格付け機関化する学校の弊害
いま日本に不登校が20万人いると報道されています。この子たちの何割かは、進化しよう変化しようとしているのだけれど、学校に行くとそれができないということで立ち止まっているんじゃないかと思うんです。複雑化するという生物の自然過程が学校という人為的な制度によって阻まれている。学校に行くと生きる力が衰弱するということを直感するから、命を守るために学校に行かないということを選択した。そういう選択をした子どもたちって結構いると思うんですよね。だから、それを「脱落した」というふうに見てはいけないと思うんです。ノーマルな成熟のプロセスから脱落したんじゃなくて、むしろその子たちの方が生物として自然に生きているのかも知れない。
その20万人の不登校の子たちをどうやってくれから学校に戻すのか。(中略)それは学校が、子どもたちの成熟と、複雑化を支援する場であればいいと僕は思います。そのことを嫌う子どもはいないと思うんです。
でもいまの学校はそうではない。文科省はたぶんそんなことに何の興味も持っていない。文科省は国民の市民的成熟など全く望んでいないように見えます。むしろ幼児のままでいて欲しいとさえ思っている。いまの文科省が学校教育を通じて子どもたちに教え込もうとしているのは、上位者の言うことに絶対抗命しないイエスマンシップです。上位者に言われたことはすべてそのまま実行する。どれほど無意味なタスクであっても、「これに何の意味があるんですか?」というような問いを発しない無意味耐性を身につけること、これを文科省は最優先に、あらゆる領域で追求しています。
無意味なタスクを教員にも子どもたちにも命じて、それをすれば褒賞を与え、しないと処罰する。それを繰り返していると、国民は「この仕事にはどういう意味があるのか?」ということを問う習慣そのものを失います。ふつう「意味がない仕事」をしていると、だんだん生きる力が減殺してきますから、自分でもわかるはずなんです。「アラーム」が鳴るから。そんな仕事はもう止めろ、って。でも、その無意味なタスクをやらないと罰される。仕方がないから我慢してやる。それが続く。アラームが鳴り続ける。うるさいからスイッチをオフにする。そうやって、「無意味耐性が強い子ども」が作り上げられる。
タスクそのものは何でもいいんです。格付けのためのただのツールですから。無意味なタスクをどれくらい手際よくこなすかを査定している。「穴を掘って、掘り出した土でまたその穴を埋めなさい」というような無意味なタスクであっても、格付けツールとしては十分に使える。仕事を終えるまでの所要時間でも、掻き出した土の量でも、穴の深さでも、スコップの使い方の手際よさでも、何でも格付けに使おうと思えば使えます。その格付けに基づいて子どもたちに褒賞と処罰を与える。そして、それこそが社会的なフェアネスであると子どもたちに信じ込ませることが重要なんです。
学校教育が格付け機関であるということになると、学校の空気はますます忌まわしいものになります。格付けというのは、ゼロサムの競争だからです。自分の格付けが上がるということは、誰かの格付けが下がるということです。そして、自分の格付けを上げることよりも他人の格付けを下げることの方が簡単でかつ費用対効果がよい。そのことに子どもたちはすぐに気づきます。自分の学習能力は自分にしか関係しないけれど、学習妨害は自分以外の全員に影響を与えることができる。
最も効果的な学習妨害は自分たちがしている勉強は「ほんとうは意味がない」ということを周りの子どもに知らせることですね。みんな内心はそう思っているわけですから、これは説得力がある。「こんな勉強に何の意味があるんだよ」と言われて効果的な反論ができる子どもはいません。
学級崩壊というのは子どもたちを偏差値至上主義イデオロギーに染め上げたことの自明の結論なんです。集団全体の学習意欲が減退して、勉強しなくなると、わずかな学習努力で偏差値が跳ね上がるから。「最少の学習努力で最高の偏差値を得るためにはどうしたらよいか?」を問えば、「周りの人間の学習を妨害する」というのが「正解」なんです。子どもたちを同学齢集団内部で相対的な優劣を競わせていると、学習意欲が減退する。そんなの当たり前のことなんです。(引用終わり)【東洋館出版社 内田樹 『複雑化の教育論』】

幸い、私自身が父親からこのようなことをかなり前向きに、楽観的に説かれて成長しました
「教科書に書いてあることは真実か?」
「学校の先生が教えてくれることが全てか?」
「自分の頭でよく考えてみなさい」
どんな話題になっても必ずといっていいほど、このようなことを言われて育ちました
深刻ではなく、説教でもなく、ごく自然な流れでいつも、この結論に至りました
私は、つねに「それは本当か?」「これは自分の考えたことか?」と自問自答する子どもでした
でも、当時からそんなヤツは異端児でした
だから、
先生や友達を困らせたこともあったと思います
何も考えずただ従えばいい、ということに対する抵抗感から(わたしなりに)非行に走った時代もありました(笑)

子どもを授かり、家から一歩出ると、さあ、この子にどんな世界を見せてあげられるだろう、と小さな目に映る世界を想像しながら過ごしました
子どもが入園、入学の段階になれば、親と離れてどんな世界をその目に映して帰ってくるのかも重要な問題でした
でも、基本的には私が父から提起された問題と同じ問題を、常に我が子とも考えてきました
何を目に映してきても、「それが全てか?」と問うような思考へ導きました
子ども自身には抗うことができないことに幼いうちに対峙するようであれば、親として出るとこには出ていきました
初めての子どもを小学校に入学させたときは、我が子に関する心配は何もなく、それまで穏やかに健全に育っていたと思って油断しました
小学校1年生でわりとひどい目に遭い、私は、試行錯誤で猛勉強中だったどんぐりを本格的に学び取り、しっかりと実践に移さなくてはまずい、と気づきました
この環境の学校に通うことが、このような大人たちに日中の子どもの世界を任せることが、この先も続くのか、と覚悟せざるを得ないようなことが連発しました

学校の先生にも事情がありましょう
今ここを読めば確かに「格付け機関」に外ならない施設で、子どもたちと同様に、褒賞や処罰を気にしながら日々、上からの命令に従うしかない状況で子どもの前に立っている方がほとんどなんだと思います

じゃあ、しょうがないか、と我が子の育つ環境や、教育を諦めなければならないのか

「不登校を選択した子の方が自然」といろいろなところでいろいろな人が書いているのを読むと、一度も不登校になっていない我が子達は「不自然」なのか?とふと考え込んでしまいそうになります

確かに、親も子も、何の疑問も持たず、格付機関としての学校に平気で馴染んでいるケースも少なくありません
学校や教師に言われるがまま従い、不足していれば塾に通わせ、条件を満たしていない場合は子どもを叱咤してでもついていく
そして、できるだけ偏差値の高い学校に入れるのが最終目標となる

何度も何度も書いているので読み飽きているかもしれませんが、ある時の学級懇談会で、宿題の量を増やしてほしい、と頼んだ親や、計算ドリル専用ノート(自由度ゼロ)の導入に大変喜んでいた親、○○式絵画指導法で全員がそっくりな作品に仕上がっているのを「うちのこがこんなに上手に描けるなんて」と担任に全力で感謝の気持ちを伝えていた親…
いろいろな考え方の人がいるもんだ、とあっけにとられつつも勉強になるわあ…と思って見ていたものの、こういう家庭が増えていくことの危険性を感じていました

不登校を選ばず学校に馴染んでいるのはそういう子ばかりではありません

学校で理不尽なことがあっても、学習の場としての意味や価値を感じていなくても、そのダメージをあまり受けずに強く生き抜いている子達もいます

そして、そうしたいけど日々、我慢の連続で、我慢の限界に到達しそうなギリギリの状態でなんとか通っている子も少なくないはずです

だから「不登校を選択した子の方が自然」というのはわからないでもないけれど、「登校できている子は不自然」と一緒くたに片付けることはできないと私は知っています

私はこれまで、できるだけ学校批判をせず、その「なんとか頑張って登校している子」たちを支えようと思ってきました
我が子は私が毎日会って一緒に暮らせるので、本格実践は正直、長女の場合は途中からでしたが、次女は年長から、でも、長女が産まれたときからどんぐり理論は勉強していて、他の勉強法を選んだことはないので、ふたりとも学習に関する悩みは味わうことはなかったのですが、その他にも、学校がどうであれ、どんなことも楽しんでしまう、自分の栄養にしてしまう、という人間に育っているのではないかな、と思う場面をたくさん見せてもらってきました
だから、そう育てる方法はもちろん参考にしていただけるノウハウは持っているつもりです
でも、
ついにここまで来たか、という現状の学校について
内田先生が言葉にしてくださり、わかってはいたけれど、これは、もっと多くの親が、我が子を学校に所属させている親たちが、知っていないとまずいこと、知っているだけで違うこと、と、お知らせしたくなったのです

前述した、格付機関としての学校に馴染んでいる、と見える子達の中には、いじめ主犯格みたいな子が登場する確率も低くありません
親の前ではミッションに積極的に取り組み、先生からの評価も低くなく、習い事やスポーツ教室に忙しく通って、頑張り屋さんに見える子どもが、のんびり過ごしている子どもを特にターゲットにして陰湿ないじめをしているケースはよくあります

ただただ、格付を上げることだけに大人が夢中になって、肝心の中身を無視している、内田先生が書いていらっしゃるところの、「中身は幼児」状態が、家庭内でも放置されているのです

このままでいいの?
学校はこれでいいの?
敵対したいわけではありません
ただ、あまりにも、子どもが過ごす場として危険すぎる
労働条件や人間関係など、先生達が抱える問題の解決が先か、
毎日そこへ集まってくる子どもたちを守り育てることは後回しでいいのか

だからっていきなり銃口を向けて、人質を返せ!と言わんばかりの戦闘態勢につくべし、と言いたいのではありません

ただ、声を上げなければ伝わらない
知ることから始めないと、子どもは救われない、育たない
格付が上がっても、中身が幼児のままかもしれない
自分さえよければいい
周囲の格付が下がれば自分が上がる、と、当たり前のように思う人間にこのままなってもいいのか

先日、親御さんのひとりからお子さんの家庭での様子を聞きました
小学生時代、学校でかなりひどい目に遭った子です
中学生になり、学校の様子をよく話してくれるようで、
自分の小学校時代も忘れることはもちろんできていないでしょう、それを踏まえてか、
「先生に嫌われたら損なんだよね。だから、うまいことやってる」と
現状を愚痴りながらも、前向きに学校生活を楽しんでいることをよく話すのだそうです
こういうことがあったんだよ、こう思ったんだよ、でも、こうだよね、ああだよね
時間を忘れるほど、親子でいろんな話をしているようです
そして、最近では、自分の進路の話や、勉強について思っていることも、話しているようでした
とても逞しく、前向きで、小さなことも喜びに変える力を持っている、と感じるエピソードでした

普段、授業で定期的に会っている子で、ここ1年くらいでの成長はめざましく見てはいましたが、私は思わず、「どんぐりだねえ~」とつぶやきました
「どんぐりだとこう育つ、ってみんなに伝えたいよね」と親御さんと笑い合いました
そう、ここが到達点

どんな嫌なことがあっても、ささやかな幸せをその中で見つけられる
人生を楽しめる
自分で考えて、自分の力で切り抜ける
そして、信頼できる家族がいる
仲間がいる

私は常に思っているんです
これも何度も書いているけど、かつてスキーのコーチから不整地急斜面のてっぺんで言われた言葉「ここからはリカバリーの連続」
コブで失敗して跳ね飛ばされても、体勢を立て直し、次のコブに挑む、あの緊張感と面白さ
転倒しても逃げ場はなく、コブは続きます
整地緩斜面では味わえないスリルと、自分で滑り抜けたあとに感じる達成感
うまいか下手かなんて二の次で、とにかく、無事に滑り抜ける
下手なのになんだか楽しくて、ずっとコブ斜面ばかり探していた時期がありました

人生もリカバリーの連続です
親が整地してやってる子育てもあるけど、一生はし続けてあげられません
いつか不整地を踏ませなくちゃ
親元離れて急に、じゃ酷です
一緒にいる間だからさせてあげられる
だって、いつだって手が届くんだもの

本当なら、学校でもそんな生き方を教えてほしい、示してほしい
でも、
たぶん、
不可能に近いです
そんな大人がいないから
そんな手本が見せられないから

ここまで断言する必要がいつまでもなければいいと願ってきました
でも、
それはとても難しいです

まだ、格付機関としての学校に従わなければならないと思い込んでいる人がいたら、
それは違う、と伝えたい
知らずにいたら、子どもが健全に育たない可能性が高い、と伝えたい
そして先生達にも奮起してほしい
できれば
無理なら、どうか子どもの成熟を邪魔しないでほしい
くだらないルールで縛り、
意味のない指令を厳守させ、
学習意欲を低下させることばかり毎日毎日、しないでほしい

どんぐりで守れることも、
どんぐりで格付にも対応できることも、
今まで通り、伝えていきます

どうしてどんぐりなら守れるかって?
それは、この引用の最初を読めば一目瞭然です
子どもが、進化しよう変化しようという生物的な本能を、
満たすことができるからです
無意味耐性など育てず、
意味のあることに脳を使うことが当たり前の時間を優先的に過ごすからです
そっちの方が脳内で優先されるから、学校で「無意味なタスク」を課されても、脳が守られるのです
ただし、小学校時代はその「無意味なタスク」の主犯格である「宿題(お粗末三点セット)」から親が全力で距離をとらせるのが条件です
そして、遊びの質も厳選する必要があります
ほんのいっときだけです
子どもが大人になっていく過程の、最初のわずかな期間だけの話です
ずっと、永遠にストイックな家庭生活をしなくてはならないわけではないのです
親子の信頼関係も、子どもの脳の使い方も、一番大事な時期だけぎゅっと頑張れば、
あとで何もしなくても大丈夫になるのです
逆を言えば、一番大事な時期を逃してしまうと、やり直しが必要な時期が必ず訪れます
やり直しはできなくはないけれど、お互いにかなりの苦戦を強いられます
やり直しのお手伝いもしていますが、これから子育てする人にはやり直しが少なくて済むような助言をしたいと思っているのです

深くじっくり落ち着いて自分の頭で考えること
もう、すでに、それが「苦痛」になってしまっている子は、
「無意味耐性」ができあがりつつあるのかもしれません
「意味のあることに脳を使うこと」が
日常生活でも、遊びでも、すごく少なくなっている現代だからこそ、
どんぐりは敢えて選ぶべき学習法、生活方式だと確信しています