知人の家でランチを御馳走になりました
野菜中心で、麹をふんだんに使ったシンプルな料理ですが、お腹も胸もいっぱいになりました
どれも簡単よ、と教えていただいたけど、家族のため、誰かのために丁寧に作って寝かせた料理は、
食べる人を安心感で包むのだ、と実感しました
定期的に届く、保険会社さんからのフリーペーパーに、料理研究家の土井善晴さんのインタビュー記事が掲載されていました
何度も、何度も読み返してしまうほど、素敵な文章だったので、一部抜粋してご紹介します
忙しくて毎日の献立を考えることさえ大変だ。でも毎日の食事はきちんとしたい。理想と現実の矛盾にストレスを感じてしまう人は少なくない。
土井さんは、「健康に生きるための家庭料理は一汁一菜でよい。そのうえで、余裕のある時にプラスして作るお料理はすべて楽しみです。」と語る。
(中略)
「一汁一菜とは、ご飯・味噌汁・漬物という最小限の献立です。具をたくさん入れた味噌汁を作れば、おかずの一品を兼ねますから、ご飯と具だくさんの味噌汁だけで一汁一菜です。味噌汁には何を入れてもいいんですよ。味噌も漬物も微生物の働き(発酵)から生まれた自然物。ご飯も水加減して火を入れただけのものです。一汁一菜は、毎日でも飽きることがないのは、人間が作ったものではないからです。」
土井さんは、人間の起源から食事を考える。
「人間は料理をすることで人間になったのです。料理しないと、人間は食べられない。生の肉は噛みちぎれないし、加熱しない野菜は消化できない。人間は大自然の中で、生き残るために料理を生きる戦略としたのです。」と語る。
いまは、加工食品やお惣菜を買ったり、外食で食事を済ますこともできるため、料理をしなくても済むとはいえる。
「本当に、それでいいのであれば、食事で苦しむことなんてないはずです。苦しむのは料理したほうがよいことを私たちはしっているからですね。食べ物を買って済ませることも悪くないですが、そればかりでは、健康面、経済的、自己実現のためにもよいことではありません。」
では、どうすればよいのだろうか。
「どんな暮らしをしている人にとっても、家庭料理は思うようにはならないものなんです。料理はそんなおおげさなことじゃありません。一汁一菜であれば、誰でも料理できるんです。やってみれば案外簡単なことです。まずは料理すれば必ず、よいことがあります。まず健康になりますし、もっとよいことだって、きっとありますよ。一汁一菜は、手抜きではありません。あまりに簡単だから料理のうちじゃないと思われるのでしょうか。料理する動物である人間が、毎日料理して健康に生きる持続可能な食事のスタイルです。一汁一菜という食事の型を持つことです。型があって自由になれるのです。のびのびと生きやすい暮らしの創造のはじまりです。」
(中略)
「料理は愛情」いいえ「料理が愛情」
「それぞれの時代の必要は違って当然で、生活が右肩上がりになっていく昭和の専業主婦の時代は「家制度」の名残がまだ強かったんです。家事はすべて女性がするという考えです。主婦にとって、豊かさの象徴である食卓の上にいっぱい料理を並べることが喜びでした。敗戦後、食べられない時代からの反動で、家庭料理に対するモチベーションは非常に高かったと思います。みんながレベルの高い御馳走を作りたかったんでしょうね。」
(中略)
「現実の母の料理には、時々にある食材、時々の家族の状況に応じて、おかずも味も変化するものです。つまり、レシピに頼っていられない、それが家庭料理ですね。
女性が仕事をするようになっても、家庭料理に豊かさやおいしさを求める家族がいるわけで、料理研究家の仕事は、御馳走を作る楽しさを伝える方法としての「レシピ」を作りメディアに乗せることでした。私も実際に書いたレシピは1万を超えています。でも、時間もないなかで頑張ってきた女性たちが、少しずつ声をあげるようになったんです。「料理は面倒だ、料理なんてしたくない」ってね。」
それが手抜き料理、時短料理のブームへとつながっていく。
「私は主婦の仕事に敬意をもっているし、手抜きなんてしなくても、簡単にできる料理はいくらでもあります。家庭料理がなくなれば、人間らしさを失う、文化という日本の土台がなくなります。人間存在の創造の機会を失う怖さを思います。」
土井さんは、「料理は理性、食べるは野性だ」と話す。
「食べるだけなら動物と同じです。動物と人間の違いは理性があること。料理という理性が、野性を制御するのです。料理をしないと、理性が弱くなって支配的になります。日本人はだいたい食べる人のほうが偉いと思っていますから。料理はあらゆる情緒と結びついていますので、イマジネーションを豊かにして、思いやりを育てます。家庭料理は自分の都合で、今日はお休みなんて言えないのですから、すごいことです。」
(中略)
「プロの料理人として家庭料理を下に見ていたんです。今思うと、恥ずかしいです。まだ、何もわかっていなかったと思います。」
「きっかけは柳宗悦の民藝との出会いです。暮らしの中に美しいものがあるのです。家庭料理を深く考えるうちに、プロのように、きれいに切り揃えるばかりがよいのではない、不揃いのものが美しく見えたり、煮崩れするほどの芋や豆がおいしいこともあるんだと、だんだんわかってきたのです。均一ではないこと、ムラがあることは、家庭料理ならではのよさですよね。」
土井さんは、プロが作る料理と家庭料理は目的もコンセプトもまったく違うものだと話す。
「家庭料理とは無償の料理です。お金をいただくための工夫は一切不要。美しいものを求めないところに美しいものが生まれるという、まさに民藝の思想です。家庭料理の美しさやおいしさは、プロの料理人が求めて作るおいしいとは違いますし、家庭料理に競争はありません。淡々と生活するところに本当の幸せはあるのです。」
(中略)
料理して食べることは教育にもつながる大切な営み
一汁一菜を基本にした、日常の楽しみを作る料理。ただ、不慣れな人からすれば、「失敗したくない」などハードルの高さを感じることもあるかもしれない。
「何を作るかです。食事のことは一汁一菜に任せれば、旬の野菜を見つけて、一生懸命茹でて味噌をつけて食べる。野菜でも丁寧にゆがけば御馳走です。一汁一菜の前に、よい肉を買ってきて、お肉に集中して焼けばいいんです。焼きたての肉に、ワインを用意して楽しんで、それから一汁一菜で、食事をおさめる。
和食では、ひとつの食材を、ひとつの調理法で料理するんです。食材をよく見て、音を聞いて、自分の感性をフル回転させてください。それって楽しいと思いませんか。料理することが楽しみになるはずです。ハンバーグだけを作るのもいいですね。野菜料理はなくても、野菜は味噌汁に入れる。ハンバーグの形が崩れても、煮魚の皮がめくれても、失敗じゃないんです。料理は食材という自然が相手ですから、人間の思うようにはならないことを知ることです。自然の変化を感じることは楽しみです。それをすれば、自分の感性はどんどん上がってくる。感性とは、違いがわかるということです。」
土井さんは料理研究家としての自分の仕事をこのように振り返る。
「いまでは、料理から人間を考えるようになりました。『料理して食べる』ということを1人ひとりが実現することです。それは子育てや教育にもつながる大切な営みですから、若い人の未来のために、心豊かに生きるためのヒントを残せたら嬉しいですね。」
土井善晴さんの書籍
『味つけはせんでええんです』(ミシマ社)
『一汁一菜でよいという提案』(新潮社文庫)
30年以上の子どもたちとの直接の交流の中で、
子どもたちの言動、行動に異変を感じたり、成長期に欠けていたものは何かを考える時、
避けて通れないのは食生活でした
これについてはこれまでも何度も何度も具体例を書いていますので、また書くことはやめておきますが、
子どもの小さな体、そして、毎日ぐんぐん成長するために必要とする栄養を考えると、
何を食べているか、ということはとても重要であることは誰がどう考えても明らかなことです
「私は料理が得意じゃないんです…」と、悩んでいる親御さんにもたくさん出会いました
その都度、「そんな凝った料理じゃなくて、ご飯と味噌汁だけでいいんですよ」って伝えるのですが、
それだけじゃダメなんだ、と思い込んでいるのか、
家族から苦情がくるのか…わかりませんが、なかなかそこを脱する人はいないようです
ご飯を炊いて、味噌汁を作る
それには、料理の腕前も、技も不要です
味噌汁の具はなんでもよくて、出汁を取ったお湯に野菜でも肉でもなんでも入れちゃえば、ホントに立派なおかずになるんです
そのうえで、余裕があったら、または、これまた技の要らない肉とか魚とかを焼いて添えれば、もう立派な定食じゃないですか
さらに、季節の野菜を洗って、ちぎって、塩や塩昆布や塩麹と一緒に容器に入れて(ビニール袋だっていいんです)ぎゅぎゅっと揉んで冷蔵庫に入れておけば、食事の時間には立派な浅漬けができあがっています
それなんか添えちゃえば、ほんと、ほとんど定食屋さんの献立と同じです
それでも、
子どもが食べてくれない、
旦那さんが「これだけ?」って言う…
すでに、わがまま舌になってしまっている家族に発言権や決定権がある場合、一汁一菜は本当にやりづらいですよね
でも、根気よく子どもだけでも、続けることです
だって、
本当に、何を食べているかでその子のその先が決まるのですから
そんなことも理解できない相方さんには、自分で自分の食事を作ってもらえばいいんです
いま、子育て中なのですから
子どもを、ヒトから人間に育てている真っ最中なのですから
しかも、健康に育てたいと願っていない親はいないはず
こういうことを何度も書くと、批判されるかもしれないし、例外はある!と怒られるかもしれませんが、
事実は事実なので、仕方ないし、例外なんてどんな例でもあることです
何度も書かないと言いながら書いてしまいますけど、
たとえば学業成績の高い子の多くは健全な食生活で育っています
これは、いろいろな高校を転勤する公立高校の先生達も知っていますし、
学校内が成績順に区分されているマンモス私立高校などの実例もあります
食育関連の本などにも書いてあります
そして私が知っているのは、
チョコレート菓子の箱を抱えて教室にやってくる生徒の落ち着きのなさ、
来る前にコーラを飲んでドーナツを食べてきた子の興奮をおさめるまでにかかる時間、
毎日できあいの惣菜を食べている中学生の肌荒れや、
外食や加工食品、インスタント食品ばかりの子の身体の歪み、たるみ、体幹の弱さ
何を食べたからすぐにどうなる、ということばかりではないのですが、
やはり子どもの急激な人工的な糖分摂取は、しばらく脳に影響していると実感します
落ち着くまであの手この手でかなり待ちますから、正直、勉強どころではないですよね
チョコレートやコーラや外食が「悪」なのではありません
問題はそれが子どもの日常に頻繁にあることです
そして、そういうものに慣れた舌が、
シンプルな味つけを美味しく感じなくなってしまっている、という連鎖です
我が子が子どもの頃、
トウモロコシの蒸かしたのや、収穫したての落花生を茹でた塩ゆで落花生などは大好物の御馳走でした
群馬の森(という公園があります)で拾って食べるスダジイの実なども
でも、いろんな子どもたちとそれらを味わおうとしても、
どんな子どもたちも好むということはありませんでした
口に入れた瞬間、吐き出す子も何人も見てきました
トウモロコシやジャガイモを茹でただけでは食べられず、バターと醤油をたっぷりかけないと食べないの~と言っている親御さんもいました
口に合う、テンションの上がるパンチのきいた味の御馳走ばかり食べている子は、食べず嫌いも多く、
「そんなものは食べない」と、明治の頑固おやじみたいに絶対に手を出さない子も増えました
土井さんの言葉を読んでいて、
ああ、料理は理性なんだ
米をそのままでは食べない私たちは、理性の動物なんだ
洗って、水加減を調整して火を入れて、
それだけで立派な料理で、
それを自分ですることで、理性が伝わり、理性が育つんだ
季節の野菜をなんとかして食べる私たちは、
理性を料理から得るんだ、得ることができるんだ
言葉でいくら、
ちゃんとしなさい、優しくしなさい、思いやりを持ちなさい、
大切にしなさい、って伝えても、
毎日の食事の方が威力が大きいわけで
それで合点がいきました
小さな子どもの身体が、なにでできているか、
考えなくちゃならないんです
一汁一菜は、毎日でも飽きることがないのは、人間が作ったものではないからです
この言葉を反芻してずっと考えています
人間が作ったものではない
それは自然
やっぱり私たちは自然の中の一部で、
人間が創造などできないもの中で育ち、生き抜く力を育むのでしょう