1mx07
目的地まで40分かかるが、1:10には到着したい
何時に出発したらいい?という問題
この子は、40分を10分4つに分けて(10分 10分 10分 10分と、書いてあります)考えました
1:10のうち、端数の10分を最初のハム太郎の位置まで進めて1:00
そこで最初の「10分」にバツをつけています
残りの30分まだかかるから、1:00から30分前だから、出発時刻は12:30
薄く、オトナっぽい字は私がこの子の説明を聞きながらメモしたものです
私から説明を頼むことはなく、本人が説明したくてうずうずしていたらしてもらっています
私が興味深く作品を見ていると、大抵の子は、うずうず、説明したがります(笑)
時計の絵や、どうやって時間を見ていたのか、そこまでは描けておらず、もう少し描いてくれたらなあ、とは思いましたが、おそらくこの子の頭の中には時計が思い浮かんでおり、しかも、1:10のうち10分を取り除けばそのあと考えやすくなることや、40分を4つに分けて10分を4つにした方が考えやすくなることを思いついているのだと思います


同様に、今度は80分かかる、という問題
この子は道のりを絵図にして、10分ごとに刻んで時刻を遡っています
これは一目瞭然ですし、全て描いたところで全体を見ると、時間が左から右へ進んでいるのもわかります
写真を撮っていたらピースサインでアピール(笑)
1mx86
1時間で3歩しか進めないユックリミミズが6cm離れた公園にピクニックに行きますが、しかもその3歩で2mmだっていうややこしい問題です
情報や条件が最初から揃って書かれていないのもどんぐり問題の仕掛けです
最初から文末まで読まず、文頭から順に絵にしていくのがどんぐり問題のルールです
大人ならあっさりと、歩数と距離から考えてサクッと解答できるのでしょうけれど、どんぐりはそういう思考のために作られていないのです
しかも「何歩で、何時間かかるでしょう」と二つの答えを求めています
でも、これも全部見えるように描いて、なんてことなく答えているこの子です
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やはりムーリー君が目的地に向かって進むのですが、この問題は時間の刻みがややこしいです
長いこと、積み重ね算で大人が見たら面倒で、ミスを招きそう…っていう非効率な解き方を続けてきたこの子ですが、最近、自ら工夫して「応用」するようになってきています
この日びっくりしたのは、やはりいつもの「積み重ね」で、11:59:28に出発後、52分30秒かかる、というところまでわかってからの「時間計算」でした
「まずね、28秒に30秒足したら、58秒だった。それで、59分に52分を足したら、111分になっちゃったから、そのうちの60分は1時間に直して11時に足した。残っているのは51分だから、それで、12時51分58秒ってなった。」と
私も小学生の時、「あと何分かなあ」とか「いまから○時間△分後って何時何分かなあ」とか、時刻表を見るのも好きだったので、そういうことを考えることがよくあり、普通の計算なら計算機でできるのに、時間計算ができる計算機はないのかなあ、なんて思いながらも、自分でこの子と同じような「繰り上がり」「繰り下がり」ができる時間計算の筆算を思いついて使っていました
進学塾で教えていた頃も、どうしても時間計算がずれてしまう子に「私が小学生のとき、思いついた方法なんだけどね」ってこの方法を教えたものでした
でも、この子は誰にも教わらず、自分で思いついたのです
最近では、受験算数の問題集などに時間計算の筆算の問題なんかが含まれているので、ますます機械的に解き方を教わってから解く子が増えているんでしょうけれど、自分で思いついてこんな風に工夫して解けることの価値は大きいと思います
5mx08
1km200m離れた公園へ歓迎遠足に
朝の5時に出発して8時に途中地点で「まだ1/3しか歩いていないのか」とつぶやくのろ太
同じペースでいくと、公園に着くのは何時になる?という問題
1km200mを目に見えるように描くのは当然
「1/3地点」をその中に描きます
ぐにゃぐにゃした道だけど、よく見ると、1km200mを示す線は緑色で繋がっていて、1/3ずつに分けた線は色を変えてあらためて描いています
朝5時から8時まで歩いた線はピンク色の線です
「早く公園に行きたいな!」とつぶやいているのろ太
その後、オレンジの線の1/3部分も3時間、(ここで「もうげんかい」とか言ってるのろ太。がんばれ!)黄色の線も3時間かけて進み、ついに公園に到着するのですが、時計も3時間ずつ進めて、午後2時になってしまいました
公園に到着したみんなで四つ葉を見つけたり、すごいだろ!って自慢し合いながら鉄棒をしたり、たぶんサッカーをしたりしています
黒いかたまりはキーパーの後ろ姿なんじゃないかな
時間の経過も見える
公園が楽しみなのにのろのろなのも見える
やっと到着して公園で楽しんでいるのも見える
素敵な作品です

どんぐり問題では指導者が解き方を教えたり、ヒントを出したりすることはしません
大切なのはこのような問題と、真っ白で大きなノートを前にしたとき、素直に、前向きに取り組める状態であるかどうかです
子どもたちは学校で、一斉授業で、みんなそれぞれが違うスピードで生きているのに、みんなそれぞれ見ているものが違うのに「はい、始め!」って号令をかけられながら勉強をしています
同じ分量の計算問題を同じ時間内でやったり、文字を書いたり、文を書いたりしています
「勉強する」とはそういうことだ、とすっかり身について(身につけられて)しまって、まずは、「勉強する」とは「自分で考えてみる」ことでもあるんだよ、ということをはじめから伝え直さないとならない子があまりにも多いです
学校でなくても、早期教育の教室や教材でそういう感覚を身につけてしまった子も多いのです

学校での一斉指導は今に始まったことじゃないし、子どもたちをたくさん集めてひとりの先生が勉強を教える「学校」って、世界中大抵そんなもんだろうと思います
みんなで同じことをするのがいけないことだなんて私は思っていません
むしろ、ひとりひとりが好きなことを好きなようにやって自由に過ごす、っていう状態の方が、実は少し心配だったりします
それってみんなで集まる意味ある?って思ったりもします
人間、ひとりで生きていくことはできませんから
自分さえよければいい、他の人がどうであれ関係ない、という意識が、子どもの頃に身につくのは怖いなあ、と思っているのです

ただ、集団授業で「評価」することや、「競争」をさせることで、子どもたちは優越感や劣等感をそれぞれが抱くことになり、苦手意識を持つ子はどんどん勉強が嫌いになり、そういうことを防ぐために保護者の方は先手を打って塾で補強しようとしたりします
塾と学校が犬猿の仲だった時代から私は塾講師をしていますが、ある時から学校が塾に協力要請するようになり、いまでは昔から有名な通信教材の会社がすっかり学校のシステムに参入しているくらいです
「わかる」わけではないのに塾で「先取り」して「できる」子が、学校の授業で積極的に発言し、その子の発言を活用して授業を進めてしまう先生のクラスの子で先取りしていない子はちんぷんかんぷんのままです
そういう子たちの補助をしたことがありますが、授業中に先取りした子たちが主だった発言や積極的な態度を取っていることがその子たちには辛く、苦しいものです
どうして自分はできないんだろう、わからないんだろう、と、いくら助言しても自分への劣等感は強いです
だから、その保護者さんもきっと塾に入れようとするのでしょう
小学校では「計算が速い」子が優等生です
どんぐりの子は計算を速くするための練習をしていないので(計算を速くするのは練習すればある程度までは誰でも可能です)遅いわけです
先取り塾で教科書をすでに勉強した子と比較すると、学校で初めて新しい単元に出会うどんぐりの子は遅れをとっているように見えたりもします
「だからなに?」と、親自身も動じず、子ども自身も気にしない、ということは実はそんなに難しいことではないはずなのですが、最近では、「優等生」たちができない子たちを馬鹿にする風潮が強い(流行の「マウント」ってやつが子どもの世界にもはびこっていて)ため、傷つく子も少なくありません
いくら勉強ができても、他者を尊重しない、馬鹿にするような人間に育っている時点で子育て間違ってるでしょ、って思うけど、親御さんには気づくきっかけもないまま子どもは表面的な評価を得るために努力させられていきます
中学校の授業を何度か見学しましたが、授業中に生徒が「それは塾で習った」と発言したり、先生もその発言に押されて「まあ、これはこういうことなんだけど、たぶん、もう塾で習ったよね」なんて言ってしまっているのも何度も見ました
全員が塾に通っている訳ではないし、塾によっても教え方や進み方は違うでしょうに…
そんなわけで、
当たり前に誰もが「学ぼう」と集まり、「先生、教えて!」って雰囲気だったはずの学校が、「優劣」「評価」「競争」といったイメージなしでは語れない場になってしまったのでした
貧しい国に学校を作ろう、と奮闘する起業家の方の講演を聞いたり、日本に学校というものができた歴史などを紐解いたりしてみると、学校ってそもそも、子どもたちが集まり、学ぶことができる喜びの場であったはずなのに、と悲しくなります

誰が学校をそんな場所にしてしまったんでしょうか
私ではない
と、誰もが思っていることでしょう
学校が悪い
家庭が悪い
また堂堂巡りが始まりそうです

でも、どんぐりの世界では……
子どもたちはこんな風に、自分の思考で問題を解いています
誰に教わったわけでもなく、自分で工夫すること、失敗すること、応用することが自分のタイミングで許されていて、伸び伸びと思考力を伸ばしています
理想としては、後から学校で、こういった思考を整理するための知識を教わることができたら、という風に思っています
学校で教わる内容や教科書が無駄で、無意味だなどと私は思っていません
ちゃんと両立してこそ、学びは深まり、その子自身の思考力は意味を持つのです
だから、既存の学校以外で学ぶ子どもたちにも、学校で学ぶ内容は知っておいてほしい、といつも相談を受けると話しています

学校で解法や公式を教わると、どんぐりっこの中には、
それまでまどろっこしく非効率的な方法で時間をかけて解いた経験から、
「なんだ!そんなに簡単に解けるんだ!?」「なんて便利なんだろう!」と感激する子もいます
足し算しか知らなかった子がかけ算を知ったときにまずそれが起こります
私の体感では、中学校1年生で一次方程式を学ぶ直前までどんぐり的思考での体験は全て意味を持ち、一次方程式を学びながらそれまでのどんぐり思考が数学的、論理的思考につながっていくという風に見えています

年長さんや1年生からどんぐりを解いていて、その前に「評価」「優劣」「競争」の経験がない子であれば容易に、どんぐりの世界で自由に思考することの楽しさを味わうことができます
「評価」「優劣」「競争」のもと、優劣感や劣等感を味わってしまっていたとしても、いつからもリセットしてどんぐりの世界へ戻ってくる価値はあると思います

その時、リセットが必要なのは子どもの方ではなく、
親御さんの方であることがほとんどであることも、最後に述べておきます
だって実は、「評価」「優劣」を気にして「競争」に知らずに、または意図して足を踏み入れてしまっているのは、親御さん自身だからです

親御さんがそこから解放され、子どもがゆっくりと自分で獲得していくのを待てるようになったら、間違いなく子どもは賢く育ちます
慌てる必要など何もないのです

親御さんが焦って、熱心に何かを身につけさせようとすればするほど、
子どもの内容は逆方向へ向かっていきます
自分の進みたいスピード、進みたい方向と違うことを、子どもは無意識に察知するのです

こんな風に「時間を目に見えるように自分で工夫して描いて考える」ということを許され、守られる子どもたちが、どれだけ幸運な状態にあるか、こんな風にどんぐり問題と向き合える環境で育っている子どもたちのなんと幸せなことか、私は毎日感動しているのです

気づいたら動き出せばいい
気づいたらリセットすればいいんです
時間を、ゆっくり描き起こせる子どもの状態が戻ってくるように