ、そりゃ先生の仕事じゃないんかい?って思うけど、先生だって必死です
だって、時間までにその単元を終わらせなきゃならないし、単元テストの成績だってある程度とらせなきゃならないし
クラスの仕上がり状況を昨年度と比較されたりなんかして、先生自身が評価されてしまうことだってあるのです
そんなわけで、これ以上先生を追い詰めて、先生の負担を増やすわけにはいきません
元々先生に、そこまでの義務はないんです
そのかわり、本当は、習熟度を評価したりする必要だってありませんけど
そして先生たちには、家庭がこういう意味で協力的なんだ、ってことを理解して承認してほしいけど
(なぜか、家庭采配をすることを嫌う先生もとても多い。たとえば宿題アレンジさえ承認されるまで大変なことになってしまう例も多い…そこまでして「全員一緒」じゃないとダメな理由はなんなんでしょうね)
先生は、教えることになっている「決まった方法」を教えているだけ
その「方法」ができるかできないかを「評価」しているだけ
そう家庭では思っていてください
だから、その決まった「方法」ができなくても、「なるほどね」くらいで大丈夫なんです
そんなことより、本質を理解しながら成長しているのか?ということを確認しながら進まないと、本来学び取るべきことにぽっかり穴が空いたまま、気づいた時には「考える」ことを放棄し、常に「楽な方法」を求める子になってしまっている、なんてこともよくあるので、目の前の「方法」にばかり気を取られてはいられません
「どっちが多いのか」「平等に分けよう」「3倍の高さはあるね」など、日常生活、日常会話に出てくる「数量感覚」は正常ですか?
…ここでまた「正常」なんて言葉を使うと、正しいかどうか、間違っていたら正すべきか、とか、そういう議論が生じそうなので説明しておきますが、「正常」とは「豊かに使えている」というような意味です
数量感覚の語彙力とでもいいましょうか
そういう豊かさはありますか?ということです
約束の時間や、誕生日までの日付を楽しみにカウントダウンしたりして数量感覚で遊んでいますか?
それは数字ブロックとか、計算するゲームとかの「遊び」ではなく、もっと自然な状態の遊びです
学校で習ったらわからなくなっちゃったよ、もよくある話ですが、
半面、学校でどう習おうと関係ない子たちもいます
学校に入る前からのナチュラルな数量感覚の獲得が圧倒的に減ってしまっている現代っ子たちにとって、やはり、自然の中でたくさん遊んだとか、ことば遊びや数遊びをたくさんしたとか、そういう経験が豊富な子は動じない強みを持っているな、と感じます
そういう経験が豊富かどうか、何が不足しているかは、私の場合、どんぐり問題を通してよーく見えています
経験がない場合、いくら上に積み上げても、いつか土台から崩れ落ちます
理解していないのに、方法だけ覚えて計算ばかりできる状態もこれに当たります
それは、積み木や建物の基礎と同じです
基礎、って、それじゃあ、言葉とか計算の基礎を徹底的にやらせればいいの?ってまだ勘違いなさる方もいらっしゃるかもしれませんが、学びの本当の基礎は、自由な遊びの中にあります
道具もない、人工的でもない、決まりもない遊びの中に、学びの基礎があります
それは、尽きることのない好奇心の源となり、
命じられなくても学ぶ意欲を保ち続ける子どもの原動力となり、
中学生になって「自主的に勉強せよ」と言われてから急に身につけようとしても到底手に入れることのできない、子どもの頃にしかつかめない力です
だから、基礎が大事、と、学校に上がる前から文字を練習させたり計算の基礎を教えたりしている暇はありません
そういうものが入ってくる前に、できるだけ多くの体験を重ねておく必要があるからです
私は、小学校に入ったらまずひらがなや数字を教わってしまうから、その前に、文字や数字を知る前にしか見えない世界を、1日でも長く、1時間でも長く、子どもに味わってほしい、と、保育園年長さんの後半になって、小学校入学が近づいてくるとそういう方向に焦っていたくらいです
まだまだ!まだまーだもっともっとこの世界で楽しんでいたい!!って
だから、小学校に入る前に文字や数字を教えておかないと、と周囲のほとんどの保護者たちが囁き合っているのと完全に逆方向を向いていました(笑)そりゃ、ママ友なんかできないわよね(笑)
その結果だかなんだかわかりませんが、私の子どもの場合は「学校で習ったからわからなくなっちゃった」と言ったことはほぼありません
「学校ではこう教えてもらったよ」「ふ~ん、なるほどね!」みたいな会話はよくありました
「どんぐりではこう解けるけど、学校の方法だとこういう風になるんだね」「そうなんだねえ!」みたいな会話もよくありました
それは、中高生になっても続きました
中高生になると、論理的思考が教科書の内容と確実にリンクしてくるのがわかります
中学数学で「これってどんぐりでやったよね」と気づかれたこともあるし、
国語や英語の長文読解などにもかなり影響しているのがわかります
練習したことなどないし、教えたこともないのに
教科書を超えた理解を見せることも多々あります
基本、教わることと、自分で考えることとは別、という次元を持っているように見えます
(3分で一周する時計って!?しかも30度進むと饅頭2個食べるってルール!?もう~結構大変だったんだよ~と愚痴りながらも顔は笑顔、っていう…逞しい限りですわ…)
誰がどう教えたらこういう解き方をするっていうんでしょう
私たち大人に、子どもを「教える」なんてできるんでしょうか
子どもは私たちの「教えた」ことだけを頼りに生きていくんでしょうか
いわゆる「教える」仕事を30年近くやってきた私でさえ「子どもに教えてます」って言うの恥ずかしいくらいです
(簡単に仕事を説明するときには言ってしまいますけど)
子どもは、そんなもんじゃありません
誰かに教わったことなんかに動じるように育てないことです
でも、「わからない」「できない」は財産になります
だから、わからん帳に記録しておきます
そして、子どもが「わからないことをわかるようになりたい」と自分から思うような環境を整えることが身近にいる大人の役割です
その役割を、本当は先生も担っているはずだけど、個別に完璧に見守ってあげられるのは親だけです
「わからない」からとわかるまで徹底的に教えたり、「わかる」ことを評価したりし続けると、
子どもは逃げていきます
なぜ?
わかるようになったら嬉しいはずなのに…
そう、問題は原動力です
親が「わからせたい」から教えるのか、
子どもが自分から「わかりたい」から親が教えるのか、
そこには大きな違いがあります
来週はデンタくんを紹介しよう、って思いました
ククの始まる2年生には三角視算表
単位換算にはキハダマグロをね
※どんぐりを勉強している保護者の方なら全部家庭で実践済みですね
「さくらんぼ計算」「どんぐり」で検索してみてください
たくさんの方が説明を書いてくださっています
糸山先生
ゼロイチの朝子先生
埼玉にこまるの平松先生
勝手にリンクを貼らせていただきました
ぜひ、みなさん読んでみてください
どんぐり学舎オンライン座談会
おしゃべりしませんか?