どんぐり学舎の庭にいる雄鶏のくぅが、
指を負傷中です
毎日ビワノハエキスで治療中
そして包帯を巻いています
痛々しいけど、他県に住む長女に相談しながら、病院にかかるかどうか考えながら、少しずつ回復しているとみて、朝に晩に、様子を見ているところです

先日、
生徒たちが来る時間に合わせて放鳥し、私は雄鶏を抱えて消毒をしていました
いつもは鶏小屋にいることが多いので、外に出ていること、そして、私が抱っこしていることが珍しく、子どもたちは興味深そうにわあっと覗き込んできました

覗き込んだうちのひとりが元気よくこう言いました

「死んだの?」

出た、出た
数年にひとり、こういう子がいます

「怪我をしてるから治療しているの」
と、答えた後、
「なんでそんなひどいことを言うの?」と私は問い返しました
(あとでなんで「問いかけ」の言い方にしてしまったんだろう、と後悔しました)
でも、
その子の表情は、以前、同じことを言った子とまったく同じでした

「は?」

そんな表情です
自分が何を言ったのかわかっていないし、
私に何を言われたのかも全くわかっていないぽかんとした表情でした

ペットは、
飼い主が家族として一緒に暮らしているもので、
なんというか…言葉で言えないけど、飼い主にそんなことを平気で言うなんて、
私には理解ができません

でも、そういう子がときどきいることは知っています
他のペットについても、「これ、いつ死ぬの?」と聞かれることもよくありました

死ぬとか殺すとか、言うもんじゃありません!って説教した方がいいとか、
そんな言葉は使ってはいけない、と禁じた方がいいとか、
そんなことが言いたいのではありません

何も考えず、簡単にそういう言葉を発するということを、
親御さんたちにはよく考えてほしいのです

人も、動物も、いつかは死ぬので、死というものが怖くて汚くて恐ろしいものだなんて教えたほうがいいなんて思いません
いつかみんなに必ず訪れるのが死です
死、殺、という言葉と、実際のそれらとが結びついた上で発言しているわけではないこともわかります
でも、
絶対にそんなことを言わない子の方が多い
大事にしている生き物が怪我をしているのを見て、心配してくれる優しい子の方がずっと多い
それなのに、
死んだの?
死ぬの?
とあっけらかんと聞いてくる子も時々、いるのです

どうしたもんかなあ
と、そういう子を見ているといろいろと考えます
そういう発言も軽ければ、その他の発言も軽く、一見、賢そうに見えたりもします
だから親御さんも疑ってもいないかもしれないし、
死ぬの?死んだの?なんて我が子が平然と口にするなんて思っていないかもしれない
または
そう言って何が悪いの?と疑問に思うかもしれない

以前はここに書かずに、教室内で配布する通信に書いたことがありました
どう思いますか?という問いかけの形で
それを題材に、家族で話し合ってくれた家庭もありました
それをしてください、と頼みたいわけでもありません
説教じみた家族会議で言うくらいなら話題にしない方がマシです
大人の価値観を「いけません!」と植えつけたいだけなら、ね

私が言いたいのはそういうことじゃないんです

ここのところ、『Good Doctor』というアメリカのドラマを見ています
毎日ではないのですが、見続けています
主人公は自閉症の若い男性医師で、医学的知識や技術においては天才的なのですが、コミュニケーション能力に不得手があり、自分の特徴をよく自覚して生きています
自覚はしているけど、言葉を選ぶことや、そのとき発言してはいけないことが瞬時に判断できないので、同僚や上司にその都度教えられながら、少しずつ、患者や患者の家族との交流にも慣れて成長している物語です

その医師が、簡単に言います
正確なデータとして、あっさりと
「あなたは死にます」と

アメリカでも告知には慎重に向き合うようで、どのタイミングでどのように伝えるのかをチームで相談したりもするのですが、主人公はあっさりと、自分の問われたタイミングで言ってしまいます

患者や家族はショックを受けますが、ドラマなので、結果的にそれでよかった、言ってくれてよかった、みたいな流れになることが多いです
よくできたドラマで、自閉症の主人公は私の知っている実在のそういう人たちとよく似ています
素敵なところも似ているし、困ったところも似ています
でも、言ってはいけないことをあっさり言ってしまい、周囲を混乱させるとき、「ああ~」といつも思ってしまうのです
でも、
指摘されても、
彼にはわからないのです

だって事実でしょう?
嘘をつけというんですか?
と、同僚や上司に指摘されても、そう反論した上で、ぽかんとしているのです

そう、「死んだの?」と言って私が「なんで」と問い返した時の、
子どもたちも同じ顔をします

自閉症の人は人の表情や、言葉の裏側を理解することが難しいと言われています
「だいじょうぶ」と言っても大丈夫じゃないのよ、と恋人への対応について同僚に教わり、大困惑していた場面がありましたが、まさにそんな感じ
「どうしてそんなこと言うの?」なんて問いかけの形で言ってもダメなんです(前述)
でも、
「その言葉は言いません」と教えたところで、それも違うんだろうな、と思うわけです
その子は自閉症ではないし、
もしかしたらそれに関連する脳の特徴を持っているのかもしれないけど、
そんな発言くらいで診断するものでもないし、
だったらじゃあ、
なんでそんなことを言うんだろうな、って私はここ数日またずっと考えているのです
これは脳の特性なのか…それとも育て方なのか…育った環境なのか…
問題視して親御さんに言うべきか…
言うまでもないか…
言ってもスルーされるのか…

テレビやゲームや動画のような、実物でないもののなかで、命は消えたり蘇ったりします
私が塾講師になった30年くらい前に、子どもたちが「リセットボタンを押せば死んだ人が生き返ると思う」という子が多数いるというなんだかの調査結果に、世間がいっとき騒ぎになったことがあったと以前も書きましたが、まさかそんなこともないだろう、と当時は思っていました

でも、今、あれからずっと子どもたちを見てきて、本当にそうかもしれない、と少し思っています

本物の命そのものの問題だけじゃなく、なんというか、生身のいろいろなものの経験、親子でも、近所でも、友達でも、親戚でも、なんだか、人工的で機械的なものに囲まれていて、世界がまるっと、自然がまるっと、味わえなくなっているんじゃないかな、って思うのです

落ちてくる花びらや葉っぱを見て、家族でいろんな話をしている家庭と、
毎日忙しくて、なんならテレビやネットに子守をさせてる家庭とで比較しても、
細やかな命の営みや、人の心の機微などが、自然とわかる、感じとるように育つ可能性は、どういう家庭の方が高いか誰にでもわかります

きっと、後者の家庭が増えて、
「そんなの教えごとじゃない」っていうような些細な、でも、大切なことが、子どもたちに伝えられないまま、成長だけさせてしまっているんだ、と最近はわかるのです


え、別に命なんかどうでもよくないですか?死ぬとか言って何が悪いんですか?
そんな、言葉尻捉えて文句言ってなんか意味あります?
と、いうような、…最近、普通に過激なことを言う頭のいい人たちが人気です
でも、彼らは突出した天才、特殊な思考回路を持った天才であって、子育ての手本、指針にはなりません
そう主張して論破できるようになる人間にいつかなるとしても、
本当に命や死についてなんでもない、どうでもいい、みたいな考えが心の奥底から、根底からあるとしたら、本当は誰にも支持なんかされないはずです

子どものうちに、そんな天才の理論など、当てはめなくていいんです
ただまず人間に育っていればいい
人間は、自分だけの能力では生きていけないんです
いろんなものの命を大切にいただき、そして、人間同士補い合いながら生きていく
子どもが小さくても、親はそれを、全力で、全身で伝えなければならない、
それが、子どもを授かった親たちの逃げられない使命なんです

死んだの?
そんなの殺せばいい
死ね!

平然とそういう言葉を口にする小さな子どもに出会うと、
私は恐怖を覚えます
いくら小さくても、見た目がかわいらしくても、
ああ、人間に育っていないのかも
人間に育てられていないのかも
人間に育つことよりもなにか別のことを優先して育てられ、大事な部分が育たないままきてしまっているのかも…と