どんぐり文庫を整理しながら、ふと開いてしまったページを
少しご紹介します

順番をとばした発達は「みせかけの前進」となる
 幼い子を育てる時、スパルタ教育といわれるような発想で、厳しい訓練をすれば、子どもは一見、いい子のようにふるまいます。しかしそれは、本当の発達ではありません。いい子になり、年齢相応にものごとをするようにみえるかもしれませんが、それはみせかけの前進です。親へのおそれをもって、したがっているだけなのです。

 発達にとび級はない。ただし、みせかけの前進はある。前進にみえても、必ずやり直しをしなければならないんです。エリクソンの書物のなかにそのとおりの記述があるかどうかはわかりません。私はみせかけの前進のことを、クライン教授から聞きました。
 みせかけの前進は必ずいつか、逆戻りします。本当の発達や成熟とは違うのです。私たち精神科医のもとには、思春期をむかえ、問題を起こした子どもたちがやってきますが、その子たちの現在の生活に、問題の原因があるとはかぎりません。もっと前に原因があって、問題がいま出ているという場合がほとんどです。それまでは、みせかけの前進であったわけです。それがくずれて、問題が大きく発覚したということです。
 体の健康で言えば、潜伏期があって症状が出るようなものです。育っているように見えても、みせかけの前進だった。もともと、乳児期や幼児期の問題が潜伏していた。それが思春期になって問題として現れた。みせかけの前進がくずれて、幼い頃に経験するはずだった問題が出てきているんです。
(佐々木正美著『あなたは人生に感謝できますか?』より  引用おわり)

頭でわかっていても、
ついつい、自分の不安や葛藤から子どもに対して、
感情的な言葉を浴びせてしまう

今はこのくらいでいいんだ、これが普通なんだ、
って思おうとしてもついつい、
他の子と比べて我が子がどうなのか、気になって焦ってしまう

周囲がどういう目で我が子を、自分を、見ているのか、
気になってつい、子どもを追い詰めて「よい子」にさせようとしてしまう

そんな親たちの不安な気持ち、ぐらぐらした迷いを、
近くに行ってゆっくり聞いてあげたいな

大丈夫だよ、って
心配ないんだよ、って
大事なのは、周囲と同じようにできるようになることじゃなくて、
この子が、ひとつひとつ、本当に前進していくことなんだよ、って

私が我が子の子育てで、何にも不安に思わず、何にも焦らなかったのは、
ただ私が「知っていた」からかもしれません
何度も、何度も、書きますが、たとえば「ハイハイ」をすることについて

這えば立て 立てば歩めの 親心

という川柳がありますが、
そんな親心に、ゆっくりとブレーキをかける言葉を、私は子育て中に知りました

「ハイハイ期は長ければ長いほどいい」

狭小な住宅事情もあって、現代の子は腰がすわるとすぐにつかまり立ちをし、
つかまり立ちをして二足歩行の高さを知ると、できるだけ早く歩こうとします
つたい歩きの時期を経て、自力で歩けるようになるのも早くなってきているようです

そんな中、「ハイハイ」の重要性について、私は子育て支援の仕事をしながら、
専門家に聞く機会を持ちました

ハイハイで育つ力は、両手両足で地面を支えて蹴る運動によるものもあれば、
肺活量にも影響する、とその先生はおっしゃっていました
ハイハイで地面に両手をつくことは、歩き出してからの転倒にも影響するようです
ぱっとすぐに手が出る、ということでしょう

最近、地面を両手で触れない子が増えている、と
随分前に保育士さんに聞いたことがあります
汚い、といやがったり、いかにも触ったことがないかのように、
両手を地面につくことに抵抗がある様子だというのです

ハイハイの話はこのくらいにして、でも、
私はこのハイハイのことが、全てに通じるとその時からずっと思っています

ヒトがヒトたる特徴のひとつである二足歩行
そこまでの発達を私たちは生まれてから1年ちょっとで再現してきました

これまでの私たちの進化、発達の過程で、
なければよかったもの、
省略すべきことなどひとつもないはずです

時代がゆっくり流れて、当たり前にゆっくり通り過ぎていたはずの、
子どもの発達段階

今は、そこに大人の視線が集まっていないように見えて仕方がありません

じゃあ、どこを見ているんだろう
目の前の子どもを見ずに、大人はどこを見ているんだろう

母子手帳に描いてある、発達曲線でしょうか
ネットやテレビで流される情報でしょうか

身体的な発達よりもわかりづらいのが、
子どもの心の発達です

佐々木先生の文章にあるように、子どもは、大人に強く命じられれば、
それなりにふるまうことができるようになるでしょう

でも、そのせいで、子どもが本来経験すべきことをできないまま、
年月がたってしまったら

もう幼くない子どもは、そう、たとえば思春期の子どもは、
問題行動を起こしたり、また、そこまででなくても、
勉強や友達関係でうまくいかないようなことがあったりすると、
子ども自身が責任を追及されることが多いです

私が、生徒など、子どもと話してみると、
その子のどこに穴が空いてしまっているのか、よくわかります
そこを、補ってほしいんだよね
そこを、育て直したいんだよね
手に取るようにわかるのです
キミが悪いんじゃないんだ
それはわかってるんだよ

でもね、子どもがわかってほしいのは、たぶん私じゃありません
いくら他人の私がわかってあげても、
本当にわかってほしい人は他にいて、
ほとんどの場合、その原因をつくってくれちゃった張本人だったりするわけです
そう、それは、ほとんどのケースで親に当たる訳なのですが

でもね、子どもが思春期を迎える頃、
親たちも相当頑固な大人に成長してしまっています
子どもがわかってほしいのが私ではないように、
大人も他人の私なんかの言葉を聞き入れることはありません

それなのに、
子どもが理想的ではないのは誰のせいだ!?と自分以外の誰かに
責任を押しつけようと必至です

誰が一番、長く一緒にいたのでしょう

子どもが勝手に、ひとりで育ったのでしょうか

思春期の親はそのことを自覚し、
必要に応じて育て直しをすればいいのです
手遅れだなんて言わないし、
気づいたなら育て直しをしないと、それこそ、
取り返しのつかないことになっていきます

そして、
乳児期、幼児期の親は育て直す必要がないように、
子どもをまっすぐ見つめてあげて
がんじがらめに監視する、って意味じゃありません
子どもは子どもなんだから、とゆったりと見守ってね

小さな失敗をたくさんさせて、
一緒に、その失敗を乗り越えよう
やり直せるんだね、って味わおう

強く、優しく、しなやかな人間に育つために
ゆるやかな日々を、味わって過ごそう
焦らずに
気負わずに
話なら、聞きに行きます
春に、なったらね