DKRのDONGLISH教材用のオリジナルスタンプ
DONGLISH訳ができたらD訳スタンプ
方言訳(自然な和訳)ができたら方言訳スタンプを押します

●忘れ物をしてはいけない
●忘れ物をしても友達に借りてはいけない
●先生が決めた課題の範囲を期限までに提出しなければいけない
●配布物を受けとるときは「ありがとうございます」と言わなければいけない
●自分の教室以外の教室へ立ち入ってはいけない
●職員室へ立ち入ってはいけない
●ベランダへ出てはいけない
●授業中は制服着用
●掃除の時は体操着に着替える
●季節によって決められた制服の種類を着用しなければいけない
●先生が話しているときは発言してはいけない

そんな規則…ないです!!
って思う学校の先生もいるし、
そう、その通りです、そう決まってます!
と思う先生もいらっしゃることでしょう

子どもたちは、中学生になるまでのべ6人の担任の先生に出会い、
いつの間にか、上記のような(制服については中学生からだけど)暗黙のルールを遵守するように育っていきます

その時、その時の担任の先生がいちいちそう教えたわけではないのでしょうけれど、しっかりと決まりを守らされた経験のある子どもたちが率先して遵守することで、段々と浸透していくのでしょう
私の娘の小学校低学年時代の担任教師は、子どもたちに、自分の発言に対する反応の仕方まで指定して強制していました
「動き」と「言葉」が決まっているのです
一斉に揃って反応しないといけないのですが、少しでも遅れると立たされたり、叱られたりしていました

そんな極端な指導をする方はそう多くはないと信じたいですが、それでも、子どもがぼそっと打ち明ける学校の様子や、校則や、暗黙のルールについてよく考えてみると、「それって、どんな理由があって…?」「なんの意味があるの?」ということも少なくありません

娘の中学校では一時期、髪を留める「ピン留め」が禁止されていました
伸ばしかけの前髪や、後れ毛を留めるためにピン留めを使いたい子も多く、子ども自身が先生に尋ねてみたこともあるし、私も雑談に紛れて質問してみたこともありました
私が質問した先生は皆「なぜそういう決まりがあるのか、わかりません…」と困った顔をしていました
「でも、決まりなので…」と
半笑いで雑談を続けると「前の赴任校ではそんな決まりはなかったので…」と苦笑するのです
実際、私の教室には様々な種類の中学校の生徒が来ていますが、校則も、暗黙のルールも実に様々で、お互いに打ち明け合うと「なんでこんなに違うの!」とびっくりし合っています
また、
夏の間の水分補給として水筒を持参してもよい、と決まりが現在ではありますが、以前は「持ってきてはいけない」という決まりがあった中学がありました
小学校ではとっくに水筒を持っていく習慣があるのに、中学校ではなぜいけないんだろう、とその時もひっかかって、質問してみました
返ってきた答えは、「異物混入を防ぐため」……でした
異物混入とは…?
これ以上は書きますまい

とにかく、理由もわからないし、必要性も感じないのに、決まりだからそうする、というものの中で、生活習慣に関わること、人間関係に関わることは、いったん立ち止まって考えてみた方がいいんじゃないかな、と私はずっと思っています

そして、どんな決まりであっても、大人が子どもにそれを強いる場合には、子どもが納得できるように説明する義務があるんじゃないかな、とも思うのです

それが、子どもと大人との信頼関係にも影響するし、いつか大人になっていく子どもたちの心の根っこの部分に、大いに影響していると考えるからです

どんぐり学舎中学部D→K Roomに、ピカピカの新入生が入ってきました
学校や部活動が終わってからの集合になるので、どうしても夜間にはなってしまうのですが、「塾じゃない塾」「教えない塾」のDKRは、1週間に1度だけ集まって、それぞれが自宅で進めている独学の整理学習や、きっかけ作り、そして、仲間と励まし合うために必要な場所だと私は思っています

まあ、ほとんどが「元どんぐりっこ」で、長い子は年長さんからの付き合いです
小学生の頃は奔放で賑やかだったのに、中学部に上がると妙にしおらしくおとなしくなっちゃうから面白くて可愛いいったらありません

小学生の頃から気にはなっていましたが、私が何かプリント類などを配布すると、受けとるときにほとんどの子が「ありがとうございます」と1枚1枚につき、言うのです
それは、
誰もいないのに「いただきます」というような
食事のあとは歯磨きするような
そんな「習慣」になっているのかもしれませんが、
別に感謝されるようなことも何もしていないその瞬間にお礼を言われるのがむずむずして、帰宅した娘に聞いてみると「なんでか、そう言うことになっている」というのです
「小学生のときからね」と

だから私はDKR生に言いました
そのことをきっかけに、
こんな風に
これが、DKRだぞ、という存在意義が、むくむくとわかってきたので

プリントを受けとるとき、「ありがとうございます」って言うよね(うんうん)
なんでかなあ(????決まりだから…??)
いいよ、言わなくて(!!??)
ほんとにありがたいときだけ、言えばいいよ、言うべき時に(………)
あのね、DKはね、自分で考えて行動する練習をする場所だと思うんだよ
ここは学校じゃないの
だから、学校の決まりは持ち込まなくて大丈夫
さとちゃんは先生じゃなくて、さとちゃんでしかないの
学校では出歩いたり、寝転んだり、気分転換に教室を出たりしてはいけないかもしれないけど、ここでは自由です
くらも開けておきます
私は、でも、週に1日、みんなに会うまでに「きっかけ教材」を作っているの
学校ではしないことを敢えて、ここでするために
たとえば英語ならDONGLISH
数学なら論理(っていう、DKオリジナルのプリント教材を作ってます)
国語なら、高校入試で出題された漢字や文章読解問題に出てくる難しい言葉に目を通すための語彙力強化プリント
それは、入試直前になって急につけられる力じゃないから、1年生の最初から少しずつ渡していく
だから、渡されたらここに来たときにやってみてほしい
他は、基本的には、自分にとって必要なことを必要なだけ、家での勉強と同じようにやっていいんだ
やっぱり、私が「これをきっかけにしてくれるといいな」っていう教材を用意しているし、教室には自由に使っていい教材や参考書や辞書がたくさんあるけど、どれをどうするかは自分で決めるんだ
全員で同じことをね、たとえば私が「はい、今日はここをやりますよ」と指定してね、例題で解き方を教えたりなんかしてね、「じゃあ、今から練習してください、はじめ!」なんていってね、一斉に類題を解いてもらって、添削する、なんていう塾の形式もあるし、私、実際、そういう進学塾で働いていたことがあるんだよね
(例題を解説してから類題を解くと誰だって「わかった」気になってしまうからくり)
レベルの高いクラスでは課題や授業日、授業時間がどんどん増えて、先生の指示に従う子は知らないうちに成績も伸びてくる、つまり、点数が取れるようになってくる
それで、目覚めて、そうか、こうすればいいんだ、と自分で伸び続ける子ももちろんいるんだけど、そうならない子の方が圧倒的に多かったんだ
点数は取れるようになってくるけど疲れ切ってしまっていたりね、また、自分さえよければいい、っていう、人間性にゆがみが出てくるようなケースも少なくなかったんだ
中には、追い込まれて、追い込まれて、心身に支障を来すような子にも出会ってしまった
目覚めて、気づいて、自分で伸びていく子は、進学塾に入っていてもいなくても、そういう子っているんだけど、自分で自分を鍛えることができる子なんだよね
結局、誰かに指示されたことだけで、伸びているわけじゃないんだ
自分で決めたことを自分に課して実践しているから、それは、つらくないんだよ
目標だってひとりひとり違う
世間一般で「いい学校だ」と言われている学校が、みんなの全員にとって「いい学校だ」なんてこともないんだ
どんな道を選び、生きていくのかは、自分自身で決めていいんだ
そのために、親御さんや、私は、サポートをすることしかできないの
先に走っていって、さあ、こっちだよ、って道を決めることはできないんだ
また、そんなことをされても、みんなが幸せになれるとは限らない
むしろ、そのあと、ひとりで生きていかなくちゃならないとき、とても苦しい人生になってしまう可能性があるんだ

話が大きくなってしまったけど、
ここは、
そのための練習をする部屋なんだと思う
決まりだから言わなきゃいけないとか、しなきゃいけない、ってことはなくて、
自分自身で考えて行動する、そして、仲間と相談していい場所
得意・不得意はそれぞれ違ってるけど、私の知る限り、この中に、誰かの不得意を馬鹿にしたり笑ったりするような子はひとりもいない
だから、わからないこと、できないことを恥ずかしがったり隠したりする必要もない
実は、それが一番の「伸びない原因」だってこともわかってる
少なくとも私には、わからないこと、できないことを恥じないで
Qノート(わからん帳)も上手く活用して
自分がどうなりたいのか、
自分が得意なこと、不得意なことはなんなのか、
自分が好きなこと、好きじゃないことはなんなのか

そして、私がいるこの部屋に来ることに決めたみんなのために、
私は私の知る限りの可能性を、みんなの前にばらまくから
何を拾い集めるかはそれぞれ自分で決めればいい
私はみんなの点数や成績に一喜一憂したりしない
みんなが自分で考えているかどうかを、見ようと思う
困った時は、助けられるようにあらゆる手段を用意しておこうと思う
どんぐり時代と一緒だね

以上です

心も、体も、固くなっていると動き出せません
子どもたちはいつも、大人の都合で、大人が思いもよらないほどの程度に、
結構、凝り固まっている印象です
最近ではマスクや消毒の徹底、黙食の徹底、行事の減少等もあって、
子どもたちの自由さ、奔放さがどんどん抑圧されています

プリントを受けとって「ありがとうございます」と小声で必ず言う子どもたちを、学校の先生はなんとも思わないでしょう
むしろ、礼儀正しく、ちゃんとしている、と印象が良いでしょうし、決まりを守る子は扱いやすく、管理教育には歓迎すべき子どもたちなのでしょう

でも、子どもたちの人生のその短く、でも、濃厚で重要な学校生活の中で、彼らの人格形成に影響するような対処を、私たち大人はどこまでする資格を持っているのでしょうか

私にはそんな資格はない、と自分で自分に対しては思います
理由のないルールで子どもを縛る気持ちには、一度もなったことはありません

結局、DKRもどんぐりと同じなんだ、とまた子どもたちから教わったわけです
何も考えず反射的に「ありがとうございます」を言わされる子どもたち
それが悪い行為ではないため、大人も気づきにくいのですが、速さと距離の問題で、問題文をさっと見て反射的に「み・は・じ」の円マークを描くのと、なんら変わりはないと思うのです

それは悪いことではない
でも、思慮深い行為ではない
心のこもったものでもない
深い思考を伴うこともない
そう、何も考えず反射的に

それが、子どもの大切な子ども時代にどれだけ、必要なことなんでしょうか

私たち大人はやっぱりここも、真剣に考え直すべきところです