どんぐりは、誰にでも効果的で、唯一無二の学習法です
と、糸山先生は断言なさっています
30年近く塾講師をしていて、どんぐりに関わって20年の私、さらに勉強法マニアの私も、それは確信しています
これは、
自分の子どもしか見たことがなくて、自分自身の学校、勉強、受験等の経験しかない親御さんたちの多くが、いっぺんに納得してすぐに実践に移せるか、っていうとそれは難しいことです
さらに、
国の決めた方針に従い、都道府県の教育委員会に従う管理職の元で子どもたちを管理教育しなければならない学校の先生にも、容易に選択できる方法ではないことはわかっています
「理解するのに時間がかかるなあ」
「難しいなあ」
という感想を述べてくださるだけならわからないでもありません
それでも理解したい、という方に一生懸命伝え続けています
でも、
人間というのは、自分の辞書にないものを理解しようとなかなか思えない
それどころか、敵対視して排除しようとさえする傾向があります
だから、
一見、とんでもないやり方を推奨するどんぐりが、受け入れられない+嫌われてしまうのもわからないでもありません

世の中の進化が、子どもが健全に育つために必要だったものをどんどん無くしてしまった
だから、それを補うためにどうしたらよいかを糸山先生は研究した
それでどんぐり理論ができた
その「研究した」の部分を自分で、それぞれができるのであれば、別にどんぐり理論を知らなくても大丈夫でしょう
でも、私は塾講師になって10年間悶々としていました
どんぐりに出会う前です
これはなんなのだ?と時々深く悩みました
進学塾の教壇で、
個人塾のボードの前で、
家庭教師先で、
子どもたちの学力の源は、いったいどこにあって、どこをどう流れていくの?
ここがこうなったらもっとこうなるなあ、って気づいた時、どこをどう導けばいいの?
糸山先生が研究してくださった理論に出会った時の衝撃は、本当に、脳内に大きな衝撃音が鳴ったかのようでした

教育の目的とは?
文部科学省はこう言っています
教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない

誰か手本はいるのかな
国のエライ人はみんな高度な学歴を経てこのような人格形成に成功した方々なのかな
どういう人がこの目的の模範生なのか、一度見てみたい…
ホセ・ムヒカ大統領のような方が、日本の政治家にもいるのかしら…

人格の完成
真理と正義を愛する
個人の価値を尊ぶ
勤労と責任を重んじる
自主的精神に満ちる

なるほど…

で、どうやって?
その方法は、国が定めた教育機関でしっかりととられているのかな
でも、それで、国が定めた教育機関に通えない、通わない子が24万人超の過去最高
さあ、大変だ、どうしよう、どこが間違っている?どう改善していく?と、
きっと、国の教育を担うエライ人たちは、一生懸命考えてくれている、と信じたいです


糸山先生はこう書いています
私は子ども達に自分の人生を楽しめる人間になってもらいたいと思っています。
そして、その基礎力が考える力であることは言うまでもありません。
教育とは、決して知識の切り売りなんかではありませんし、
問題の処理方法を教えることでもありません。
教育とは学力を育むことです。
そして、親である以上、あるいは教育者である以上は、
間違っても「知識=学力」あるいは「処理能力=学力」などと思ってはいけません。
学力とは人生を有意義なものにする必要不可欠な考える力のことなのです。
教育は子育ての一環です。保護者も教師も教育者です。
ですから、子どもと接する機会のある人は誰もが「教育とは何か」を
真に分かっていなくてはいけません。
教育とは人生を楽しむことが出来る力を育てることです。
一人一人が自分独自の判断基準を創り出すことが出来る力を育てることです。
そして、学力とはこれらの様々なものの見方・考え方を理解できる力のことです。

たとえば発達がゆっくりの子や、周囲からの刺激に敏感な子が、
教室や家庭での学習に集中することに支障を来すとします
そういう子への学校での対処にはいろいろな方法があるようです
私の関わったお子さんのケースでは、
ある小学校の場合はとにかく、単純な計算だけはできるように、と一生懸命教えられ、練習させられていました
難しい文章題や、仕組みを覚えなければできない課題はやらせても難しくてできないから、それなら、単純で誰でもできるようなことを徹底的に身につけさせよう、という方針だったのだと思います
これは、「処理能力=学力」という誤解の最たる例ではないでしょうか
また、ある元教師の方の話では、そもそも単純な計算ドリルや漢字練習をやらせるのは、いわゆる底上げが目的であり、全員の学力を上げるためというより、「底辺」の子でもみんなと同じことができる、という救済のような雰囲気で始まった習慣だということでした
その時は、先生が教えたことが(単純作業なので)わりとよくできて、丸をもらって子どもも満足でしょうし、先生も満足することでしょう
でも、それ以上には発展しませんし、単純作業をひたすらさせられることによる弊害が表れてきます
それは、深く考えることや、工夫しなければできないことを避けるという傾向です
学校では、全員が足並み揃えてできることを重点的に授業を構成しています
作業が早い子には退屈で、遅い子にはやっとこさです
そのための電子端末の個人貸与だ、と言われていますが、実際に上手に活用できている例は少ないようです
早くできて端末で先取りしていい、と言われた子の全員が、真面目に次の課題に取り組むかといえば、そうはいかないのが子どもです
電子端末で個人的に進めていいのなら、教室に集合する意味など最初からあるのでしょうか
私が子どもの頃図書室で見た「未来予想」の図鑑にあったように、いずれ、教科書も授業も全て電子化し、学校に行くことはなくなる、という世界が、いま、始まりつつあるのも事実です

話が逸れましたが、
「学力」(と思い込まれている)をつけさせるために単純な計算を大量にやらせたり、漢字練習をさせたりすることで足並みを揃えよう、底上げをしよう、とする教育者の方法は、その先の目標として何が掲げられているのだろう、といつも思うのです

それは文科省の言う、
人格の完成
真理と正義を愛する
個人の価値を尊ぶ
勤労と責任を重んじる
自主的精神に満ちる…といったものでしょうか
え、それのいったいどこがこれを目標としている?と誰か思いませんか
そうか、単純な作業なら誰にでもできるから、せめてそういった労働者になれるよう訓練が始まっている、ということでしょうか
以前、人気のカリスマ起業家が、ネット番組で豪語していました
人間は偏差値別に教育を変えればいい、と
偏差値60以上の人は放っておいても自分で学べて、働ける
偏差値50以上ならある程度の指導でなんとかなる
でも、それ以下の場合はいくら教えてもできないことが多いから、単純作業だけで生きていけるようにすればいい、と

「学力」(ではないんだけれどもね)をつけさせるために単純な計算を大量にやらせたり、漢字練習をさせたりすることで足並みを揃えよう、底上げをしよう、とする教育の行方が、どこに向いているのか私にはわかりません
国や学校が、まさかこの起業家のような目標を持っているとは思いたくはありません

でも、糸山先生の掲げるどんぐり倶楽部の教育目標はどうでしょう
もう一度、上の赤文字&赤文字の部分を読んでみてください
そんな綺麗事を…
そんな絵空事を…
そんな風に思う方もいるでしょうか
それなら偏差値別教育法を支持なさいますか

私にはこの目標しか見えないんです
私の教室の目標でもあり、
私自身の子育ての目標でもあります

自分の人生を楽しむのが目的、なんて、自分本位では?
結局、他人のことはどうでもいい、って意味では?
と考える方はおそらく、自分の人生を楽しめていない方です
人生が楽しいのは、家族や他者との関わりも楽しんでいるからです
人生が楽しいのは、自分で全部できるという意味ではなく、できることは家族や他者のために、できないことは家族や他者に補ってもらいながら、協力して尊重し合って生きているからです

一人一人が自分独自の判断基準を創り出すことが出来る力を育てること
そして、学力とはこれらの様々なものの見方・考え方を理解できる力のこと

そこに、
偏差値は関係ありません
でも、
どんぐりをやっていると手に入るとか入らないとか言われているハイブリッドブレーンは?
結果的にお子さんの輝かしい学歴を公表しているどんぐり実践者さんもいて、ゴールはそこなの?と思われる方もいらっしゃるかもしれないし、●●教育法である限り、ゴールはそこに決まっているでしょ!って思っている方もいるかもしれません

さあ、どんぐりの最終目的地はどこ?

次回は、「個人差あります!?」の核心に迫ります

昨日、何回もお話ししているどんぐり実践者さんとのzoom面談の中で色々考えさせられたので、熱いうちに文章に残しています
後編へ続く…