最近話題の対話型AI「ChatGPT」
企業や役所では積極的に導入しようと前向きに試用が始まっているようですが、教育現場ではどうなの?って問題提起に、いろんな立場の人が論じていてとても興味深いです
そして、想像できるんです
きっと、教育現場、学校や家庭でも「積極的に活用しよう」という声が高まるんだろうな、自然に使うようになっていくんだろうな、ということは予想しています
それは、
「2歳まではテレビ視聴を控えましょう」というポスターが小児科から消えたように、
「パソコンやタブレットを使わせるのには注意が必要です」と忠告していた学校が自らタブレットを配布して使わせるようになってしまったように、
きっとまた、私の考えていることと逆方向に向かっていくんだろうな、と想像できるからです
自分の子育て期、生徒たちの成長期、何度もそんな経験をしてきてちょっと慣れっこだし、動じなくなってきました
だって、自分さえしっかりしていれば巻き込まれて荒されることもないんだから

新しい技術や機械が悪いわけないじゃないか、
科学の進歩についていくのは当然じゃないか、
という積極的な方々の強い主張と、
子どもと大人の違いについて全く想像をしてくださらない方々の意見がまかり通る世界
そして、良いか悪いかじゃなくて、お金だったり利権だったりで「よいもの」が決まる国
そんなのもとっくにわかっているので、もう、最初から論点がずれている気がしていますが

すでにそう世論を導こうとしている気がする様々な「えらいひと」「影響力のある人」の意見の中、ちゃんと警鐘を鳴らしている国立情報学研究所教授の新井紀子先生の論じた新聞記事から一部引用して新井先生のご意見をご紹介します

楽するに決まっている でも、後戻りできない
AIは、文章の最初の何語かを与え、次がどうなるかを当てさせる、ということを繰り返しながら文章を学んでいます。意味を考えているわけではなく、正答率100%を目指しているわけでもない。いかに人間らしく文章を生成させるかが大事なんです。

だから、正しい知識がない子どもが使うと、その答えをうのみにする可能性があります。
では子どもにチャットGPTを使わせるべきではないのか。一概にそうとも言い切れません。今後、答えを聞いても正解を言わず、本人を励まし続けるような教育ソリューションを開発することも可能なはずです。つい子どもを叱ってしまう親に代わり、チャットGPTが相棒として寄り添うイメージです。
でも、私に10代の子どもがいたら使わせませんね。
子どもにチャットGPTを使わせることは、YouTubeを使わせるのと同じ感覚です。例えばYouTubeでスタンフォード大学の最先端の授業を見て「こうなんだ」と勉強する子もいれば、他の子がゲームをするのを見ているだけの子もいる。
YouTubeは可能性があるけど、多くの人にとっては可能性を奪う道具です。自分の子どもが使ってどちらの道に行くのか。「賭けをしますか」ということです。
私は、幼児のころは「サル」として育てるのが正しいと思っています。自分で暑さ寒さを感じるとか、こうすると転ぶんだなとか、昆虫が動く様子をずっと見て「動く」ということの統一的な原理を認識するとか。
そういうことを、無言のまま学ぶ時期があると思うのです。その時期が十分にないと、その後の発達が難しくなるように人間はできているのではないでしょうか。
チャットGPTをそのまま子どもに使わせたら、作文を書いてもらうとか、調べ物の学習の答えを書かせるとか、楽なことをするに決まっています。
〈中略〉
鉛筆を使う、線を引く…原始的な体験積んで

今後もますます、読解力が問われるようになるでしょう。例えて言えば、文章を読んだときに、読んだことが意味として立ち上がる感じです。テキストがテキストのままで終わっている人は、文章を縮めることができません。でも意味がわかっている人は、Aという方向からも書けるし、Bという方向からも書ける。事実を俯瞰的にとらえることができます。
だから我が子をチャットGPTを使いこなせる大人にするためには、小さい頃は「サル」として育てる必要があると思います。二次元の世界には、においも舌触りも手触りもありません。そもそも平面的なものを立体的にみようというのは無理があります。
鉛筆を使う。消しゴムを使う。物差しをしっかり押さえて線を引く。こうした原始的な体験を積むことが大事、というところに戻るのではないかと思います。

新井先生はAIは東大に合格できるのか、という「東ロボくん」プロジェクトを主導した先生です
『AI vs 教科書が読めない子どもたち』などの著書があり、私も読みました
最先端のAIを研究なさっている先生の意見はとても参考になりました


たくさんの子どもたちを見てきて、
また、問題を抱えている、と感じている多くの御家庭の相談に寄り添ってきて、
大切なことや欠かせないこと、
そして、子どもが健全に育つために必要なことは少なくとも私が教育業界に入ってから今までの30年間だけ見ても、「なにひとつ変わっていない」ということを確信しています
新井先生は「サル」として育てる、という言葉を使っていらっしゃるけど、私の考えも似たようなもので、「人間」として育てる、つまり、生物としての「人間」として、基本的な生き方を最初は学ぶ、ということが何より重要だと思っています
きっと新井先生は、「人間」として人と人との関わりなどを学びつむいでいく以前に、生物として、当たり前に身につくはずの危険回避能力や、察知する力、手や足で実際に力を使って作業する、道具を使うなどの動き、そういうものが一番最初は大事で、欠かせないんだ、とおっしゃっているんだと思います
「人間」に育てる前に「サル」としてだってどうなのか?確かに確認してみる意味はありそうです

落とした鉛筆を、親御さんが拾うまで身動きせず待っている子がいました
ほどけた靴紐を親御さんがしゃがんで結んでくれるのを足を差し出して待っている子がいました
暑いのに脱がず、寒いのに着ず、ぼーっと親が着脱してくれるのを待つ子もいました
1mmほどの小さな虫に悲鳴をあげて大騒ぎをする子がいました
まっすぐ進めばぶつかるのに、進路変更できない子がいました
自分のものを拾ってもらったのにアリガトウも言えなければにこりともできない子もいます
公共物を壊したり汚したりしても平然としている子もいます
目の前にあるものをみんなで分けるとき、我先に自分のほしいものを確保する子もたくさんいます

大丈夫かな?と思う場面はこれまで何度も目撃してきました
びっくりするのは親御さんがそういうことを助長しているかのように見えることでした

YouTubeを与えるのも同じことで、
新井先生がいうような危険性はまるで想像もせず、
みんなが見ているから、と安易に許し始めたのが子どもたちの没頭のきっかけになっています

いつも言うように、そのもの自体が有害なわけではありません
接触する時期、接触する時のその子の状態がとても重要だということなんです
お友だちが見ているから、と許しても、
同じものを見て、同じものに触れて、同じ反応をすることはありません
残虐な動画やゲームで本当に残虐なことを実現させたくなってしまう人がいるのと、
逆に絶対によくないことだと恐怖を覚える人がいるのでわかると思います
じゃあ、中学生になったら与えてもいいのか?と聞かれることもありますが、
そういう風に年齢で判断できることではないのです
人間の成長度合い、発達度合いには個人差があるし、それまで何を積み重ねてきたかで、影響を受けるものや受ける度合いが変わってくるのですから

新井先生の書いているように「賭けをしますか」と私もずっと問うてきました
それは、子どもとメディア研究所の清川輝基先生もずっと言っています
壮大な人体実験に我が子を差し出すのですか?と

なんなら私は、我が家の家庭生活や親としての夫と私の考え方、家庭内の環境などから、テレビや動画、ゲームなどを子育てに多少取り入れても「大丈夫」だっただろうな、と今は思います
そういうものを利用するならその代わりにどうすればいいのか知っていますし、自分たちが楽をするためにそういうものを使う、という考えは一切ないからです
一緒に楽しむとか、上手に活用するとか、また、子どもが自由に使うとしても、使う時間や場所などは絶対に守らせることができたし、そういうものを生活に取り入れたことでコミュニケーション能力がなくなったり、自然遊びや外遊び、そして勉強や読書を嫌がったり、どんぐりを解けなくなったりすることもなかったと思います
でも、
私は「賭け」はしませんでした
そんな「賭け」になんの魅力も感じなかったし、必要性も感じなかったからです

都会で子育てをしていた友人のひとりは、
生活環境から中学生でスマホを持たせました
「賭け」に「必要性」を感じた一例だと思います
でも、その「賭け」は決して無謀なものではありませんでした
スマホは自室に持ち込ませず、パスワードも親が知ることになっていました
LINEやメールなどの内容は親に見せられないことは書かない約束もしていて、
実際に見せてくれたそうですし、中学生の間はあなたに責任はとれないのだから、と厳しく言ってそれを子どもたちは理解していました
家の中ではリビングの指定の位置に家族全員のスマホを置いていて、21:00には電源を落としました
子どもたちはそれらの約束を守り続けました
余談ですが、この家の子はとても優秀で素晴らしい人間に育っています
スマホのルールを厳守させたからそう育ったのではありません
そういう家族のルールを守ることが当たり前の家庭で育ったからです

最近では田舎でも「危ないから」と早々にスマホを持たせる家庭も増えました
でも、ここまでの管理ができている家庭はどれだけあるでしょうか
こんなことを書けば「子どもの人権侵害」と反論なさる方もいらっしゃるでしょう
でも私はそうは思いません
やはりこれも「賭け」なのです
子どもが絶対に自分で判断して危険なことはしない、時間を浪費するような使い方もしない、と「信じる」ことに「賭ける」ということでしょうか
そんな賭けを子どもはどのように受けとめているのでしょうか
そんな「賭け」ができるほど、子どもは成熟して熟知しているのでしょうか

新井先生も書いているように、
可能性があるけど、多くの人にとっては可能性を奪う道具
チャットGPTも、YouTubeも、スマホそのものも、なんなら自動翻訳も、検索機能も、「使う人次第」と私はずっと思っています
何度も言いますが、そのもの自体が有害なのではなく、
使う人の脳力次第、ということなんです
大人でも、使いこなせず振り回されている人が多いのに、
子どもにどこまで期待しているのでしょうか


脳や心身の成長期を生きている子どもたちにとって、
「はじめのいっぽ」はとても大事だということ

この花はなんだろう
なんで海は水が動くんだろう
なんで空に星が光っているんだろう
なんで雨は降るんだろう
子どもを取り巻くセンスオブワンダーから始まり、
この気持ち、どうやって伝えよう
あの表情、なにを伝えたいんだろう
と、今度は周囲の人の言葉や表情に関心が向き始め、
自分が生きていく世界を知る
自分がともに生きていく人間を知っていく

そのとき、
機械は介在しないんです
介在しても何も助けにならないんです
自分の感覚を研ぎ澄ませる上で、機械は邪魔しかできないんです
でも、
もっともらしい返答をくれたら、今度は頼ることになっていきます
自分の感覚を研ぎ澄ませる必要はなく、機械で分析すればいいことに
だからLINEいじめやネット炎上が起こるんです
誰も面と向かっては議論できないのに

電源が落ちて、機械が壊れてしまったら
どうやって生きていくんでしょう
どうやって気持ちを伝えるんでしょう
どうやって仲良くなり、どうやって議論し、どうやって仲直りし、どうやって協力しあえばいいんでしょう
機械さえあればひとりでも生きていける、と本気で思っている人がいるようですが、
そんなことはないんです
そんなことあるんだ、と言い張っている大人に私は何も言うつもりはありません
でも、
子どもたちのこれからについては無視できない、放置できないんです

何事も最初が肝心
『精神科医の子育て論』(服部祥子著〉で
自閉症の子が誤飲するのを防ぐために、最初にした「いたずら」のあと、親が鬼のように叱りつける場面が出てきます
親は、誤飲でその子の身が「今後」危険に陥らないよう、命がけで絶対にそれはしてはいけない、という危険を伝えたかったのです
2回目では意味がないんです
最初にそこまでできるか、ということなんです
そこが、親の覚悟です

もし初動に失敗してしまったのなら、
やり直すしかありません
親子でなら、やり直せるんです
他人ではないから
他人では人間関係上の亀裂や、信頼関係の揺らぎを取り戻すのは至難の業
でも、親子だけは、できるんです

…それでも、
やり直せない年齢になってからでは親子でもそれは大変なこと

とにかく、
はじめのいっぽ、に機械は要らない
人工物は要らない
なんのためにこの目や耳や、手や足や、そして、脳があるんでしょうか
いくら精密な機械でも、人体に敵うものはないんです
もっと目の前の子どもを見て、聞いて、触って、感じとってみてください