DK3年生は9月から「全国入試問題集」に着手しています
毎年のリズムですが、ここまで到達する子ばかりではありません
電話帳のようなこれらの問題集を開くだけで、
「やる気になれない」「読みづらい」「難しすぎる」と諦める子は毎年います
どんぐり歴との関連を(中学生になったらできるだけ考えないようにしてはいますが)
考えてみると、やはり、「全て自分の力で読み取る」という底力があるかないかで比較せざるを得ず、
どんぐり歴が深く、長い子どもたちは中学生になってもこれくらいのことはたいしたことがない、といった風で、鼻歌交じりで自分なりにどんどん進めている傾向が見えます
年々、「工夫されて改善※改悪…」されている小学校からの教材(宿題や、補助教材)などを見てきて、こういった中学生の傾向も「そりゃ、そうだろうな」と思うしかない部分があります
多くの親御さんたちは考えたこともないでしょう
学校の副教材や、宿題のプリントによって「思考力が低下する」「自力で読み取る力を奪われる」などということを
もちろん、「低下しない」子もいるし、「力を奪われない」子もいます
何事においても、全員同じ、ってことはないんです
でも、ほとんどの子が
特に、素直で純粋な子ほど、そうなってしまう傾向は強く、また、素直じゃなくても、親御さんや先生に強制されることで、「勉強なんてこんなもんだろ」「これさえやっとけば怒られないんだろ」ってそれらの教材を埋めることだけで深く考えずにこなす子もいて、そういう子も、中学生になって苦労するタイプです
そんな中、どんぐり(的な思考力養成が済んでいる)の子は、すでに完成しているから「低下しない」し、「力を奪われない」のです
そう、先手必勝、ということです
教材を工夫して作成している出版社の方や、児童のためを思ってそれらを採用している先生方の名誉のために追記しますが、誰にも「悪意」などありません
誰も、子どもたちの学力を低下させようなどと思って作って、使っていません
ただ、それらの教材が、どんな授業力の先生でも同じように導けるように、という目的だったり、ひとまず全員の「底上げ」ができれば、という目的だったりすることは、現場の誰もがわかっていることです
そういった教材が必要ないくらい自分で考えることができる子がいるのも先生方はわかっています
でも、その子だけ別のことをしていいとか、その教材を手渡さなくていいとか、そういう融通がきかないのが今の学校教育です
すごくよくできる子も、最初から全然わからない子も、みんな同じ教材を同じ進度で進めなければならず、同じ日に、同じ条件でテストもしなければなりません
先生方はそんな授業を成立させるために工夫なさっているし、教材会社さんもそんな先生方の声をくみ取ってあれこれ手取足取りの教材を作成して学校側に提案しているのです
でも、それが、多くの子の思考力を奪うことになるなんて、皮肉すぎます
それは、各家庭や、社会にも責任があるのに、直接的には学校にみんな責任を委ねるのでさらに皮肉なことになってしまいます
さて、いったい、どんな教材が子どもたちの学力を低下させているのでしょうか
自分で考える力を奪っているのでしょうか
たとえば
文章題の式が薄文字で書いてあって、なぞるだけで1問目が解けるプリントがあります
2問目は薄文字の分量が減って、3問目は薄文字はなくなっています
いわゆる「類題練習法」で、進学塾などもよくこの手段を使います
これなら、指導力のない人にも教えられます
有名な計算プリント式教室もこの方法です
最上部に書いてある解き方を真似れば、小学校の間に高校レベルまでの問題が解けるようになります
生徒たちは、何も考えなくても、前の問題の解き方を真似ればそのプリントが埋まり、正解もします
そこで「わかった」気になってしまうプリントです
それから
計算ドリル専用ノートというのがあります
ドリルに準拠しているので、最初の何問かは問題が書き込んであったり、また薄文字で書いてあったりするのをなぞって書きます
方眼目になっているので、数字もその枠に書き込めばずれず、計算ミスも招きません
でも、
実際のテストや、中学校の数学で、そんなノートを使うことはないし、そんな用紙もないので、いつかは自力で工夫してミスのないような計算方法を工夫することになります
でも、一度も経験していない子は、工夫する方向性さえわかりません
そして、中学校の教材に増えて見られるのが、別冊解答の変化です
問題集の他に別冊解答があって、解答と、簡単な解説だけが細かに書いてあるようなものが多かったのですが、最近では、問題集のページそのままの見た目に、解答を赤字で書き込んであるような解答集が目立ちます
現場の先生に聞いてみると、解答だけ書いてある解答集では、自分の解いた問題の答えがどこに書いてあるかわからないので、問題ページに赤字で書き込んであるスタイルの方が速やかに答え合わせができるようだ、とのことでした
ちなみに小学校の計算ドリルもこの形式になって久しいです
昔はペラペラだった別冊解答集が、問題集とほぼ同じページ数になり、通学鞄の重量を増しています
もちろん、高度な数学の問題集などは解説が細かく、別冊が本書より厚いんじゃないか?っていうのもありますが、それはまた別の話で、学校教材の話です
50ページの問題4の(5)の解答はここに書いてある
誰が見てもわかると思うのですが、それを探せない子がとても多いのです
某所で中学生に勉強を教える機会があります
全員、どんぐり歴0です
「わからない」と質問してくる子のほとんどの解答は、教科書に明記してあるような超基本的事項に関することです
質問されると、「教科書を出してごらん」といい、ページを開いて、「ここに書いてあるよ」と指さしても、首をかしげていて、理解には遠そうです
私が手元のメモ帳に描いて説明を加えると、ああ、と頷いて少し理解に近づきます
勉強している生徒たちの机の上には、教科書も参考書も置いていなくて、学校から出された課題の問題集や、プリントなどが散乱し、ひたすらその空欄を埋める作業に囚われています
うーん…まだその段階じゃないなあ…という子も友達の答えを見て必死に埋めています
(まだその知恵があるだけましか…)
これ、意味わかって書いてる?
少し親しくなった子にからかい気味に聞いてみると、「そういうの、いいんで。埋めて出せばいいんだから」と苦笑します
たぶん、深く考えて調べながら書いたりしている時間などないのでしょう
「このあと塾だから!」と急いでいる子もいます
定期テストが近いとあって、前回の成績表を友達と比べながら「わたし、塾行っててこの成績だよ、やばいでしょ」と笑っている子もいます
「まじムダだよね」と友達も笑っています
そこに書いてあるのに読み取れない、読み取ろうともしない、なんて、今に始まったことではないけど、年々、ひどくなってきているのは確かです
それと相関して、学校からの課題は増え、意味もわかっていないのに埋めて、フォローもしない、というような物が多いように見えます
もう先生方も諦めてしまったのでしょうか
書店には、教科書に書いてあることをまとめている参考書がたくさん置いてあります
練習問題をする前に、理解しないといつまでも自力でできるようにはならないのに、
そんな初期段階のチェックも、誰にもしてもらえず、ただただ空欄を埋めているだけなんて、それこそ無駄な時間です
かたやDKの生徒たちと通信生の数人は、誰にも監視、管理されないのに自分に必要なことをしっかりと自分のペースで進めています
1年生の最初に、「参考書」の説明をし、教室にもサンプルを置いていますが、各自、購入していつでも見られるようにしているはずです
辞書と参考書(特に理科・社会)は必須です
でも、「そこに書いてあるのに読み取れない、読み取らない、読み取ろうとしない」子には、
無用の長物かもしれません…
そこで登場したのが、「動画学習」なのでしょう
確かに、動画学習は自分のタイミングでいつでもわかりやすい生の解説が聞けて、止めたり戻したりもできるなどとても便利で助かると思います
私も塾生限定で学習動画を配信しています
でも、これまたほとんどの生徒が「見ただけ」で満足している現実もあります
見たらそのあと、自分の中にしっかりと落とし込まなくてはせっかく見ても意味がないのです
そして、忘れてはいけないのが、今のところ、いつか必ず通過する「入試」は筆記試験であること
何かしら読み取って、自分の手で答案用紙に書き込む形式であることは間違いないのです
それが記述式であろうと、マーク式であろうと、問題用紙を読むという点では同じで、避けることはできません
動画で問題をわかりやすくかみ砕いてくれたり、アニメーションで説明してくれたりする入試はありません
(いつか出てくるのかな…)
昨年度からセンター試験に変わって実施された「大学入試共通テスト」の問題もそうでした
解答はマーク式ですが、どの科目も読解の分量は以前より増えているように見えました
たくさんの資料を読み、比較して、分析して答えるような問題がとても多いのです
いやいや、大学入試なんか共通テストで受けないし、遠い話だし
と、関係ないように思わないでください
(ちなみに、昔と違って共通テスト【旧共通一次&センター試験】を入試として使っているのは国公立大学だけではありません。多くの私立大学も共通テストを利用して受験できます)
共通テストは「最終目標」のモデルです
今の時点で、あの試験に対応する学力を身につけることが現在、学校で行われている教育の最終目標だと考えてみると、あれだけの膨大な量の問題を読み解くことが小中学校の先生方にも意識されなければならないことです
それなのに漢字練習や計算ドリルって…
そこのつながりのなさが私には意味不明ですが、どうやったら本物の学力が身につくのか、学校も家庭も考えずに来てしまった結果、今のようなねじれ状態が生じているのだと思います
そういった「学力を低下させる」「思考力を使わない」訓練を避けて通ってきたディープなどんぐりっこたちは、中学生になってからの膨大な課題に悲鳴を上げません
DKでは、私が課題を出したり、集団授業をしたり、全員に同じ進度を要求したり牽引したりすることはありません
だから、ひとりひとりが自分のペースで進めています
よく、「勉強法がわからない」と一般的に質問されることがあります
親御さんが入塾面談などに来て「うちの子は、勉強ができないのではなく、勉強の仕方がわからないんだと思うんです」などと話すことも多いです
目の前に、自転車が置いてあったとします
自転車の乗り方を知らない子どもがいたとします
その子がどうするか、想像してみてください
「自転車の乗り方」を、教えてもらわなければ乗れない、とじっと見ているか
周囲の自転車に乗っている人を見て、見よう見まねで試してみるか
どっちでしょうか
もちろん、ある程度基礎知識を必要として、心構えをしないと自転車にまたがれないタイプの子もいると思います
でも、「乗り方」を教えてもらっても、「その乗り方では危ないのではないか」などと言い訳をしていつまでもまたがらなかったら、試してみることもしなかったら、いつまでも乗れるようになるわけないじゃない、とは思いませんか
勉強の仕方がわからない、と言っている子の多くが、実際には何もしていないんです
たとえば勉強を順調に進めているクラスメイトの方法を真似ることも試さず、
勉強法の本を読んでみても実行に移すこともなく、
「勉強の仕方がわからない」とずっと繰り返し言っているだけ
自転車の前で、またがりもせず「知らないから乗れない」「危ないから乗れない」と言っているだけです
先日、ある中学生に「どうしたら大量に暗記できますか」と質問されました
私は「そうだな、100種類くらい、その方法を知っているけど、ひとつ、試してみる?」と聞くと、「はい、お願いします」というので、ひとつ紹介しました
その子は、「やってみます!」と目を輝かせました
実際に試してみて、感想を聞かせてくれるのを待っているところです
実際に試して結果を見てから、別の方法を再検討したり、その方法を洗練させたりすればいい
勉強とはその繰り返しであって、勉強内容そのものを追求するというよりも、そういった姿勢を練習するものなんです
一向に自転車にまたがらない子…「勉強法がわからない」「集中できない」とずっと愚痴だけ言ってる子
どうしてそうなってしまう子がいるんだろうな、とずっと考えてきました
最初に勤めた進学塾では、偏差値で言うと40ほども差がある最上位クラスと最下位クラスを行ったり来たりしながら、同じ学年で同じ年数生きてきて、この差はなんなんだろう、とずっと考え続けていました
勉強が積極的に自主的にできる方が優れていて、そうしない場合は劣っている、と言いたいのではありません
ただ、勉強が「苦痛」になっていくことを防ぎたい、
勉強ができないことで人間性まで否定されるような、将来を狭められるような悲劇に、子どもたちを巻き込みたくない、という気持ちだけです
DKでは数学の「全解き」を推奨しています
実教室の生徒には、自主性に任せているのでチェックもしたことはありませんが、通信生の場合は、現状把握のため、どこまで解いたか報告してもらっています
みなさんは教科書や問題集を隅から隅まで、ささやかな基本問題から応用問題まで全て、1問も残さず解く「全解き」をしたことがありますか?
DKでは、生徒より先に私が「全解き」しているので、その私のノートのコピーを冊子にして手渡しています
今は、「教科書」に限っていますが、生徒によっては「教科書は授業で全解きできているよ」という子もいるので、そういう子には問題集の全解きを個別に推奨しています
教科書の全解きや、学校からの課題も隙間時間でとっとと済ませているDK3年生のひとりは、1年生の頃に使っていたDKの数学の問題集の「全解き」を始めました
誰にも、私にも、提案もされていないし、指示もされていません
1ヶ月ほどかけてそれが終わったようで、次は2年生の頃の問題集を始めています
3年生用のものは、学校の進行に合わせて順次進めているようです
※これがDKで使っている数学の問題集のひとつです(市販されていない塾専用教材です)
そして、9月からは全国高校入試問題集を手に取りました
旺文社から出ているもので、北海道から沖縄まで、そして、有名私立高校の入試まで掲載されている電話帳のような問題集です(左が塾専用版・右が市販版です)
自分で決めて、自分で始めています
わからないもの、解けないものに印をつけて、私に質問したり、教科書や参考書で自分で調べたりしています
「そこに書いてあるよ」と言われてやっとわかるような状態、指摘されてもわからないような状態ではとうてい真似できない勉強法かもしれません
でも、同じ中学生で、同じように日本語を使っているはずです
そこに書いてあるのに、読み取れない子の中にも、
書いてあることを私が読み上げるだけで「ああ」と言う子もいます
書いてあることを絵図にして視覚化するだけで「ああ」と言う子もいます
なにかしら、理解に至るまでに困難を抱えている子もいますが、それは少しつきあうとわかります
そういう子には、そういう子に対するフォローをしています
ただただ、
自分からは何も解決しようとせず、「くまなくやってみる」という提案ものまず、気分のいいことだけを選んでやっていたら、とてもじゃないけど「勉強は楽しい」領域になんて、到達できるはずはないんです
いざ自転車にまたがっても、最初のこぎだしが重くてきついから、と諦めてしまうような状態の子もたくさんいます
もう少し、もう少しだけこぎ出せば、心地良い風を浴びて走れるのに…と思っても、最初の一歩であきらめてしまうんです
「勉強方法がわからないみたいです」と親御さんから見えているのは、「そう思いたい」という親心の幻想でもあり、そこまでの段階で、思考的にハングリーで向学心溢れる状態の脳に育っていないから、…そう育ててこなかったから、ということから目を背けてしまっているための思いかもしれません
いいえ、何度も書きますが、私は、全員に同じことをせよ、なんて思ったことはありません
ただ、苦しみながらでも、強制されたからでもなく、自分から自分に必要なことを学びに行く、試験に勝ちに行く、という気力とエネルギーを上手に使っている子が近くにいる、ということ、また、正反対で、何もしていない、何にも挑戦していないのに、いつも誰かのせいにして愚痴ばかり言っている子もいる、他にもいろんな子がいる
そんな状態を見ていて、
とにかく、何でもいいから「今を生きて」って思っているわけなのです
中学生にもなって、親に言われたから、先生に言われたから、って右往左往せず、自分のことは自分で決めようよ、そういう練習してみようよ、って思うわけなのです
でも、年長さんから中3生までの10学年を見ている私には、そういう中学生になるために、小学校までに親御さんが「すべきこと」「すべきでないこと」あるなあ、って知っていて、それを、こうやってしつこく、何度も何度も書いているわけなのです
そう育ってないのに、中学生になったからっていきなり多くを期待したって、子どもはびびってしまうわけです
急に手を放されても、不安になってしまうわけです
それに、親がいつも愚痴っていたら愚痴っぽい子にもなるわけです
親に向学心がなければ、向学心のない子に育つわけです
そして、
やはり重要なのは「丁寧な暮らし」だと本当に思います
動かない文字から読み取る、ということが象徴している、「丁寧な暮らし」です
みなさんは、どうですか
動かない文字から読み取って、想像して、思考して、日々、生きていますか?
「そこに書いてあるのに」気づかないことは、ありませんか?
丁寧に、読み取る暮らし、聞き取る暮らしを
子どもたちと一緒に