エチ先生は続けた。
その言葉通り、生徒に噛んでふくめるように、ゆっくりと----。

「たとえば、急いで読み進めていったとして、君たちに何が残ると思いますか?なんにも残らない。私の授業は速さを競っているわけではありません。君たちに速読を教えようとも思っていない。それよりも、みんなが少しでもひっかかったところ、関心を持ったところから自分で横道にそれていってほしいと思っています。どんどん調べていって自分の世界を深めてほしい。その時間をとって進めているつもりです」
(中略)
「すぐ役立つことは、すぐに役立たなくなります。そういうことを私は教えようとは思っていません。なんでもいい、少しでも興味をもったことから気持ちを起こしていって、どんどん自分で掘り下げてほしい。私の授業では、君たちがそのヒントを見つけてくれればいい…。だから、このプリントには正解を書いてほしいとは思っていないんです。自分がその時、ほんとうに思ったことや言葉を残していけばいい。そうやって自分で見つけたことは、君たちの一生の財産になります。そのことは、いつかわかりますから…」
(昭和37年のこの授業を聞いていた生徒のひとり)吉川健太郎。
「なぜ音声が周期的に波打つんだろう。」
当時、海外から届くトランジスタ・ラジオの音声のうねりが気になっていた彼は、理科の教師にそのことを尋ねると、電波は地球の電離層と地上の間を波打ってやってくるために、音声にそうしたうねりが生じることを知る。
そんなひょんなことから「通信」や「宇宙」に思いを馳せるようになった健太郎は、その後、大阪大学工学部通信工学科→伊藤忠商事と進み、入社後に希望通り、通信プラント・アフリカ課に配属となる。
新入社員に与えられた仕事は、ケニアの大平原に、通信網を張り巡らすという一大プロジェクト。
資金調達、材料入手、工事の発注先…難題をひとつずつクリアしていった吉川らのスタッフは、11年後の昭和59年、ケニア、ウガンダ、タンザニアの国境をまたいだサバンナに一大通信網を完成させる。
吉川らの引いた電線によって、アフリカに電話という文化が根付いていった。
「あの日のエチ先生の言葉を折に触れて思い出します」という吉川健太郎は、還暦を迎えていた。
(中略)
「先生は成績で決して生徒を差別することがなかった。いつも広く大きく構えて、生徒のよい部分を見ようとしていました。…で、あのとき、先生がおっしゃった『スピードが大事なんじゃない』という言葉を、今では自分なりに『先を急ぐより、物事の本質を掘り下げて、その根本原理、その背景にある理由を探求することが大事なんだ』と解釈して、今も、そう心がけているんですよ。」

伊藤氏貴さん著『奇跡の教室 エチ先生と『銀の匙』の子どもたち 伝説の灘校国語教師・橋本武の流儀』
小学館文庫より引用


橋本先生の授業に関する本は何冊か読みました
私自身、
最初に進学塾講師になったとき、現代文の授業をどのように構成したらいいかわからず、
先輩講師の授業を見たり、本を読んだりしたものの、(当時はネットもなかったので)
そもそも自分が、現代文の授業を受けて心が動いたことが一度もなかったので、
どうしたものかなあ…と悩みに悩んでいたんです
まるで手本がない状況でした

そのあと、試行錯誤、紆余曲折…長い修行期間と、リアルな生徒たちとの授業を経験しながら、今では現代文の授業の手法を同業者に教えることができるまでになったのですが
(それでも、真似はできない、とは言われますが)
橋本先生の授業を本で知ったとき、
ああ、これでよかったんだ、と安堵したのを覚えています

ただ、塾や予備校向けじゃないかもしれません
点数を取るための授業はまた別です
もちろんそれもできますが
本当は、これが本物の授業だ、と思います
そしてそれは、国語以外の全科目でできることだと

話を戻すと、点数をとるための方法を教えることはできるにはできます
それでも、
文章や、言葉を味わうことができないと、手法を点数につなげることはできません
私が話すのも言葉で、
テストや問題集に書いてあるのも言葉です
それは、
国語に限らず
数学だって理社だって
英語だって、そこには、言葉が書かれているのです

言葉を軽視してはいけません
言葉をただの文字の羅列として、単に早く大量に情報処理のように取り入れようとしても、
結局、その先に進めないのです
それが、
全科目に共通する「読解力」です

読解力は本をたくさん読めば身につくと、
国語の問題集を解けば身につくと、
勘違いしている人がいますが、それは全然違っています

一番怖いのは、
言葉を文字の羅列だとして素通りすることに慣れてしまうことです
素通りに慣れて、深く考えることを避けることです

これは、数字にも言えます

文字や数字、数式は早く覚えさせたほうがいい、という勘違いが、
読解力の養成の弊害につながっていきます

小さい頃は、速くたくさん読む子どもを「すごい!」と大人は思うかもしれません
数字が書けたり、数式が書けたり、計算が速かったら「すごい!」と褒めるかもしれません

でも、
私には「素通りしているかどうか」わかるので、
普通に考えると、幼い頃に「速い」ことはとても心配な要素です

中学生たちが百人一首の暗記をしていました
冬になると始まるので、ああ、そんな季節だねえ、としみじみ眺めていました
でも、最近様子が変わってきました

以前は一首全体を暗記するのが普通でした
内容を問うても「知らない」っていうこともあり、
ただの暗記なのか~と当時も思ってはいました

でも、近年はどうなっているかというと、
競技かるたの「決まり字」を覚えているのです
「決まり字」とは、
「め」といえば「くもか」
「ちは」といえば「から」
という、アレです
アレがわからない方は、映画『ちはやふる』を見ればわかります…

「め」ぐりあひて みしやそれともわかぬまに 「くもか」くれにし よはのつきかな

紫式部

旧友との慌ただしい再会を、月に託して詠んだ歌とされています
大河ドラマ『光る君へ』では最後に紹介されたので、
今回のドラマの本筋だった式部と藤原道長の関係に結びつけられるのかも、とも最近話題になっていました
元々古文や和歌が好きなので、百人一首の歌にはいちいち内容を思い出したり、別の解釈がないかしら、と想像したりしてわくわくしちゃうのですが、どうやら中学校の百人一首の行事は、いつのまにか、内容から飛躍して、最終的に「決まり字」を覚えてカルタ取り大会をする、という目的に向かって進んでいるようです
まあ、きっかけはそれでもいいんですけど…
暗記だけで内容を気にもしていなかった頃の中学生達に熱く語っていた頃を思い出しつつ、
いまではもう、決まり字を必死に覚えている中学生達を見て、何も言えません…
いいよいいよ、あとで、この歌好きかも~って戻ってきてくれればさ…

そもそも、
今の中学生達に百人一首を語ったところで、
で?
ってなっちゃう
そんな子の方が多いんだろうなあ、って思いました

DK生は違います(笑)
私の好きな歌を(熱烈な恋の歌ですけど)ゴゴゴー!!って説明したら、ちゃんと「きゃーーー!!」って反応してくれましたし、
その前の週は、
「ちょっと読んでほしいの」と、
昨年の近隣私立高校の入試問題の現代文の文章を、
一緒に読んでかみ砕いた授業に、熱中してくれました
立ち止まって考えて、なかなか先には進まないんだけど、
横道に逸れ、
いちいち深く考え、
でも、どうなんだろうね、って想像し…
設問には答えず、
ただただ、読み合わせして一緒に深く、文章の抜粋を読んだだけなんですけど、
さとちゃんと一緒に読んだなあ、っていう思い出が、いつか、
初めて出会う現代文の問題に対峙するとき、ふわっと浮かんでくるかな、って思うんです
ちょっとした言葉に立ち止まり、じっくり考える、という経験が、
大人になったとき、全然別のところで生きてくるのかな、って思うんです
アフリカに電話線を引いた吉川さんのように

すぐ役立つことは、すぐに役立たなくなる

子どもの近くにいる大人の方々はこのことを覚えていてください
子どもがすぐに何かできるようになることを望んでしまう方も
子どもがすぐにできなくて悩んでしまっている方も

とはいえ、受験があるじゃない
テストがあって、点数を取らなくちゃじゃない

そもそも、そこはホントに大事なんでしょうか
それを、大人が子どもにけしかけることは必須なんでしょうか
そのための準備を大人が手伝うことは、正常なんでしょうか

点数が取りたい子は自分でそこへ挑むでしょう
それは子どもが決めることです

大人はもっと別のところで、
子どもを支えなくてはなりません
子どもに見せなくてはなりません

大人になるとこんな世界が待ってるよ、って

文字とか計算とか、
速くできることとか、正確にできることなんかを鍛えるんじゃなくて、
子どもが勝手に世界にのめりこんでいくような
ゆっくりでも深く読み込み、じっくり考えるという環境を
それが本当の学びで、本当の思考だと実感できるわくわくする環境を、
どうか守ってあげてください

来春の勉強会に向けていろんな本から散りばめています