内田樹先生著『複雑化の教育論』
第一講 複雑化の教育
教育において最優先すべき知的資質
この四半世紀の間に、日本人の知的水準は劇的に低下しました。知性の発現が制度的に抑圧されている。もちろん潜在的には知性は豊かにあるんです。でも、それを発動できないでいる。最大の理由は「話を簡単にする人が賢い人だ」というデタラメをいつの間にかみんなが信じ始めたからです。話を簡単にして、問題をシンプルな「真か偽か」「正義か邪悪か」「敵か味方か」に切り分けて、二項の片方を叩き潰したらすべての問題は解決する…というスキームをみんなが信じ始めた。すべてを二項対立スキームに流し込んで、一刀両断する「スマート」な知性が過大評価される一方で、世の中は複雑であるということを認めて、その複雑な絡み合いを一つ一つ根気よくほぐしてゆこうとする忍耐づよい知性には誰も見向きもしなくなった。みんなが「スマート」になろうと、「話を簡単にしよう」と必死に努力を重ねてきて、その結果、国民的スケールで知性の衰えを招いてしまいました。

はっきりさせておきたいのですが、話を簡単にするというのは知性の行使を止めるということです。変数を減らすということなんです。変数が増えると手に負えないから変数を減らす。「AかBかの二者択一」にしがみつく人たちは単に「私は演算能力が低い」と告白しているに過ぎないんです。
人間の知性は葛藤のうちで開発されます。「あちらが立てばこちらが立たず」という苦しい状況に耐えているうちに、ある時ふっと「あちらもこちらも立てる」思いがけないアイディアが出て来る。そういうアイディアは「AかBかどちらかを選べ」という二者択一に抗って、「そんな風に話を簡単にしたくない」という心理的抵抗を覚える人からしか出て来ない。それが「知恵を出す」ということなんです。
正解をあらかじめ知っている作問者がいて、二択の問題を提示して、答えを求めている…そういうスキームにみんななじみ切っている。たしかに学校の試験はそうです。でも、現実に僕たちが遭遇する問題のほとんどは、誰も正解を知らない問題です。だったら、自分自身を複雑なものに高めて、予測不能なことが起きても適切に対処できるように幅広く構えた方がいい。そういう困難な状況に耐えることを通じて初めて人間の知力は向上する。人が作った問題の正解を暗記してみても意味がない。
(中略)
本当に「使える知力」というのは、話を簡単にする能力のことじゃありません。そうではなくて、複数の仮説を並列処理できるだけの「頭の中のスペースの大きさ」のことです。「頭がいい」というよりは「頭が大きい」とか「頭が丈夫」というふうな形容が似つかわしい。これは養老孟司先生の言葉なんですけれど、ほんとうにそうだなと思います。大事なのは「頭がいい」ことじゃなくて「頭が大きい」ことだ、と。
これが教育においても最優先に開発すべき知的資質だと僕は思います、問いと答えを暗記しておいて、あらかじめ暗記した答えで問いに即答する能力は知的能力のうちのほんの一部に過ぎない。それもたしかにたいせつな能力ですけれど、知的能力のうちのごく一部に過ぎない。それよりもっと実践的に有用な知的能力があります。それが「未決状態に耐える能力」です。ペンディングに耐える。鷲田清一先生が「中腰」という言い方をしますね。中腰に耐える。「座るか立つかどっちかにしろ」というのに対して、「ちょっと待ってください。もう少し中腰でいさせてください」という構えです。中腰に耐えるためにはやっぱりそれなりの筋力が要る。でも、それは「強さ」というのとは違う。知的な肺活量みたいなものです。肺活量が多ければ、長い間、息を詰めていられる。即断しないで、じっくり状況を観察することができる。

この本の冒頭に近い部分からの引用ですが、つい先日養老先生の同じ言葉を読んだばかりで、まさに「頭のよさより頭の大きさ」ということを子どもたちや自分に対し感じていたところだったので、とても共感した部分でした。

「日本人の知的水準は劇的に低下した」の私が思う具体例は敢えて挙げずに話を進めますが、最近話題になる「倍速で映画を見る」「結末を先に見てからその映画を見るかどうか決める」「音楽は最初の15秒で印象深くない限りヒットしない」「前置きが長いと読み進めてもらえない」などということが、全て繋がっているように思えます

若いうちはいろいろな楽しいことを探したいし、猛スピードで駆け抜ける流行だって追いかけたい
だから最初の15秒でつかまれない限り、そんな音楽は要らないの!という主張もみずみずしいと言えばみずみずしい
若いうちはそんなカルチャーの楽しみ方もいいんじゃない?って
でも、
問題は、いくら「若い」ったっていつかは若くなくなる
自分1人で人生を謳歌する時代から、親になったり、先生になったりする人もいる
今や、産まれた時から身近に「スマート家電」が当たり前にあったという世代が、親になりつつある
倍速再生や、15秒音楽で慣れきった頭は、すでにじっくり考えること、自分の感性を信じることを忘れてしまっています
だから、冊子で配られても読まないし、長々と説明されても理解しない、つかみは15秒でって言われても、そう簡単にはいかないし、第一、あなたの意見はどうなんだい?と対話がしたくても、「わかんない」とにっこり
「みんなと同じでいい」とにっこり…
それで、
生後間もない赤ん坊にスマホを持たせる
動画を見せっぱなしにする
言葉を発するようになれば習い事を探す
みんなやってるからね
そのさき、その世代がどういう子育てをしていくのか、現在進行中です

先日、ある保育関係者から「サトちゃんのブログを読んでも理解できないと思う」と言われました
最近の親たちが、という意味です
大事なことを一生懸命伝えても、自分や、自分の子どものことだ、と真剣に受けとめる人が減っている、と
理解する力が不足しているようだ、と

そして「ブログが長すぎて、読み切れない」という苦情も届きます
もちろん、知人から冗談交じりで
普通、長すぎて読む気分になれなければ読まずにスルーでおしまいです
文句を言いながらも最後まで読んでくれる仲間に感謝しつつ、「長くてごめーん」と返事する私です

でもこれからますます、
話を簡単に
できれば短く
できれば15秒以内で理解できるように
ということが求められるとすれば、
私のブログなど誰も読んでくれなくなるでしょう
今でも何人くらいの人が読んでくれているのか、誰が読んでくれているのかなどわかりませんが、私は元々読者を増やしてお金儲けをする仕組みを作れていないので、いくら何時間かけて書いても収入にはなりませんから、これからもひとりごとをこうして書き続けるのみです
いつまで書き続けるかなんて決めていません

大人達が、スマートな伝え方じゃないと受けとめなくなると、子どもは必然的に同じようになっていきます
まどろっこしい説明を嫌い、深く考え、検討する作業を省き、わかりやすく、楽な方法を親が選んで生きていれば、子どもも自ずとそうなります
それなのに、
子どもが「面倒くさい」というので困ってます、
中学生になって自分で勉強しないので困ってます、
と悩んでいる親御さんたちがいます

子どもの問題を親と切り離すのはまだ早いです
一緒に暮らしている間は、大いに影響力を持っている親なのです

でも、知らないのなら知ってほしい
子育てっていうのはそういうものなんだよ、って
何か、素晴らしいことをしなくちゃならないとか、
高価な教材を用意しないと賢く育たないとか、
そんなことはありませんよって
今の時代、大人の生活にすっかり浸透してしまったいろいろなことを、
子どもが育つ間にどれだけ意識して防御できるか、そして、うまいこと取り入れられるか
親が意識するのはそれだけです

当たり前に子どもの身近にあるからって、
多くの人が当たり前に買い与えているからって、食べさせているからって、
それが正解であり、それが安全である保証はないんです

子どもを産む前に知りたかった…ともときどき言われます
私だってこれから子どもを育てるご両親と話したいです
私が何か正解を知っていて、偉そうに何かを教えてあげられるなんて思っていません
ただ、伝えたいだけなんです

頭の大きな子を育てるために、すべきことと、すべきでないことを
頭のいい子ではなく、頭の大きな子、頭の丈夫な子をです

よかれと思って子どものために準備したことや、
子どもに用意した環境が、
子どもの頭を狭く、単純化させていることがあります
頭が狭く、単純化した子どもたちは、目の前のちょっとしたトラブルを自ら乗り越えることができません
知恵と工夫を駆使することなく、すぐに助けを求め、すぐに周囲のせいにして騒ぎます
最近の親御さんはそんな子どもの様子をゆったりと構えて見守ることもできず、子どもに気を遣い、子どもの嫌がる状態からできるだけ早く抜け出させようと暗躍しているように見えます
親がそうしてくれることを知っているから、子どもは大げさに騒ぎます
そんなに騒がなくても、そんなに泣かなくても乗り越えられるのに、親が自分の態度によって動いてくれるのを知っているから騒ぐのです
自分の不安な気持ちや、恐怖を、必要以上に騒ぎ、泣き、取り乱すことで親が慌てふためくのを試すかのようです
それを証拠に、親御さんがおらず、私だけの時には知恵と工夫で乗り越えたりします
ぐっとこらえて頑張ったりします
そんな態度を見ると、「おぬし、できるのにわざとやらぬのだな…」と内心思うわけです
親が慌てふためき、対症療法をしようとするのを試すのは、親の愛情を確認しようとしているとも見えます
でも、なぜ確認するのかというと、不安を感じているからなんです
子どもは、いくら親がお金を掛けてくれても、手出し口出しして守ってくれていても、本当に自分を愛し、信じてくれて、自分を自立させるために本気で向き合ってくれているかどうかを本能的に察知しています
だから、試すような行動を起こすんですよ

学校の先生達も子どもたちの「単純化」に何役も買って出ています
授業中だけならまだしも、家に帰った後にまで全員同じことをするための宿題を出し続けている
当事者である子どもが納得しようがしまいが、規則を守らせることに必死
どうしてですか?なんて聞いた日には「反抗的」と日報に書かれるでしょう
以前、私の教室でかなり面白い発想を持った生徒がいました
教科書の解き方を見ても、もしかしてこういうのじゃダメ?と私に聞いてきます
私は「ありかも!ありかな?」と、一緒にできるかぎりあれこれ検証するのを楽しんでいました
答えが出ても出なくても、ふたりで(または教室の他の生徒を巻き込んで)あれこれ考えた時間は宝の時間でした
あるとき、プライベートでその生徒の担任の教師と知り合いになりました
共通の知人として何気なく生徒の名前を挙げてみたら、「あのどうしようもない反抗的な生徒」とものすごく嫌な顔をして吐き捨てました
その子と私との関係がどんなものなのかその教師は興味もなかったようで私も打ち明けずに済んでほっとしました
とにかく、名前を聞いて、思い出したくもないくらい「反抗的な生徒」でイヤだったようでした
私にとっては、教室史に残るほどの賢い生徒のひとりでした
学校の先生というのは、数十人の生徒を一気に指導しなければならないから、勝手な発言をされると困るんだろうなあ、という部分はわかりますが、自分の教えた通り倣わないと「反抗的」だなんてなんて独裁的なんだろう、と恐ろしくなりました
他、発言する際の最初の文言が決まっているクラス、
教師の呼びかけに対する返事の言葉と動きが決まっているクラス、
昭和か?と思うような給食の三角食べを強要されるクラス、
子どもを「単純化」する目的は「管理しやすいように」に外ならないのでしょうけれど、驚くべきは、その結果、子どもがどうなろうとあとは無関係、という現在の公教育の流れです

いま、そんなわけで学校不信も広まっていますし、実際、学校に行く選択をせず、オルタナティブ校を選ぶ家庭も増えています

でも、学校がどんなでも、どんな先生に当たろうと動じない「頭の大きさ」「頭の丈夫さ」を、就学前にこしらえてしまうことは可能です
私の身近には、そう育っている子どもたちが何人もいるのです

そう育てていないのに、そう育っていないと子どもを不満に思う、
そんな我が子を受け入れない学校や社会を不満に思う
そして、勉強させなくちゃ、という時期が来ると、
大金を払ってでも、また管理してもらう機関に依存するなど、
子どものわずかな人生経験で、いったいどれだけの「迷い」を親御さんは見せ続けるのでしょう

さて、また長くなりました
誰も読んでいないかもしれません

それでも私は伝え続けます
ひとりでも多くの子どもを、親御さん本人の手で、幸せに成長させてあげてほしいから
それは本当は誰にでもできることだから
そのための方法をどんぐりでは昔から説明しているし、
ちっとも難しいことではないから

いいえ、どんぐりは難しい…実践はちょっと無理…
何が難しいって、それは、わかっているんですよ
「親が楽をしたい」「親が難しいことをしたくない」が前面に出ているから難しいんですよね
子どもが見たがるから、仲間はずれにされないように、とテレビやゲームを自由にさせている御家庭も、最初のきっかけは「それらに夢中になってくれていると親が楽だから」の場合がほとんどです
それくらい、子どもと家でずっと過ごすのはしんどい、ということですよね

鳥羽先生の本にもありました
「子育てで手抜きをしたらあとでしっぺ返しは来る」と
それをわかっていて、「そういうもんさ」と覚悟して堂々となさっているならまだいいのですが、
それが繋がり繋がっていって、いずれ、自分の頭で考えられない子になっていたとき、中高生になって自ら学ぶことが全くできない子になっていたとき、親御さんが我が身をふり返ることはあまりないのです
だいたい、子どもが叱られています
なんでやらないの!!って
自分のことなのにどうして考えられないの!!って

そんなの悲劇でしょ
悲劇のヒロイン、ヒーローは誰でしょうか
それぞれの人生では自分が主人公ですが、
私たち親は、子どもといるとき、子どもの人生に関わるときは脇役に過ぎないのです

『複雑化の教育論』感想文は続きます