ちょっと立ち止まって考えたらわかるのに
自分の頭をゆさゆさ揺さぶって感じとれば、気づくのに
考えて、わかった上で行動しているのかな、言動しているのかな…
世の中、
首を傾げたくなるようなことばかり
以前からその傾向は強く、
テレビで「健康によい」と紹介された一般的な食材がスーパーの棚から消える現象など、驚くようなみんなの動きはあったけど、今はネットでみんなの決意が動く時代なんだから本当に、どこまで「自分の頭」で考えているのか…想像しようもない事態が起こっており…
日曜日、
群馬のオルタナ校ゆずり葉学舎に来てくれた篠先生に少しだけお会いできて、
帰りの列車に乗るために駅まで送る間、つかの間だったけど、篠先生といろいろな話をしながら、ああ、みんなに聞かせたい…って思いました
みんなとこの話を分かちあいたいって思いました
同じ景色を見ているはずなのに、
それぞれに見えるものは違って、
受け止め方も違って、
それは当たり前なんだけど、
最近、どうして、そう悲観するんだろう、そう安易な結論を出そうとするんだろう、と
不思議に思うことが増えました
これは、
30年以上同じ仕事を、子どもたちやその親御さんたちとつながる仕事を続けている私から見える特徴的な視点なのかもしれないし、なんにも数値化されてはいないんですけど、体感というか、直感というか…
自分だけが時代を逆行していて、周囲がどんどん違ってきている感覚があります
そして、
目の前にいる子どもたちは本質的には30年前となんにも変わっていないんです
変わっているのは世の中と大人たちで、
産まれて10年前後の子どもたちは産まれたまんま、まずは人間として当たり前の成長をし始めているところなんです
それが、その後、大いに社会や大人たちの影響を一手に受けて、もちろん、イマドキの特徴的な成長を遂げていくことになります
何も、意識しなければ……
自分で考えず、ネット情報が一番正確で重要だと思うような
みんなが選んでいるからそれが正解だと思うような
みんなが買っているからそれが悪いものであるわけがない、と決めるような
そんな大人になっていきます
悲しいけれど、きっと
それが「選んでいる」のではなく「選ばされている」ことや、
「買っている」のではなく「買わされている」ということにも、
気づかずにそうしてしまっている大人に
少なくともこうして、
自分なりの方法で文章問題を解いている子達は、その時間、誰に教わることもなく、自分の考えで過程を積み上げています
その、ごく当たり前で、ごく自然な解法、その過程を毎日目の当たりにし、どうかこのまま大人になってください、と願う日々です
でも、どんぐりをただの学習法だと思って、小学生時代に取り入れてみましょう、ってなくらいで他の学習法や学習塾と比較してなんだかちょっといいかも、って気分で始めた御家庭の中には、このまま中学生の学び、高校生からの進路選択などに繋げていけないケースもあります
それは、勉強ができるようになるとか、思考力が身について本物の学力が身につくとか、そういうことより前に、本当に大切な、自分の頭で考えて、自分で取り組む、という姿勢そのものが、育っているかどうかにかかっています
そしてその背景には、
親御さん自らが、自分の頭で考えて、自分の頭をゆさゆさして、学ぼうとしたのか、知ろうとしたのか、という姿勢そのものが影響していると感じます
そんな難しいこと、とても無理
忙しくて、そこまでのめり込めない
子どもの思考力さえ育ってくれたらそれでいい
いろいろな声が聞こえてきます
でも、
私の経験から結論として出ているのは、
真似事ではうまくいかないってことと、
親が勉強せず子どもだけなんとかしてよっていうのも論外ってことと、
学校に行っている時間とか、
習い事に行ってる時間とかよりずっと長く、
家族で過ごしているんだ、っていうこと、その質によって子どもは決まるんだ、っていう事実です
勉強ができるかどうかとか、
学歴がどうかとか、
そんなことよりずっと大切な、
人間としてどう育っているかということ
話が逸れて難しくなりましたが、
先日、
「私は意識高い系じゃないから、どんぐりのことを質問するのも申し訳ない。どんぐりの仲間に入れてもらうのも、恥ずかしくて難しい」と、初対面の方に言われてハッとしたんです
どうして?
知りたいと思うなら、
自分がどう思われるかとか、恥とか、気にしなくていいのに
子どもにとって、御家庭の子育てにとって、どんぐりが必要かも、って思ったら、
意識が高いとか低いとか関係なく、学ぼうとしてくれたらいいのに
教室に体験に来てくれたり、自然遊びに初めて来てくれたりする親御さんたちは、
元々在籍していて、慣れている親御さんたちとよくおしゃべりをしています
何を話しているのかは聞こえなくても、雰囲気はわかります
みんな「はじめて」の頃をよく覚えていて、不安な気持ちや、わからないっていう気持ちをしっかり覚えているから、誰に対しても優しく、共感力たっぷりに触れ合っている様子がわかります
私だって、無理にどんぐりを薦めたことなど一度もないし、勧誘したこともありません
むしろ、御家庭の状況やそれまでの子育て方針を聞いて、「取り入れるのは難しく、あまりにも大変だと思うので…」とお薦めしないことも珍しくありません
それでも、
御家庭で取り組んでいく、子どもを育て直す、くらいの覚悟をして、本気で質問してきてくれたり、本当のことを打ち明けてくださる場合には、どんな状態でもできるかぎり一緒に考えて前進しましょう、とタッグを組んでいます
だから、
まっさらで何にも知らない、
これまで間違えてしまってた、これから変わりたい、
なんてスタートは大歓迎なのです
親が解放されると子どもはどんどん伸びていきます
解放されるためには学びが必要だと思います
保護者さん同士の対話の中でも、私と話した後でも、
「そういうことなのか」と気づきを得て、心身共に軽くなった、とおっしゃる方は多いです
今まで、これもやらせておかないと、あれも頑張らせないと、って思い込んでいた、と
先日とある場所で、某難関校にお子さんを通わせている親御さんと話しました
仕事で出会った訳ではないし、初対面だったので、お相手は私のことを知らないのですが、縁あって、お話する機会を得て少しの間、お互いの子どもの話などしたのです
小さい頃から叱咤激励し、せっせと塾に送迎して、その学校に合格したのはいいけれど、入学してみたら周囲はみんな各中学校のトップクラスの集合ですから、その中で上に行くのは大変なこと
普通にしているくらいじゃ成績は下がる一方で、まだ塾に通わせ続けているけど、毎日、お小言を言うしかない状態で、親子関係の状態もあまりよくなくて悩んでいる、と
相談されたわけじゃないけれど、私が感じることを伝えると、
別れ際には表情が変わっているその方を見て、ああ、みんな一生懸命で、我が子のために必死で、どうにかしてあげたい、どうにか助けたい、っていろんな方法を探してるんだな、って心がグラグラしました
でも成績を上げたいとか、点数を取らせたいとか、そういう親の希望が直接届くのはせいぜい小学生まで(明日のテストの漢字を覚えさせるとか、そういうの言うこと聞いて従順に特訓に従う限界年齢)で、その先は、子ども自身が掴み取りに行くような勉強をしないと点数など取れないんです
それなのに、親御さんは成績表をみて愕然とします
それで、精神論に踏み込んでいくわけです
思春期の子にとって、いちばん、踏み入れるのが難しい、慎重にすべき精神論の領域に
誰だってその状況にはやきもきするでしょう
でも、やきもきしたってどうにもならないのも事実で、
やきもきしてその気持ちを子どもにぶつけたら、この方の言うとおり、親子関係の状態に影響してしまうのです
じゃあどうしたらいいのか、っていうと、
そのくらいの年齢になる前に、親も自分自身の力をつけておくことです
子どもの思考力やホンモノの学力を育てながら、
自分自身の子育て力を強化していくんです
子どもの成績に一喜一憂してしまうのはその方の性格のせいではありません
そういうことにどういう意見を持つか、どういう印象を持つか、どうとらえるのかは、
いろいろなことを学び、感じとる力がついているのかどうかに関係があるのです
篠先生と話した中で、
同じものを見ても全然違う風に見える、という話題になったとき、
子どもたちが必ず通過する学校の勉強や受験、お友だち関係のトラブルや先生とのいざこざ、そういう思春期がらまりの問題をどう受けとめていくのか、その親の姿勢も、
同じようなことが起こっているのに全然違う対処をしている御家庭を見比べてみると、
やっぱり親御さんの思考経験の豊かさ、心の体験の豊かさが関わっているように思えます
誰にでも初めてはあり、
誰にでも未熟な時期があります
私もたくさん、たくさん、たーーーくさん失敗しながら、それでも、学ぶこと、心を揺さぶることを恐れずに進んできました
「親」として生きるのは生まれて初めてなので、今でも未熟な親であることに変わりはないけど、成長し「子育て」期が終わりつつある我が子達に対し、憧れと誇りに満ちたような面白い感情しかありません
小さい頃からの夢を貫き、来春から社会に出ようとしている長女にも、
大学受験を控えた次女にも、
不安な気持ちなど微塵もありません
ただただ、一生懸命高くジャンプしようとしゃがみ込んでいるのを少し離れて見ているような
もし跳ぶのに失敗して転んで助けを求めてくるようなことがあれば、思い切り両手を広げて受けとめてあげられたらいい、その両手がそのまま、役立つことがなくたって、一生両手を広げていよう、って、それが親としての、最後の務めであり、楽しみである、と想像するくらいで
何度だって、また、跳ぼうとするだろう、と
それをずっと、少し離れて、両手を広げる準備をして見ていよう、と
子育てといいながら、育っていく主軸は親である自分自身です
親が変わらないと子どもは変わらないのです
親が学ばないと、子どもは学ばないのです
だいじょうぶ
やっぱり私は、みなさんに対しても両手を広げているつもりです
子どもの育つ環境はそれぞれで、どんぐりの環境設定に向かってどう整えていくかも、
各家庭次第です
でも、覚悟を決めたなら、必ず実践できます
ぜひ、飛びこんできてください
仲間はたくさんいるんです、案外