マツコさんが好きで、ほとんどの番組を録画して見ているのですが、
先日のマツコ会議がとてもよかったのでご紹介します

10代で、有名なアイドルグループなどに楽曲提供するほどに、その実力が認められた若者3人とリモートで話すマツコさん

MEGAくん、という若者が、音楽制作でやっていこう、と決めた時の話をしていました
高校卒業後に音楽関係の専門学校への進学を決めていたのですが、突然、進学するのをやめたそうです
その経緯を聞いて、マツコさん

基本的なものがないと、そこに踏み出せないタイプの人も居ると思うし、
難しいわよね、そこはね

学校で勉強することよりも、独学でやっていくことを選んだMEGAくん
マツコさんは彼を絶賛しつつも、そういう選択ができないかもしれない若者へのメッセージなのか、「それは誰でもできることじゃない」というような意見を述べていました

すると、MEGAくんが
僕的には、学校に行ってどうにかなるっていう甘えに甘えてまで続ける音楽で、僕は自分のオリジナルを追求できない、と思ったんです
技術がつく、つかないとかじゃなく、つくことに出会えるかということを優先したかった

確かに、すでに才能を認められた彼だからこそ言える、成功者の言葉
でも、マツコさんはもっと長い目、広い目で見ているように感じました
マツコさんが返します

だからといってみんながこれをやってしまって、うまくいく人たちだけじゃないから
彼はとっても気づくのが早い人だったと思うけど
もう17とか18とかその段階で、自分で気づこうとする作業っていうのは
しなきゃいけない時代になったと思うのよ
MEGA君はそれを始めて数年でさ、これだけ結果は残してても、まだもっとストイックにやらなきゃいけないってもうがーっと追い込んでる時期の人だから

MEGAくんを賞賛しつつ、でも、そういう生き方が最上位ではない、とでもいうような、MEGAくんはとても特殊なんだ、と強調するような言い方に思えました

このあとのマツコさんの言葉に、私は少し、心が揺らぎました
いろいろな事を思い出したのです

あたしはそんなに強い人間じゃないし、流されて生きたからこそわかった部分もあるのよ
流されるって自分の意志と違う場所に行けるから
自分の意志で進むって自分の意志で選んだ場所にしか行けないじゃない
だから、
流されてみると、自分が絶対チョイスしない場所に辿り着いたり、見えない景色が見えたりするから
そこであたしは結構気づかされてきたタイプなのね
だから今、若い人たちが見ててさ、何か自分が音楽だけじゃなくてね、やりたいことにおいて、どうしようかなあ、って踏ん切りつかないな、って思っている人がいたとしても、それができない人はもう、夢は叶えられない、もう先がない、ではないよっていうことを、あたしは付け加えたいのよね

うん、そうだ、やっぱり、この番組を多くの若い子たちが見ているってことを意識して話していたんだ、とここで確信しました
こういうところが私がマツコさんのことを好きな理由です

「あたしはそんなに強い人間じゃない」
「流されて生きたからこそわかった部分もある」

流れに抗って、自分で道を切り開く人もいる
ゲストに出た若者は3人とも、若者らしいセンスと技術を大人に認められ、社会に出て活躍しています
普通に学校に行って、大人のいいつけを聞いて、お行儀よく目立たないように生きている子たちではないようです
なんとなく学校に行きたくなくなった、と話している子もいました
マツコさんも、あたしもそういう時期があった、って言っていました

先日、校則で染毛したり、パーマをかけたりすることが禁じられているので、地毛証明をする必要があるという話、そして、今朝は中学校の下着の色が白に指定されている、という地域の問題が耳に入ってきました

朝食の時に子どもたちに聞いてみると、子どもたちの学校では、白い体操着や、制服のシャツに透けるような下着の色は禁止だし、自分でも着ようと思わないし、下着をチェックされるようなこともない、解釈の違いじゃないか、と言っていました

なんでこんな校則があるんだろう、って思っても、ただ学校にいる間、守ればいいだけのことであって、それによって人権が侵害されるとも思っていない、と言います

「地毛証明」「下着の色指定」なんて校則の言葉だけ取り上げてみると、子どもたちは随分窮屈な生活を強いられているように思う人もいるかもしれません
でも、私たちの中高生時代はもっと厳しくて、髪型の指定もあって、男子は坊主頭だったし、スカートの丈や変形ズボン(ボンタン!)の取り締まり、厳しい学校では校門のところに先生がはさみを持って立っていて、長すぎる前髪を切られた、と言っている友人もいました
先生がビンタ(頬を殴る)をするのもそう珍しくはなく、私の知る限り、当時よくビンタをしていた先生たちが今、各地で校長先生や教頭先生になっています
SNSで誰もが簡単に発信できるようになった今、そんなことをしたら、いちいち大ニュースになりそうなことが日常的にありました
それはよくない、子どもにも人権がある、子どもたちは追い詰められ、傷ついている、と当時からきっと、大人たちが問題視してくれて、少しずつ、少しずつ、学校は変わってきたのでしょう

それでもまだまだ、「それはどういう意図があるの?」「どういう理由から?」と思わず問いたくなるような謎の校則が横行し続けてはいるのです

でも
「だからなに?」って子たちもたくさんいるのです
学校は子どもの人権を侵害するからよくない、行きたくないし、行かせたくない
そう思う子どもや親たちがいるのもわかります

でも、
「だからなに?それがどうした」と平然と、自分を壊されることも侵害されることもなく強かに学校に通い、それなりに楽しんでいる子もたくさんいます
もちろん、相当の我慢をしている子もいますが

中学校で、課題がたくさん出され、自分のしたい勉強ができない、と嘆く子もいます
でも、同じ学校で、同じだけ出された課題を、平然と適当に片付けて、時間のやりくりをうまくやってリラックスして過ごせる子もいます

その違いはなんなのでしょうか

どんぐりでは、小学校までは家庭学習の管理を親がします
いろいろ端折りますが、要するに、基本的には家庭学習はさせません
どんぐり問題を週に1日取り組む以外は、学校の宿題もしません
反復学習やスピード学習が、小学生の間にしかできない思考力を育てることの妨げになるという考えからです

中学校からは学校からの課題も、家庭学習も解禁となり、親の管轄外となります
仕事柄、我が子や生徒たちに出されている課題を目にすることが多く、ここ20年、相変わらずの、生徒たちの習熟度や自主性など全く加味しない一辺倒で無意味な課題が出されているなあ、と感じていますが、「やらなくていい」とは言いません
以前も書きましたが、アメリカ帰りでバイリンガルの生徒に、簡単な英単語を書く宿題をがっつりやらせているのには呆れました
入試問題レベルにどんどん挑戦できるような子にも、小学校の計算問題があやふやな子でも、同じ計算ドリルが宿題に出されます
とにかく期日までにやって出さないと、と、DKの生徒もやることはやるのですが、ほぼ頭を使わずただ書くだけの宿題にかかってしまう時間を、もっと他のことに使えたらいいのにねえ、といつも一緒に愚痴っていました
愚痴ってはいましたが、逃げません
逃げない子は強いです
結局、全てを自分のものにしていきます
違いは、「思考力」なんだろうなあ、と最近わかってきています
先を見通す力、糸山先生にもそういう話を聞いたことがあります

…だからこそ、無意味な宿題はやらせないでほしいな…もったいないな…とは思い続けているのですが…

学校なんか行かなくていい
課題なんかやらなくていい
どれもくだらないし、どれも子どものためじゃない
だから、逃げていいんだよ

って、思う私はいます
でも、
それだけじゃダメなんだ、って思う私がいます

戦時中、子どもたちは学校でもっともっとひどいことを強いられました
戦後もずっと
そして学校での集団生活は、その頃からあまり変わっていない基盤があります
集団授業は時代遅れと言われています
ネット端末が配布され始めます
「個別最適化」が始まります
さあ、本当にうまくいくのでしょうか
先生たちだってどうしたらよいかわからなくて困っているんじゃないかとさえ思います

学校が、ひとりひとりの、全ての子どものためになっていない、なんて、今に始まった問題じゃないってことが言いたいのです

これは、斎藤喜博先生の著書のあとがきの文章です


いつ書かれた文章だと思いますか
私が生まれる前に書かれたものなんです

ちなみに、学校の先生で斎藤喜博を読んだことがない方は、読んでみた方がいいと思います
略歴です
あとがきを紹介した本です
斎藤先生の本はたくさん出版されています

いまや、ここまで学校教育をなんとかしようと目の前の子どもたちをしっかりと見守りながら努力する先生にはなかなか会えなくなりました
群馬にこんな校長先生がいたことを、そしてその実績を、少なくとも群馬の先生たちは熟知しておいてほしい

「一生懸命やってます」と、先生方はおっしゃるし、それは嘘ではないでしょう
でも、
やってもやってもどうにもならないガラスの天井も見えるし、
やはり、そこに子どもの姿は見えない
子どもが主人公であるはずの学校なのに、子どもはかやの外で、大人の事情だけで運営されているようなところがたくさん見えています

そして、学校は家庭の責任に、家庭は学校の責任にして、自分のことは棚に上げている

私は、どっちにも属さない隅っこからずっと、その様子を見てきて知っています

どっちもどっち、ということを

子どもにスマホを持たせたら危険、
ゲームを持たせたら危険、
テレビを見せすぎるとよくない
それと同じ考えで、
子どもを学校に行かせると危険

それら全部、ひっくるめて、
結局誰かのせいにしているのです

子どもがおかしくなった
学校が悪い
先生が悪い

子どもがスマホを手放さない
ゲームに夢中になって話も聞かない
スマホが悪い、ゲームが悪い

果たしてそうでしょうか

学校ですることは、なんか違うな、と思って自分で自分の道を切り拓いた青年
よくわかんないけど、別にいいとも思ってないけど、流されてみよう、って流されて、居場所を得たマツコさん
どちらも、誰かに責任転嫁していません
過去に、何か、傷ついて、ひどい目にあって、今に至ったのだとしても、たぶん、そのことをネガティブにとらえていない
それがあったから先に進めた、ときっと思っています
同じ課題を出されても、同じ校則で縛られても、
愚痴りながらも前進する子もいれば、
言い訳ばかりして逃げ続ける子もいます

それは、学校のせいでしょうか
校則のせいでしょうか

親の不安や猜疑心を子どもは察知します
親のことが大好きだから、感情も生き写しです

学校どころか、世の中本当にへんてこりんで、子どもたちがこれから生きていく世界は、猛烈に混沌としています

だから、心配し続けますか?
だから、先手を打ち続けますか?

それよりも、ちょっとくらいのことでいちいちへこたれないような、
そして、難題にぶち当たったときこそ解いてやる、って前向きに立ち向かえるような、
そんな人間が育っていればいいと思いませんか
本物の思考力を、育ててしまいませんか
子どもが強く優しく賢く育つことを、全力で支えませんか

私はそう思って子どもを育ててきました
まだ起こってもいない心配をすることもなく、
何かが起こったときはそれを課題に家族で解決しようとしてきました
申し訳ないけど、学校と掛け合っても、話が堂々巡りで、どうにもならない、という経験を重ね、家でしっかりするしかないんだ、頼れないんだ、と確信した残念な事実はあります
だからって、学校を全否定して「行かせたくない」と子どもに言ったことはありません
そこで得るものがあるはずだ、と日々、子どもの話を聞き続けてきました

もし、私がいま自分の子どもに、
学校に行かないことにするね、と言われたら、はい、そうですか、と言います
もう、今の時点で、それは逃げるのではなく、自分の生きる別の道を自分で切り開くという宣言なのだ、と確信できるからです

学ぶ場も、遊ぶ場も、放っておいても自然と出会える時代ではありません
だから、きっかけは探します
出会いのきっかけです
でも、それ以上はしません
たとえば何にもない川原や海辺や山に行きます
でも、遊びを提案したりしません
何もないところから遊ぶのが、一番好きな子どもたち

真っ白なクロッキー帳に、自分から問題を描き起こさないと解けないどんぐり問題と同じです
それ以外に、本物の思考力と、強い心を育てる方法があるでしょうか

そうそう、
学ぶ場所は学校じゃない…と決めた子どもたちのために、
特に、独学でやってみたい中学生のサポートのため、新年度は通信部門を広げます
逃げるんじゃなくて、選ぶ
そういう子たちとも一緒に学んでいきたいな