「十分母親に惚れ込ませた上で、子どもに不親切になり、気をつかわせることが大切。不親切こそ親切!」
十九年間、自閉症児T君の家庭療育を実践してきた母親のJ子さんの言葉である。
「不親切になれ」などという、思いもかけぬ逆説的な考えを、さらりと歯切れよくJ子さんは語ったが、私はその含蓄の深さに圧倒された。
「母親が不親切になり、子どもに気をつかわせることが、子どもの心を育てるのです。母親は本質的に子どもにやさしいので、よほどしっかりした考えを持たなかったら、つい手を出し助けてしまいます。こどに自発性の乏しい自閉症児では、母親が何でもやってあげてしまいがちです。しかし、過保護は子どもが発達するチャンスを奪い取るということを忘れてはなりません。子どものじりつを考えるなら、母親は手をさしのべることを我慢すべきです。」
J子さんのことばから、私は深い意味を二つ教えられた。一つは人生早期の母子の絆の大切さということ、もう一つは適切な時に適切な対応をするだけの英知をもつということ。
J子さんは、母親が子どもを愛し本質的に優しい気持ちを持っていることと、子どもが母親になつき、好ましく思い、惚れ込んで信頼することを「不親切になる」ための前提条件にしている。すでに述べたごとく、人生早期の第一ページには母子の絆という課題がある。それを達成して初めて第二ページへと順調に進むことができる。T君は手がかからず、おとなしく、喃語も嘲笑反応もなく、人とのかかわりをもちにくいという特性が早期から見られた。そのT君をJ子さんはひたすら守り、安心させ、叱らないで、喜ぶことを探して、相手をしてやった。それは何としても親になつかせ、親に惚れこませたいという願いがあったからである。つまり、そのことが次のじりつ段階へのステップをスムーズに進ませる基盤になる、とJ子さんは見通しを立てていたのである。
J子さんの話を聞きながら、T君とはちがってかたよりが少なく、親にもなつきやすい普通の子どもを育てる場合、我々はなんと乱雑に、細やかな心づかいもせぬままに、子どもを扱ってしまうことが多いか、を思った。いいかげんに扱われても、彼らはすぐにほころびを表面に表さない。一見親にもなつき、母子関係もできたように見える。しかし真実の基本的信頼感となると、十分培われていない場合も多い。それはいつの日か、人格の問題や心の病になる危険性を孕む。それに何よりも、すぐ次の「不親切になる」ステップにうまく進めないことになる。自閉症児も健常児の育っていく道筋は同じである。第一段階の母子の相互性を、豊かで力強いものにすることを、今一度心に銘記しておきたい。
さて、J子さんの言葉に含まれる第二の意図は、時機が来たら適切に次の段階に進ませるべき、という指摘である。すなわち、乳児期の受容は子どもの人格の基盤作りにきわめて意義が深いが、それをいつまでも続けてはならないということである。いつまでも続けるところに害がある。
子どもは乳児から幼児へと成長するにつれて、外界への興味が増す。そして親になついた子どもは母親との一心同体感を育て、ゆとりができ、積極的になり、ききわけもよくなる。その時機にじりつへと、我が子の背中を押して進ませてやる心構えが大切である。
障害児の親御さんに会っていると、折角母子の絆を涙ぐましい努力の末に結んできたのに、第二段階に進むことを知らぬために、子どもの発達をストップさせてしまっているケースがある。胸が痛み、残念に思う。そんな時、私はJ子さんの「不親切」へのすすめを行い、育児の方針をしめすことにしている。
では、「不親切になる」とは、具体的にどんなふうにふるまうことなのであろうか。
それは、たとえば、
①要求にすぐに応えないで、ちょっと待たせる。気づかないふりをする。
②不完全な手助け(衣服の着脱、ボタンかけ、食事、入浴、排泄)をして、最後をやらせる。
③手伝いをさせる。(「新聞をとって」「めがねを持ってきて」)
④自分本位にどんどん歩いていく子どもには、散歩の途中でちょっと隠れて心配させ、母親を探させ、意識させる。
これらは、普通の子どもが対象の場合も全く同様の育児法である。子どもの要求にふりまわされないで(①)、身のまわりのことを母親が全部してしまわずに少しでも子どもにやらせ(②)、手伝いを通して人を助ける喜びを体験させたり、同時に「新聞」や「めがね」等のことばを理解させ(③)、自分勝手にしていても、「必ず母親が来てくれる」という甘えを断ち切り、「必ずしもついてこない」ということも教える(④)。
普通の子どもも自閉症児も同じ道をたどって発達するのであるが、自閉症児の場合は、扱いにかなり技術を要する。根気も要する。しかし、子どもを愛すればこそ、不親切になり、発達をさせることができるのである。(中略)
この子はこんな子だ、と限定せず、心を柔軟にする努力が大切なのである。それは偏見を持たず、子どもを深く尊重することに他ならない。(中略)
J子さんの言葉通り、まことに「不親切は親切」である。そして「手をさしのべるのを我慢」せねばならぬほど子どもを愛しく思う愛と、「子どもの心を育てよう」という澄んだ英知を母親がもつことの貴さをしみじみ感じさせられた。
服部祥子先生著『精神科医の子育て論』(新潮選書)より
来年は「もっと学びたい」「もっと考えたい」「語り合いたい」という親御さんと一緒に、勉強会をちょこちょこ開いていきたいと考えています。
この本は30年以上前に出版され、私もその頃から何度も何度も読み直している子育て論の名著です
ブログでも何度も紹介しているので、すでに読んだことがある、という方もいらっしゃるかもしれません
ただ、
本は読んだ、講演会や勉強会にも行っている、資格も持ってる(なんの?)と言いながらも、
実際の御家庭での自分の子育てに、どこまで反映できているのか
それは、
個々にかかっているところです
他人に評価されるため、
誰が見てもわかりやすい「成功」を手に入れるため
そんなことのために私達は、子どもを授かったのではないし、親にさせてもらえたわけじゃないんです
私達は人間を育てています
私達が老いて、去った後も、この世界を生きていく人間の基盤を、
そのまた子の子が生き抜いていく、その基盤を育てているんです
自分が心地いい、自分が満足、それが子育てではありません
人間を育てる、という偉大な仕事に一生懸命に取り組んだ結果、
いつのまにか、そのあと、心地よく、満足できるような日々が訪れるのかもしれませんが
服部先生が密着して書き綴っているJ子さんとT君の世界
「不親切こそ親切」
意味がわかりますか
わからなくても、一緒に考えませんか
「時機が来たら次の段階に…」
それは、
その前の段階で、惚れ込ませて信頼をがっつりつかんでいることが大前提ですが、
それ、できていますか
次の段階に、中途半端に進んでいませんか
いつまでも、次の段階に進めずにいませんか
まず子どもを「ちゃん付け」で呼ぶのをやめませんか
赤ちゃん期は終わりです
赤「ちゃん」には「ちゃん」がつきますけど、
子育て期は、
少なくとも親だけは、まっさらな名前そのもので呼んであげてください
同業者の覆面座談会でいつも出る話題です
過激すぎて、極論過ぎて、
なかなか、そのままお聞かせできる内容ではありませんが、
いつも出るのは
「ちゃん付けの親で子育て、教育がうまくいっているケースは少ない」
ということです
(ああ、言っちゃった)
いいえ、うちは「ちゃん付け」ですけど、子育ても教育も、うまくいっています!
と、いう御家庭もあると思います
「少ない」と、傾向、可能性として体感しているだけなので悪しからず
なぜなのかは、
上記引用を読んでいただければおわかりいただけるかと思います
親子関係に、
絶対の信頼関係があること、そして、
毅然とした親子関係も確立されていること
それがあって初めて、子どもは伸び伸びと育っていきます
甘やかし、優しくすれば子どもは喜び、安心する
表面的、一時ではそうなのでしょうが、
なにをしても、なにがあっても優しくて、許される、
という親子関係の先には、
子どもが親を離れたときのとんでもない戸惑い、葛藤が待ち受けてしまっていることを、
知っておいてください
ずっとずっと、
赤ちゃんのように、肌身離さず抱え続けることはできません
しっかり、たっぷりと愛情を注ぎ、絶対の信頼を手に入れたら、
次の段階へ進めるのが親子です
一緒にいる時間が多いこの冬休み中に、
ぜひ、じっくり考え、振り返ってみてください
来年の勉強会へのリクエストもお待ちしています
リクエストはフォームやメールでお願いします
わからなかったら考えればいい
そんなこともわからないの?なんて絶対に言いません
一緒に話しましょう