こちらこそ、
ありがとうございました
スポーツとの両立、
私立受験との両立、
いろんな経験をさせてもらいました
子育てしながら学校へ通い、子どもと机を並べて勉強し、
夢の資格を得る、という神業も見せていただきました
尊敬します

どんぐりに適する子と、適さない子がいる、とか
いろんな勉強法があるから向いていない子がいる、とか
いろいろ言われますが、
勉強マニアで、子どもマニアの私には、
どんぐりは全ての学習法の基本に差し込んでおくべき経験だと確信しています
絵を描いて解くなんて、
絵が得意な子や好きな子はいいけど、
そうじゃない子には向いていないんじゃないか
そう言われることも多いです

でも、みんな忘れています
私たちが視覚イメージの中で生きていることを
言語を見るのではなく、
画像を見ていることを

りんご

って言ったら、頭の中に文字ではなく、絵が浮かぶことを
絵といってもたぶん、画像だと思います
見たことがある本物のりんごの画像だと

それを、じゃあ、正確に描写せよ、って言われたらもちろん難しいです
私の脳裏には、
若き日のディカプリオ!って言われれば、
アルマーニを細身で着こなすReoの容姿がはっきりと思い浮かぶけど、
それを白い紙に描き写してごらん、って言われたって無理です

とにかく、
脳裏には文字でなく映像、画像が浮かんでいる
これが、視力が健康な人にとってはふつうのことです

いつからでしょう
経験より先に、
目で見て感じとることの先に、
文字や数字をインプットしてしまおう、という教育がはびこってきたのは

なんてことない数量体験
配る、分ける、均等にする、ならす、倍にする、区別する、比べる…
そういう体験が乏しいまま、いきなり数字や数式を教え込み、
何も考えずに計算だけできるようにしてしまう

春がなんなのか、朝がなにで夜がなんなのか、月や星を見たこともないのに、そういう漢字を覚えさせ、本を読ませ、覚えさせる

小さな子どもの素晴らしい順応性で、あっというまに暗記してしまったりするんだけれど、私にはその状態が、危なっかしくて、怖くて、見ていられません

どんぐりをやっていると、
数字や数式を覚えていてもなんの役にもたたないので、
ごく当たり前に、紙上ではありますが、
数量体験ができます
家族の会話や、自然遊びの中で、言葉にしたい感情も自由に溢れてきます
感情が溢れて、その先に、
伝えたい、って気持ちが湧いてきて、
伝えたい、って気持ちから、文字が必要になってくるのです

昔は当たり前だったこの獲得の過程が、
すっとばされてしまう昨今、
ともすると危うく見える子どもの学力を、
補うためにまた、本来の獲得段階を無視した強引な手法を考え出す大人たち

長年、指導要領や学校教育の変遷や、教育業界の流行を見続けてきて、
本当に大切なところをすっとばしたらいくら上に伸びているように見えても危ないのに…と
ずっとずっと感じています
そして、だから、伝えています

出会った頃から活発で、言葉は多くないけど、どんぐりのクロッキー帳の中では饒舌でした
小学校高学年の頃、
お母さんが「先生、申し訳ない。今ごろ気づいたんですけど…」と、
我が子がしっかりとした思考力を持っていることに気づかされた一例を話してくれたことがありました
それは小学校で先生が余興的に配布した「思考力プリント」で
クラスの誰も解けなかったし、あきらめてしまった問題を、その子はあっさり楽しく解いてしまったんだ、と
その頃から、
もしかして、大丈夫かも…
と思ってくれたみたいで、
結局、中3まで独学を続け、高校受験のない内部進学の私立の中でも、自分の勉強方法を見つけ、好きなサッカー以外でも前向きに取り組めるようになってきたようです

最近、
自然栽培のりんご農家の木村秋則さんの本を読み返していて思いました
これは、
子育てのヒントにもなるのでは
どんぐりってまさに、こういうことなのでは

一見、同じように美味しそうなりんごがなるかもしれない
綺麗なりんごがたわわに実るように見えるかもしれない
でも、どれだけの薬品や消毒を必要とするのか
それが当たり前になってしまっている
本当は、
りんごは自分の力で葉を繁らせ、実をならすことができる

葉を繁らせ、実をつけるまえに、土の中にしっかりと根を張るりんごは、
一般的なりんごと比べると、
成長が遅く、残念に見えることもあるそうです
でも、ずっと待っていると、比べものにならないほどしっかりした根を持つ自然栽培のりんごは、時期が来るとしっかりと豊かに葉を繁らせ、
人間を癒やしてしまうほどのエネルギーを持った不思議な実をつけます
それが奇跡のりんごです

そんな木村さんの『奇跡のりんご』の誕生のお話を最後に

木村さんは、死に場所を探して夜の山に入りました
手ごろな枝を見つけ、そこにロープをかけようと投げました
すると、ロープは枝をはずれ、崖の下に落ちてしまいます

「最後の最後まで失敗か…」

そう思い、斜面へと足を伸ばし、ロープを拾い上げたその瞬間、木村さんは目を見張りました
そこに、葉を青々とつけたリンゴの木が立っているではありませんか
一体誰が農薬を?農薬なしでりんごがの葉が繁るはずはない…試して失敗してきて、死を覚悟したのですから
一瞬そう思ったのですが、そこは山奥、そんなわけがあるはずがないのです
その木は、その木の力で、そこに立ち、葉を繁らせていたのでした

近づいて、よく目を凝らすと、実は、それはりんごではなく、ドングリの木でした
しかし、木村氏の心はドクドクと脈打っていました
彼の中で、「すべてがわかった」という感触があったのです

木村さんはマッチをすり、光を当てて、夢中でそのドングリの木をまじまじと見ました
森の木々は、誰にも世話されず、薬も与えられず、消毒もされず、でも、見事な実を付け、生きている
害虫にも病気にも犯されずに

何が違うのだろうか

そして観察し、わかったことがあったのです
それは、目に見えない部分、
いや、見ようとしてなかった部分にあるのではないか

ドングリの木の周りの土を見ました
ふかふかで柔らかい
地面を掘り返しても、手でどれだけでも掘り進められます
温もりを感じ、暖かい
ツンとした大地の香りがします
その香りをいつくしむかのように、木村さんは思わずその土を口に含みました

何が違うのか?
うちのリンゴの木、うちの畑と、どう違うのか?
それを知りたくて、山を駆け下り、畑のリンゴの木と比べてみました
すると、畑のリンゴの木の土は
冷たく、固かった
表面には、温かみはあります
しかし固く、少し掘り下げると、冷たい
生命の温もりが、ない

ドングリの木は、白く綺麗な根でした
細い根も、大地中に張り巡らされ、美しかった
しかし、リンゴの木の根は、
細く、弱く、生命の力が感じられないのです

そして木村さんは思いました

『問題は「目に見えない部分」 地面の下、すなわち「土」にこそあるのではないか。
 私は、害虫や病気を駆除しようと、あらゆることをやってきていたつもりだった。
 でも、結局は「目に見える部分」しかみていなかったのだ。
「目に見えない部分」、すなわち 根の強さ、生命の繋がり、それを高めて、
リンゴの生命力を伸ばしてあげること、それこそが大事だった。なぜ今まで気が付かなかったのか』

畑には、害虫とされる蛾もいれば、蜂もいる
そして蛙も飛び回り、それを追いかける蛇もいる

しかしそれぞれが一つの生態系として、土をはぐくみ、大地に栄養を与え、リンゴの根に活力を与えていたのです

9年目、ある日のこと

死の淵に瀕していたリンゴの畑には、その畑いっぱいに、リンゴの白い花が上を向いて咲いていました
そして、そこから取れたリンゴは、不思議なことに腐らないというのです
小さく枯れたようにしぼみ、ポプリのようにほのかに甘い香りを残す
大型の台風が来て、他のリンゴ畑が壊滅的な状態だったとときも、
木村さんのリンゴは強く、実も落ちなかったといいます

そうして、「奇跡のリンゴ」となったのです