頭の中は開いて覗いて見ることができないし、
覗いて見たところで何がどうなっているのか私にはわからないし、
脳の専門家が見たって中身まではわからないんだと思います
言語をつかさどる、感情をつかさどる…などと働きの分野わけはあっても、
その人の特性や、思考壁などは脳を開いてみてわかるものなのか…
少なくとも、健康な人の脳を開くことなんてないわけだし…
そんなことをひとり、考えていた先週の授業中でした
ああ、この子は今、どんぐり問題の世界にどっぷりと浸かっている
脳内を自由に動き回りながら、ちょっとふざけた前段も全部絵にして、考える準備を始めている
と、見える子と、
周囲が気になり、昨日見た動画やテレビ、教室で話した友達のゲームが気になって仕方ない子
脳内の自由広場みたいなところが、そういう情報でパンパンになっている子
問題の世界に浸かるどころか、集中もできず、ふわふわと字面だけ追って、一応正確に描けてはいるけど、楽しむところまでは行ってない
さっさと終わらせて遊びたいんだろうなとわかる…
これ、いまは「解ける」けど、絶対解けなくなるし、解かなくなるだろうな
だって、楽しんでないもの
楽しいものが他にたくさんあって、どんぐりどころじゃないって感じだもの
そんな子もいます
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ここは くらげのうみです。まいにち たくさんのくらげが あつまってきます。
きょうは きのうよりも 5ひきおおいようです。きのうの くらげは 6ぴきでした。
あしたもまた きょうと おなじかずだけ ふえるとすれば あしたは くらげは なんびきになるでしょうか。
おそるべし、年長問題の最初の和差算です
どんぐり問題の特徴の一つでもある、時系列を無視した問題文
敢えてそういう仕掛けになっています
この問題はとても難しく高度な問題だなあ、といつも感動して眺めています
高学年になるとあっけなく解いてしまう子も多いですが、
低学年であっさり解く子はあまり多くない印象です
まず「きょう」「きのう」「あした」が、こんな順で出てきます
時系列では
「きのう」「きょう」「あした」なのです
それぞれの日に集まってくるクラゲの数が異なります
「きょうは きのうよりも 5ひきおおい」
「きのうの くらげは 6ぴき」
「あしたもまた きょうとおなじかずだけ ふえる」
これを、全部絵にして解きます
大人なら、「この数値はここにメモっておいて…これを基準として…」と最初から整然と描いて解けちゃうと思います
そして、整然と解かない子どもにやきもきするかもしれません
整然と解く方法を伝授しちゃうかもしれません(ダメですよ~)
ここで「あの遊びに似てる…」と思い出しました
娘達が子ども時代、室内遊びでよく楽しんでいたアインシュタインという言葉パズルです
左のヒントを見て、右の枠内を埋めていく遊びです
私が好きで買っていましたが、娘たちも小学生時代、よくやっていました
こうした日常の遊びの中でも、
クラゲ問題を解くために必要な洞察力みたいなものが同じように必要だったのかもしれません
正攻法でどーん!って式を立てて解く、という問題とは全く違うどんぐり問題
いったんその情報は置いておいて…先にこっちを考えなくては、という要素があっても、子どもがそのいったん置いておく情報をどのように扱うかには個人差があります
一度しか問題を読まないので、絵の中のどこかに描いておかなければなりません
全く初めてのどんぐりを解く子ならしないかもしれませんが、普通、クイズやなぞなぞだとしても、わかったことはどこかにメモしておく、図を描いておく、覚えておくことが必要だということは経験しているはずです(この経験がない子も最近激増していてびっくりするのです…)
それなのに、一度読んだ情報をすっかり無視して読み進めていく子が最近はとても多いように見えます
どんぐり問題なら、最後に絶対、細部まで数えないとわからないことを聞かれるぜ、ってことを、初期の段階で学習することができるはずです
楽しんで解いている子は、クイズやなぞなぞと同じように、できるだけ少ない情報から正解を導き出すことを、自分の絵で描いた過程を追いながら脳内の自由広場を最大限活用して解いているように見えます
だって、絶対最後に質問されるのだから
「明日のクラゲは何匹?」って
楽しんで解いていない子は、情報を描きもらしているため、なかなか進みません
自分で描いておけばいいだけなのに、情報が足りなくて「わかんない」と止まります
どんぐり初心者でなければそろそろ気づいてもいい頃だぞ~と思いながら「またやってる…」と観察しているのですが
*注*何度「やらかし」たって私はただ眺めています。だって、本人が自分で気づかないと絶対に栄養にはならないから。私が教えるのは簡単ですが、それでは、その時満足するだけで、その後になんの役にも立たないから。でも、「その時満足」だけを売りにする塾のなんと多いことか。どうか勘違いしないでください***
なんで情報を描きもらすのか、
なぜ全てを描かないのか
違いを見ていると、やはり、脳内の自由広場の使い方によるんじゃないかな、って思うんです
養老孟司先生が以前、「わからないことをわからないままとっておく脳内のスペースの大切さ」という話をされていて、まさにそのことだ、と心が震えたことがありました
以前にも書きましたが、学生さん達に自然の現象で不思議に思うであろうことを質問しても、「えっ…そういうことになっているから???」というような、特に不思議にも思っていないし、謎として興味を持っているでもないような返答が返ってくるというエピソードでした
私たちの脳内にも
そういえば…あれ…なんだったんだろう…
そういえば…あれはどうしてなんだろう…
と、ふとモヤモヤするような、解けていないような問題があるような、
そんな場所はあります
みなさんの脳内はどうですか?
それって、モヤモヤして気持ち悪いかもしれないけど、実はとても大事なスペースなんです
全て科学的に証明され、解が出て、解説ができることばかりじゃありません
なぜなんだろう、どうしてだろう、と一生解が見つからない疑問を抱えたままかもしれないんです
すぐにスマホで調べて解明せずに、
どうしてなんだろう
と少し考えるだけで、脳内はうごめきます
脳内にある記憶を総動員して、なんとか解を出そうとするはずです
で、
結局解が見当たらなくても、
脳がうごめいた形跡、経験は残るわけです
大人はどっちでもいいかもしれません
もう、向上も向学も必要ないのであれば
向上心も向学心も不要なのですから
すぐにスマホで調べれば考える必要も、覚えておく必要もないのですから
(それはそれで、脳がどんどん老けてしまう恐れがあると思いますけど)
でも、子どもにはそうはいきません
多くの親たちが、できれば積極的に勉学に励んでほしいと思っているでしょうし、
できれば数値化される学業成績がそれなりであってほしいと、
正直、願っていない人はいないんじゃないかと思います
もちろん、向上心や向学心があってほしい、あって当然と
子どもたち自身だって、成績は悪いより良い方がいい、って思っています
でも、
私が長年見ていると、脳内の自由広場が大きければ大きいほど学業成績にとどまらない脳内のエネルギーのようなものを感じますし、もしかしたら広場の大きさは変わらないのだとしても、すでにそこには、なんだかいろいろなものがすでに詰まっていて学業どころではない状態だったり、前述したように、集中してどんぐり問題を読んでその世界に入り込んで…なんてことをする余裕を与えないような、その他の情報ががちゃがちゃと飛び交っているような空間であったり
そうなると、実質、広場の大きさが狭い、ということになっているわけで
じゃあやっぱりテレビや動画を見たり、ゲームをしたりするのはやめて、脳内の広場を整理できるように刺激を少なくしたらいいのか?とみなさんなら思いつくかもしれません
もちろん、それらの受動的な刺激を、(子どもを夢中にさせるためにプログラムされたそれらの刺激)受け続けたら、当然ながら脳内を占拠していく(プログラム通りです)のは間違いないのですが、これまた、一度脳内にそういうのがどっさり入ってきても、ぱっと切り替えてそれらをあっという間に脳内で整理できてしまうタイプの子もいるんです
目の前のクイズや、どんぐり問題を考えたい、思考したい、そのために脳内の自由広場の隅に棚を作り、整然と収納してインデックスを貼って、いつでもさっと取り出せる、そんなイメージです
もし身近に、テレビや動画やゲームやスマホに触れている時間が長そうなのに他のいろいろなところに悪影響が出ていない子がいたら、きっとそのタイプでしょう
それで、そういう子が目立つ学歴や職歴を手に入れて、自分の子ども時代を語ったり、そういう子しか知らない大人が「別に問題ない」と語ったりするのは無責任だよなあ…といつも思っているのですが…
それで、
私の見解だと、そのタイプ(メディアの影響を受けないタイプ)のお子さんの保護者さんは知らずにそういう子を育てていて、だから、特に困ったことはないようですが、そうじゃないタイプ(こちらの方が一般的)のお子さんの保護者さんは、同様に知らずにそういった機器に触れさせてしまうのですが、悪循環で、一度はまったら抜け出せない(広場の隅に棚を作れない)お子さんだから、結局、どんどん、どんどん切り離すのが困難になっていってしまうのです
それで、中学生になっても、広場の中はぐっちゃぐちゃ、棚もないので考えようと思っても空きスペースがなさ過ぎて深い思考や長い思考ができない
探し物が見つからなくてストレスがたまる…
そんなイメージです
(それでも、受験期になっても「棚」がない生徒には具体的にアドバイスします。幼少期から「棚」を作っている子にはかなわないけれど、自分で自分なりの棚を作る、整理する、それが受験勉強だよ、って。その棚が、一生の宝になるんだよ、って)
幼少期にその特性の違いは私なら見えますが、我が子しか育てていない親御さんにわかるかというとわからないかもしれません
だから、
そういう刺激は後回しでいいんじゃない?
自分の子がレアケースである希望を持たない方がいいんじゃない?って思うわけです
でも、
メディア制限に悩むということは、すでに、お子さんが「そういう脳のタイプ」だという明確な証拠ですから、ここからやり直すのは簡単ではないわけです
「ゲームやってるとどんぐり解けなくなっちゃうんだよね」と私が一度つぶやいただけで、「うっそ。それはやばいな」とつぶやきかえして、その日から一切ゲームに触れなくなった生徒もいます
当時小学4年生でしたが、結局、「ゲームも面白いけどもっと他にも面白いものがあるぜ」と自分でどんどん「興味」を開拓していくような生徒でしたので、その後3年間、いろいろなどんぐり問題を解いた後、中学生になり、全科目本当に楽しげに学び、高校も大学も自力で伸び伸びと挑戦して進学していきました
親に言われて進路を決めるようなこともなく、自分が楽しい方へ楽しい方へ、と
親御さんと一緒に、「見ていて清々しいよね」といつもヒソヒソ話していました
でもやっぱりこの子も、
私の「つぶやき」がすっと心に入る、そんなスペースを持って育ってきた子だったんだろうと
親御さんがそう育てていたんだろう、と
子育ては初動が大切
でも、初動を間違ってしまい、その後の悩みを増やしてしまう人は年々増えています
昔なら放っておいてもいろんな大人、いろんな年上の子どもに勝手に触れ、勝手に学び、勝手に成長しました
でも、そうはいかない今、「親がなにを選択するか」で、子どもの(目に見えやすい)能力は決まってしまうように思えます
間違ったらやり直せばいい
それは簡単なことです
でも、
脳内の自由広場がいつどうやってできるのか
私の勝手なイメージなので、そんなもの実際にあるわけじゃないんですが、
養老孟司先生の「わからないままにしておける余白」
糸山泰造先生の「9歳の壁」
をキーワードに、もう一度、大人の方に考えてみていただきたいのです
初めて塾の教壇に立った30年程前に感じた、「スポンジの大きさ」とも同じで、
どうして子どもによって、こんなにも「スポンジの大きさ」が違うんだろう
どうして同じ授業をしているのに、ある子は目を輝かせて興味深そうに聞いて、授業後にその内容の雑談をしていて、他の子は心ここにあらず~ってボーッとしていて、できるだけ労力を使いたくない、という体の動かし方、ペンの持ち方、そして、授業が終わると仕事を終えたサラリーマンみたいにだらりとしたり、大声を出したり、暴れて発散したり…昨日みたテレビの話や、漫画の話を延々としてきたり…つまり、ついさっきまで私が話していたことなんてもう脳内のどこにも留めていないよ!っていう…
その違いはなんなんだ、同じ年齢なのに…そりゃ、差はつくよ、当たり前だよ…と、「受験コース」を担当したときには頭を抱えました
いかがですか?
お子さんの「脳内の自由広場」
のびやかに広がっていますか?
それとも、雑然としていますか?
そこに存在するのは、なにものですか?
どんぐりの世界に浸かって楽しめるような、
いい意味での幼稚さ、素直さが残っているでしょうか
そんな子の脳内の広場は、私の想像では、広くて、穏やかで、とても気持ちのいい空間なんです
脳内ががちゃがちゃしてる子の広場は、狭くて、うるさくて、足の踏み場もないような印象です
狭くてがちゃがちゃして動きづらいから、簡単に楽しめる受動的な刺激を求める、その悪循環にはまっているように見える子もいます
いかがでしょうか
この、空間を守り、育てるために親ができることってあるのかな
いや、むしろ、今の時代、親にしかできないんじゃないかな、ってことについては、
また次の機会に