フンコロガシ組はきれい好きで、ウンコロガシ組はきれい好きではないのだそうだ(笑)

何年も、書きかけてはやめていたテーマで、もしかしたら一度くらい、アップロードしたんだっけな、と調べてみようかとも思ったのですが、重複してもまあいいか、とまたひとり言のように書き始めて今度こそ最後まで書いてみよう、と思っている本日です

私は、子育てに悩むたくさんの親御さんと話したり、子ども本人をお預かりして一緒に遊んだり勉強したりしながら、その子の抱える問題点を保護者さんと共有して、家庭でできることはなにか、今後、子どもがいずれ大人になり、幸せに生きていくためにいま何が必要で、何が必要でないか、と一緒に考える仕事を30年近く続けてきました

多くの問題は、きっかけとなる出来事や生活習慣に気づかないまま、かなり時間が経過してから露呈するもので、子どもに異変が生じたり、このままでいいのか、と保護者さんが自問自答を始める頃には、結構複雑な状態になっていることが少なくありません

わかりやすく例を挙げるならば、かなり多くを占める、中学生になってからの学業成績への悩みに関して、我が子と10年以上一緒に暮らしてからの中学生生活ですから、ある程度子どもの特性はわかっているでしょうに、中学生になって急に「勉強に集中していないようだ」「教科書や問題文を丁寧に読まないからミスが多いようだ」「スマホやタブレットに没頭してしまうようだ」などという悩みが出てきた時点では、「その傾向は今に始まったことではないのでは?」と私には思えるのです

子どもの特性を知っていれば、「まあ、こんなもんだろう」と苦笑しつつもその時点での我が子を認めることはできるでしょうに、と私には思えるのです
そんなに悩まず、もちろん子どもを責めたりもせず、無理矢理矯正したりすることもなく、その子が持ち合わせた特性と能力を活用できるような将来を一緒に前向きに探求するのも楽しいのではないか、と
そう、つまり、なぜ、大人はあとになって、ご自身の理想と違う、という現象面に対してそれを子どものせいにするのか、ということは私はここでずっと、ずーーっと問題提起し続けているのです

でも、いま、まさに子育て中の親御さんたちには、「じゃあ、私はどうしていたらいいの?」「どうしたら子どもの能力は最大限に伸びるの?」と生々しいけれど、そういったような疑問が、正直沸き起こってくると思います

あとで知っても遅い…
そういうことがあるのも事実
あとで相談されても「でも、あの頃さ…」と言わなければならない私も辛い
だったら、知っておくべきことを知っておけば、心構えは違うんじゃないか
また、大事な時期を過ぎてしまったかもしれない方にとっても、
いま、子どもを責めるのは違うんだ、と気づいてもらえるかもしれない、と思ってやっぱり書こうと思った次第です

結論として、子育ては、親子の毅然とした関係性の上で健全に成り立つ、と私は確信しています
子どもは、親の毅然とした態度を見て健全に育ちます
優しくしてもらったとか、怒られたとか怒られないとか、そういう細かいことではなく、
親が親としての責任を持って、自覚を持って、子どもの前を堂々と歩いていたら、
そして、子どもが親を好きだったら、
子どもはその背中から勝手に学び取るはずです
きっと、親のしていることが正しいに違いない、
親のしていることを真似したい、
同じようにしていたら間違いない、と自然に体得していくはずなんです
(もちろん、この逆のケースもあり、実際に私も目の当たりにしています
…それはとても、特に子どもにとっては辛いケースで、とても推奨できるものではありません)

長年いろんな親子を見てきて、
そんな毅然とした親子関係が構築されているケースを見ることは正直少なくなりました
仕事として関わった親子だけでなく、私生活で関わってきた家庭の中でも、
親子関係に悩み、苦しんで模索するケースや、子どもがだいぶ成長してからやっと問題行動に表したケースも何度も見てきました
私からすれば、「やっと出したか…」と思うのですが、親御さんにとってはショックでしかたないことでしょう
それに、取り返しのつかない行動にまで発展した場合、悔やんでも悔やみきれないことになる可能性もあります
それでも、子どもの年齢が上がれば上がるほど、親は自分の責任を忘れ、高い棚の上の鍵のついた引き出しにしまってしまったかのように、子どもに責任転嫁して突き放してしまうことさえあります
できれば一緒に暮らしている間に「出して」、衝突できるうちに衝突してしまえばいいのに、と思うくらいです

親となった私たちには、子どもが人間に育つ最初の道を伴走する任務があります
ある程度まで進むと、そこから親の走る幅はありません
いつまでもずっと伴走することはできないのです
子どもが自分の力で前に進み、生きていくことを、幸せな気持ちで見送れるように、いま、できることはなんでしょうか

ここから書くことは、「あなたに言っているんですよ」というようなことではありません
私が長年いろいろな親子に出会ってきて、傾向として知ってしまったことに過ぎず、全ての親子に当てはまる公式ではありません
こうしたら、こうなる、という公式にあてはまる子育て論などありません
どんな理論もケースバイケースです
だから、自分のことを指摘された、と傷つく前に、「そういう傾向があるんだな」と受けとめていただけると幸いです
そして、そんなことはない、我が家はそれでも毅然とした健全な親子関係を育めていますよ、ということであれば心配ありません
正直、とても、例外的だとは思いますが、心配ない状況であることに越したことはありません
それならよかった!と心から思います

子どもを「ちゃん」「くん」付け
これは私の周囲の教育者も口を揃えて言っている傾向のひとつです
子どもに気になる点がある場合、その親がその子をちゃん、くん付けしている傾向が強いということです
私もこの仕事を始めた30年近く前から、いいえ、もっと前から、「やばいかも…」という親子関係の条件のひとつにこのことがなっているなあ、と知っていました
我が子を抱えて親子で集ういろいろな場で、たとえば子育て支援の場とか、保育園の保護者会とか、小学校の保護者会とか…さすがに中学や高校ではなかったですが、そういった「おおやけ」の場でも「うちの○○ちゃんは…」と話し始める親御さんがいることに驚愕したことはあります
それはいくらなんでもないよ、という方は多いと思いますが、学校以外の場で、家庭内で、友達と、または親子だけで過ごすときも「ちゃんくん付け」している方は多い
です
ある若い親御さんたちのコミュニティでこの話題になったとき、「それは各家庭の自由」という前置きのあと、「ちゃん、くん付けしたいくらい可愛いんだもん」という意見がありました
でも、「可愛いからつける」ということ自体に、その後の子育てを困難にする要素が含まれている気がしてなりません
子どもは可愛いです
可愛がっているだけで子どもが育つならこんなに楽なことはありません
祖父母の皆さんがかわいがり担当を担っているのが羨ましいくらいです
子育ての頃にはあり得なかった対応を孫にはしていますものね(笑)

子どもはある時期、どんなに親が可愛がって育てていても、自我の芽生えでイヤイヤ期を迎えたり、思春期で無愛想になったりします
「ちゃんくん付け」して思い切り可愛がって育てていても、その時期も「可愛いわねっ」と目をハートにしてかわいがり続けることができるかというと、なかなかそうはできない親御さんが多いです
こんなに可愛がっているのに、なんで!?と自分の感情を逆なでされたような気持ちになり、目の前の子どもに腹が立ってしまう人もいます
そして、それまで「ちゃんくん付け」の可愛い呼び方で育てられた子どもの戸惑いも壮絶なものがあります
親は、必要な時には厳しく、しっかりとした態度で子どもに善悪や、ものごとの分別を教えなければなりません
それは、子どもが可愛くないからでも、子どもが悪い子だからでもなく、子どもが可愛くて、大切だからこそ、親にしか教えてやれないことをしっかりと必要な時期に教える必要があるからです
そんなとき、相手を「ちゃんくん付け」していたら、簡単に言うと緊張感が緩和されます
それが「よいことだ」とする意見もあるようですが、私にはそうは思えません
いろいろなケースを見ての体験でしかありませんが
まさか、普段は「ちゃんくん付け」で、厳しいことを言うときだけ呼び捨てにする、という使い分けをしているというケースもあるのでしょうか
それはある意味効果的なのでしょうか
私はやはり、そうとも思えないのです
とにかく、私の身近で、「ちゃんくん付け」が習慣となっている親子のケースで問題が生じてしまう例が多かったのは事実です
呼称は毅然とした親子関係の第一歩であり、その関係ができないまま子どもがある時期まで成長してしまうと、子どもが自分勝手に行動するときにも制止できないような関係性になってしまうのです

荷物を持ってあげる、の着脱を指示する
当たり前のように子どもの荷物を代わりに持ってあげたり、整えてあげたり、
「寒くなってきたからこれを着たら」「暑いでしょう、ほら」などと、子どもの衣類の調整を率先してやってあげる親御さんがとても多いです
そういう場面を見る度に、「ああ、子ども自身の持っているセンサーが壊れていく…」と心配になります
気温が変動する微妙な季節に親ができることは、着脱しやすいシンプルな衣服を準備しておくことだけです
いくら幼くても、下着1枚になるのははばかられる昨今です(私は見ても別に気にしませんが)
それなら小さな子どもの場合は下着として半袖のTシャツを着て、その上に長袖のトレーナーなどを着れば、長袖の着脱だけで温度調整は自分でできます
それ以上寒くなりそうならその上に着る上着を持っていれば充分です
川で遊ぶ時などは、海と違ってすぐに寒くなってしまうので私たち大人は川辺で焚き火をしているのが常ですが、子どもたちの多くは、ラッシュガードを着たままでは逆に寒いことを知っていて、暖まるときにはラッシュガードを脱いで乾いたタオルで身を包んで焚き火にあたっています
私自身は、よく日の当たる大きな岩に張りついていれば暖をとれるのを子どもの頃に年上の子を真似て知りました
何かしてあげる時は、子どものセンサーを壊すことになりはしないか、と一度立ち止まってみてください
何も、一切手出し口出しをするな、と伝えたいのではありません
手を出すのは、子どものヘルプが出てからでも遅くはありませんし、最初から親の指示で着替えてきた子はヘルプを出すタイミングさえわからないのです
大げさなようですが、これは、中学生、高校生になってからの親子関係にも大きく影響すると私は思っています
なんでも親が先走って手出し口出しをし続けた結果、どんな成人ができあがるか、冷静になって想像してみると、わかっていただけるかと思います

ある活動の時、お母さんが赤ちゃんをおくるみにくるんで必死の形相をしていました
どうしたのか近寄ってみると、一生懸命赤ちゃんの首の付け根に体温計を突っ込んで熱を測っていました
赤ちゃんの顔は真っ赤で、その時の陽気から明らかに「着せすぎ」「くるみすぎ」でしたから、「少し脱がせましょう」と声をかけましたが、「体温が少し高いので脱がせることはできません」と必死に答えるのです
本当に体調を崩して熱発しているのか、「着せすぎ」「くるみすぎ」で火照っているのかは、少し脱がせて様子を見ないとわからないのですが、そのお母さんはさらにぎゅうっと赤ちゃんをくるんでいました
体温計の数字を信じて疑わないのです
赤ちゃんはますます顔を真っ赤にしてぐずっていました

赤ちゃんの体調の異変には親が誰よりも気づく、と尊敬する小児科医の山田真先生が話していました
診察や検査結果に異常がなくても、お母さんが「でも、なにか変なんです」と言えば、山田先生は必ず親の察知能力を信じてさらに経過を慎重に見るようにしているのだそうです
でも、その話を聞いたのは20年近く前のこと…

体温計を信じる、なんてまだ可愛い方なのかもしれない…と、今や、ネット情報や口コミ、噂で我が子よりもデータや数値を信じて疑わない親御さんが増えていないか心配です
そんな風にして育てられた子が自分のセンサーも育てられぬまま、また、親になっていくのです

ケーキを最初に選ばせる
表題にもしてしまった、私の長年のテーマです
座談会などでは何度も例に出した事があります
「ひとりっこ親の座談会」の時にも主な話題となりました
みなさんは、来客からケーキやお菓子の詰め合わせをいただいた時など、
子どもに最初に選ばせていますか?
子どもより我先に、お気に入りのケーキを確保する!なんてケーキ好きの親御さんももしかしたらいるかもしれず、私としてはその方がずっと安心です(笑)
他にも、
よそのお宅に子どもとお邪魔して、お菓子を出されたとき
家族以外の方も同席する食事会で、取り分ける料理を振る舞われたとき
子どもに優先的に好きなものをとってあげていたり、子どもが手を出して好きなように食べるのを認めている親御さんは多いかと思います
こういう場でも、
毅然とした親子関係、そして、「人間」に成長し、他者と暮らしていくというこれから子どもが当然体験する様々なことの基本を教えるいいチャンスが訪れます
呼称と同じで、「可愛いから一番に選ばせる」「可愛いから何でも好きなものを食べさせる」というのは、その後の子育てを難しくする選択肢になります
一貫して、その子が大人になってもずっと、そういうことがどこででも許されるならそれはそれで構わないのかもしれません
一国の王様とか王女様とか、そんな暮らしなのかしら、と想像してみますが、おとぎ話では、そんな風に育った王様と、一般家庭の堅実で誠実な者とが出会い、王様の方がカルチャーショックを受けるような場面もよくあります
仏陀が悟りを開いたのも、王子様時代、恵まれた暮らしをしていた城壁の隙間から外の世界を垣間見てしまったあとでしたね

「なんでもいつでも優遇される」という経験を、子どもにさせない工夫が必要です
それがその後の子どものためになるからです
ケーキを買ってきてくださった方や、料理を振る舞ってくださる方、お菓子を出してくださる方は、子どもがいるとわかって用意してきてくださいますから、何より子どもに優先的に、と薦めてくださると思います
子どもが複数人いる場合は「子ども優先」であっても、競争相手がいます
子どもがひとりの場合は、大人が名乗り出ない限り競争相手はいない、不戦勝になります

あるひとりっこ家庭のお子さんが、いつでも周囲の小さな子に目を配る思いやりに溢れる素敵な子だったので、親御さんに取材したことがありました
長年、その子のいろいろな場面を目撃して、その子の本質にとても興味があったのです
その子の親御さんは、ひとりっこになる運命を背負って生まれたその子を、どうやって育てていくか、最初からしっかりと覚悟して考えたのだそうです
家の中で子どもひとり、親戚も遠く、子ども同士で育ち合う期待ができない
じゃあ、家を開放しよう、と、近所の子が寄り易い環境を整えました
絵本をたくさん揃え、低い本棚に並べ、リビングを開放しました
近所の子どもたちは自然とその家に寄りつくようになり、異年齢のいろいろな子に囲まれてその家の子は育っていきます
もちろん、外遊びも異年齢の中でたくさん経験させるよう努力しました
でも家族3人だけになると、どうしても子どもはひとりです
そこへ、頂き物の上等なお菓子やケーキが届いたら、どうしていたか
その親御さんは特にケーキ好きでもないけれど、子どもに一番に選ばせるようなことは絶対にしません
ジャンケンして取り合うのです
泣いて欲しがっても、頑として譲らなかったそうです
わざと、「思い通りにいかない」という環境をこしらえて、逞しく育てたのです
その他にもいろいろな工夫、いろいろな要素はあったかとは思いますが、そんな幼少期を過ごしたその子は、中高生になっても、成人してもとっても優しくて、賢くて、思いやりに溢れた素敵な子でした

ある3人兄弟の家庭の長男は、産まれてすぐに大病しました
ご両親はその子に全てを捧げて、治療に専念し、数年かかってすっかり健康体になりました
弟も2人生まれ、3人兄弟で賑やかに育ちましたが、長男はずっと、「自分が何よりも、誰よりも優先される」という意識を払拭できないまま成長してしまった、とある時期相談を受けました
ケーキ選びのようなケースがあれば、当たり前のように自分が一番にとるし、何個だってとります
弟たちの分がなくなっても気にしません
もちろん、親の分など残るはずもありません
ある時、母親が料理をしていると、作ったそばから長男がキッチンにきて、ひとりで全てできたてのおかずを平らげてしまい、晩ご飯のメインのおかずがなくなってしまったそうです
「どうしたら思いやりのある子になるでしょうか」
私は相談を受けましたが、その時点でその長男は高校生でした
そこからどう伝えれば、どう教えればその子は「思いやり」を手にすることができるのでしょうか
その時点で相談されても、私には何も答えられませんでした
大病したのはご両親にとってとても辛く、厳しく、悲しい日々だったとは思います
それを乗り越えて元気になった息子さんが、どれだけ奇跡で、どれだけ宝物だったか、計り知れないほど喜ばしいことなのも確かです
でも、きっと、大事な時期に、親が示すべきこと、教えてあげられることを教えられずに来てしまった、それで、その長男の「生き方の辞書」には「思いやり」がなくなってしまったんだと思います
それが、長男くんが家族に対してだけなのか、好きな人や、恋人ができれば変わっていくのか、変わっていったのか、その後のことは知りませんが、いずれ、家族を持ったとき、「大丈夫だろうか…」と心配にはなります
夫婦関係の相談を受けてもまた、相手の「生き方の辞書」にないことを求め悩んでいる人があまりにも多いからです

私の子どもが幼い頃、親戚のお宅でお菓子や料理を出されると、娘たちが母親である私の顔を見て確認をする癖がついていたので、よく「いちいち母親の顔を見なくていい!」などと親子して注意されることがありました
当時は、こんな習慣をつけてしまって私はひどいことをしているんだろうか、と悩んだりもしました
でも、逆に私が知人家族を招待して料理やお菓子を振る舞ったとき、子どもがどんどん手を出してガツガツと食べてしまう様子を親御さんがバツが悪そうに見ていて、注意しても止まらない様子とか、数が限られた料理やお菓子を独り占めしてしまう子どもを親が全然見ていないのとか、ぼーっとしている我が子が友達に全部分け前を取られてしまっているのとかを苦笑しながら見ていて、「周囲も気にせずどんどん手を出してガツガツ食べる子より、自分の分まで全部とられちゃってる方がまだいいね…」と夫と後で話したものでした
今では娘たちが私の顔を確認することはありませんが、当たり前ですがホストに、祖父母の家はもちろん、私たち両親との食事の席でも、「どうぞ、手を出して」と言われるまでは絶対に手を出しませんし、私が席につくまで食事を始めないのでいったん座って「いただきます」と一緒に言ってから家事に戻るくらいです
みんなで何かを分けましょう、となったときに一番に自分が取ろうとすることなどもありません
同じ年頃の子でも、そうしない子もたくさんいます
ちなみに、教室でアナログゲームをするときも、好きなコマを誰よりも先に奪い取るような子と、みんなが先に好きなのを取ってから残ったのを取る子といます
私は興味深くその様子を見ているだけですが、高学年の子ほど先に取らない、というわけでもありません
何年生になっても絶対に我先に、と取る子もいれば、最初から卒業までいつも「残りもの」を笑顔で手にする子もいます
そういう子をそばで見ていた下級生が、似たような子になっている例もあります
これは、生活習慣なんだと思います
ここではないどこかで体得した習慣に違いありません
親御さんに似ているか、というと親御さんは大人なのでそういう面はわからず、そうとも限らないし、
普段のきょうだい関係や、交友関係が影響しているのかもしれないなあ、と思えるケースもあります

成長すればみんな自然とその価値観で動くでしょ、と思ったら大間違いなんです
控えめすぎても生きづらいかもしれません
でも、周囲に思いやりが持てない子は周囲に愛されないと思うんです
それもまた、生きづらいと思うんです

親子関係の影響は、その子が大人になってもずっと続きます
親が教えずに誰が教えるんだ?というような、大人になったら誰も注意してくれない事柄もたくさんあります

ただ可愛がればいいのではなく、
親は、子どものセンサーをしっかりと磨き上げ、子どもが自分で考えて他者と共に生きる上で大切なことを自分で知るように仕向けてやる必要があります
可愛がることも、全部代わりにやってあげることも、子どもが小さいうちは簡単です
子どもは泣いたり怒ったりして親に不満を訴えるでしょう
でも、その不満センサーが違った方向を向いていたら?
なんで家では全て優遇されて思い通りになるのに、家の外ではそうしてもらえないの?という真意が含まれていたら?
子どもが、他者と生きる上で大切なことを知らず、ワガママ勝手に振る舞って自分に跳ね返った結果、傷ついて訴えてきたのだとしたら?

親子の毅然とした関係
それは、子どもにしっかりとした道しるべを示すことです
どっちでもいいよ、好きにしなさい、と言われることの恐怖と戸惑いは、私たち大人でも知っています
子どもにはもっとです
だからって「常にこうしなさい」と具体的指示を出すべき、と言っているのではありません
まずは大人が子どもの前を堂々と歩いていること
子どもがその背中を信じていること
そして、大事なことは最初からしっかりと教えること
その基盤があった上で、子どもが挑戦し、失敗し、自分で工夫する、周囲を見渡すことを待つことが大事なんです