県教委から、子どもを通じて、リーフレットが配布されてきました
同じものがネット上でも公開されています
 
いいこと書いてある!
 
●確かな学力の育成
基礎的・基本的な学習内容と学びに向かう力を身に付け、探究的・発展的な学習により社会へ参画する力を育成します。
家庭の教育力向上と学校・地域の連携・協働の推進
 
●幼児期の教育、家庭教育の支援を充実させます。
学校と地域の連携・協働により地域を活性化させます
保育者の資質向上により幼児期の教育の質を高め、小学校教育との円滑な接続を図ります。
家庭の教育力向上のため、保護者の学習の機会や相談窓口を充実させます。
 
いいこと書いてあるでしょ!
ぜひ、この方向で!
 
「学びに向かう力」「探究的・発展的な学習により社会へ参画する力」「家庭の教育力向上」
わおわお!!
「幼児期の教育の質を高め小学校教育との円滑な接続」「保護者の学習の機会や相談窓口」!
 
他にも、英語・道徳の教科化について
プログラミング学習についての計画…
……えーい!
素敵な言葉がたくさんあるけど、…よくよく読んでみると…
当たり前だけど文科省の文書となんにも変わらない!
群馬としての独自性はなーい!(そりゃそうか…)
 
そして、
具体的になにをどう始めるのか、変えるのか、とことん読んでも何にもわかりません
 
○△党のマニフェストみたい…具体的な企画、期日、数値は何にもない

社会をよくします!
福祉を充実させます!
教育をよくします!

……なにをどう…?

平成30年6月に文科省で行われた「第100回 教員養成部会」の配付資料にこのようなものがあります

Society5.0に向けた学校Ver.3.0

(先週の座談会で主催者が資料として配付してくれたものと同じです)
 
Society5.0(超スマート社会)に向けての学校Ver.3.0のあり方、これから学校はどうなるのか、どうあるべきなのか、というレポートを元に作成された図解です
 
Ver.3.0に書いあること…

◆子どもたちは「能動的な学び手(アクティブ・ラーナー」公教育は「個別最適化された学びのまとめ役(ラーニング・オーガナイザー)」…個々の子どもの学びと授業における協働学習のデザインとプロデュース=新たな公教育の役割
◆公教育の重要な役割は、子どもの学びの状況を観察し、個々人に応じた学びの実現を支援
◆次世代型学校を軸に、大学・NPO・企業などが提供する様々なプログラムを選択して学ぶユビキタス・ラーニング(いつでもどこでも学習できること)
◆学校は、実体験や他者との対話・協働をはじめ多様な学習活動の機会を校正に提供する役割を重視
 
これから、ここを目指していく、と明言した文科省
学校では、画一的な指導をして基礎学力を徹底的に身につけさせます、なんて書いてありません
 
アクティブ・ラーナーである子どもたちを、学校の先生はオーガナオザーとしてまとめていく
ここには、学校や教師の教えを徹底的に覚えさせて習得させましょう、という意図は書かれていません
 
以前から糸山先生が言っている学校としての役割、準備学習と整理学習の立場、学校の役割を、はっきりと書いているように読み取れます
 
子どもたちにつけたい「力」という点では
自然体験やホンモノに触れる実体験を通じて醸成される豊かな感性や、多くのアイデアを生み出す思考の流暢性、感性や知性に基づく独創性と対話を通じて更に世界を広げる創造力、苦心してモノを作り上げる力、新しいものや変わっていくものに対する好奇心や探求力、実践から学び自信につなげていく力
また、レポートには、
むしろ、どのような時代の変化を迎えるとしても、知識・技能、思考力・判断力・表現力をベースとして、言葉や文化、時間や場所を超えながらも自己の主体性を軸にした学びに向かう一人一人の能力や人間性が問われることになる。
特に、共通して求められる力として、①文章や情報を正確に読み解き、対話する力、②科学的に思考・吟味し活用する力、③価値を見つけ生み出す感性と力、好奇心・探求力が必要であると整理した。まず、知識・技能としての語彙や数的感覚などの学力の基礎に加え、人間の強みを発揮するための基盤として、文章や情報を正確に理解し、論理的思考を行うための読解力や、他者と協働して思考・判断・表現を深める対話力等の社会的スキルなど、読み解き対話する力が決定的に重要である。
また、人と機械が複雑かつ高度に関係し合う社会となっていく中、科学的に思考・吟味し活用する力が不可欠となる。機械を理解し使いこなすためのリテラシーや、その基盤となるサイエンスや数学、分析的・クリティカルに思考する力、全体をシステムとしてデザインする力がこれまで以上に必要な力となる。
加えて、現実世界を意味あるものとして理解し、それを基に新たなものを生み出していくことは、AIによって代替できない人間ならではの営みであり、AIの活用分野が爆発的に広がっていく新たな時代においてますます重要となる。自然体験やホンモノに触れる実体験を通じて醸成される豊かな感性や、多くのアイデアを生み出す思考の流暢性、感性や知性に基づく独創性と対話を通じて更に世界を広げる創造力、苦心してモノを作り上げる力、新しいものや変わっていくものに対する好奇心や探求力、実践から学び自信につなげていく力などが重要である。
Society 5.0における学校は、一斉一律の授業スタイルの限界から抜け出し、読解力等の基盤的学力を確実に習得させつつ、個人の進度や能力、関心に応じた学びの場となることが可能となる。また、同一学年での学習に加えて、学習履歴や学習到達度、学習課題に応じた異年齢・異学年集団での協働学習も広げていくことができるだろう。
さらに、学校の教室での学習のみならず、大学(アドバンスト・プレイスメント11など)、研究機関、企業、NPO、教育文化スポーツ施設、農山村の豊かな自然環境などの地域の様々な教育資源や社会関係資本を活用して、いつでも、どこでも学ぶことができるようになると予想される。
こうした多様な学びが関連し合うことで更なる学びの発展にもつながるだろう。
AIやビッグデータ等の先端技術が、学びの質を加速度的に充実するものになる世界:Society 5.0における学校(「学び」の時代)が間もなく到来する。

と、書いてあります
さらに、このレポートのまとめとして、
 
今後取り組むべき教育政策の方向性を、大きく以下の3点に整理した。
①「公正に個別最適化された学び」を実現する多様な学習機会と場の提供

すべての子供たちがすべての学校段階において、基盤的な学力の確実な定着と、他者と協働しつつ自ら考え抜く自立した学びを実現できるよう、「公正に個別最適化された学び」を実現する多様な学習機会と場の提供を図ることが必要である。

②基礎的読解力、数学的思考力などの基盤的な学力や情報活用能力をすべての児童生徒が習得


学校や教師だけでなく、あらゆる教育資源やICT環境を駆使し、基礎的読解力、数学的思考力などの基盤的な学力や情報活用能力をすべての児童生徒が確実に習得できるようにする必要がある。


③文理分断からの脱却
(高校・大学内容なので省略)

全体を読むと、相変わらずリーダーシップやら、社会を牽引する人材やら、気になるワードはあるにしても、まあ、全体的に引き上げよう、っていうのが国の教育政策ですから、ムードとしてはこれからこうなっていきたい、というのがよくわかる資料だと思います

それにしても、「これからは、」視野を広く、学校や教師という枠に留まらず、広く学習方法を採用し、子どもひとりひとりの学び方も見つけてあげよう、みたいにも読み取れる部分が目立つ反面、現在小中学校に通う子どもたちの置かれた環境とはまだまだかけ離れていますよね

これらを一気に解決する方法が、宿題の撤廃だと思うのですが、乱暴でしょうか

学校の先生は授業と、学校にやってくる子どもたちのことだけに集中してもらえばいい
学校の授業は、教科書に基づき、丁寧に、行われていればいい
放課後は子どもは家庭に戻り、そこから先は家庭が選択すればいいと思うのです
現在出されている宿題のような、反復学習、パターン学習がある程度必要だと思う場合は、そのような家庭学習を選択すればいい
それよりも、スポーツをやりたい子はやればいい
ピアノを弾きたい子は弾けばいい
どんぐりをやりたい子はやればいい
遊びたい子は、思い切り遊べばいい(これは全員に必修にしたい!(笑))

先生達は、授業と、給食や掃除、子どもたちとの生活、行事の中で、気づいたことを丁寧に観察し、記録し、職員室で語り合う、子どもの身近にいる大人としての役割を果たし、明日の授業をどのように構成しようか…と考えながら定時に帰宅
ご自身の家庭、生活、趣味などにたっぷりの時間を割いて、心身共に健康であってほしい

宿題がなければ、資料作成も添削も必要ない
必要なのは授業の準備と、授業後に次の授業内容を考える、という教師として当然の業務のみ
そして、子どもたちとつくる学校という社会での人間関係について、毎日、真剣に、丁寧に、考えてくださればいい
せっかくの集団生活、学校でしか経験できない多くの大切なことがあるはずです

子どもの学力を学校が預かるなんて責任を負う必要なんてない
保護者は、子どもを授かって親となった日から、子どもを一人前の人間に育つまでのサポートをする役目を担っています
心身の健康状態を学校の全責任にする保護者がいないように、
学力の全責任を学校に負わせるのは間違っていませんか

宿題を出し、管理しようとするから、いつのまにか家庭学習にまで学校が責任をもたなくちゃならなくなってきたのではないでしょうか

そもそも、夏休みの課題の定番、「歯磨きカレンダー」のように、それがないと歯を磨かないのか?という話になります

宿題を出してもらえたからわが子の学力は上がった、底力がついた、と宿題や学校の先生に感謝している方もいると思います
でも、
宿題という家庭学習への学校からの義務を担うために、親子関係を崩壊させそうなほどの状態で毎日苦しんでいる人もたくさんいるのが現実です

「歯磨きカレンダー」を塗る義務がないと歯を磨かない、という子がいたとしたら、それはその子にとって「歯磨きカレンダー」の意義があると思われますが、他の全ての子どもたちにとって有意義で、必須のものである、という証明にはなりません

それは、宿題が有意義に活用できた、と宿題のお陰で学力がついた、というお子さんがいるから、全ての子にとって宿題は必要だ、という証明にならないのと何が違っているでしょうか

宿題がないと、家庭で「学ばない」のだとしたら、それは、「歯磨きカレンダー」がないと歯を磨かないのと何が違うかな?と思うのですがどうですか
 
家庭学習を家庭にまるなげされたら、共働き家庭の多い昨今、それはとても困ります!という声も聞こえてきそう
でも、子どもは、大人がもっともっと忙しかった時代でも健全に育ってきました
親がなにかしてあげる、大人がなにかしてあげないと、「学ばない」わけじゃないんです
もしかしたら「学力」というものをはき違えているのかもしれません
計算を大量に速く正確にできることが「学力」ならば、それは、計算機と何が違うのか?ということです
この話は長くなるのでまたの機会に…
つまり、宿題がないかわりに、家で勉強させるのは親の役目!!なんて言いたいわけじゃない、っていうことだけはお伝えします
 
さて、
いま、選ぼうとすればたくさんの「学習方法」が巷には溢れています
なんなら、無料で、わかりやすい「授業の動画」を見ることもできます
学校に行かなくてもそういう動画を見て自分で勉強を進めることだってできます

たとえば、学校の先生の授業より、この動画の先生の授業の方がわかりやすいなあ、って思われることもあるでしょう
そりゃあ、塾講師の立場でいえば、生徒に嫌われたらクビですから、つまらない授業をしたら、生徒に逃げられますから、授業力を磨くのは当然なんです
嫌われようが、退屈だろうが、生徒は逃げない
それが学校の先生のうらやましい(?)点でもあり、致命的な点でもある、と、思うのです

でも、学校の先生に必要なのは、(特に小中学校の場合)専門的な科目の知識よりも、子どもたちが習得するための手法や、集団授業ならではの印象の残し方など、ひとりで勉強するのでは得られない経験をさせてあげるための手助けをするための能力です
それが学校の特権であり、特徴だと思うのです

きっと、教えるのが得意で先生になった方もいると思います
でも、
本当に教育を突き詰めている人は、みんな当たり前のようにわかっていること。「教えたことは身につかない」。これははっきりと言える、考えさせないと身につかない。
byイモニイ(「神奈川御三家」と称される超進学校・栄光学園中学高等学校の数学教師の言葉『いま、ここで輝く』(おおたとしまさ著)より引用)

教えるのが上手か下手か、なんて、どっちでもいいのかもしれない、と思うんですよ

それを、子どもたちも、なんなら親も一緒になって、「あの先生は教え方が…」なんて、言っている現状
それはきっと、「教え方」じゃなくて、「子どもとの過ごし方」に気になる点があるということなんだとは思いますが…

さらに、この文科省の資料によると、これからの先生は、
個々の子どもの学びと授業における協働学習のデザインとプロデュース
をすることを求められるんですって!
でもね、学校内での話なんですよ
だから、先生は学校内だけで輝いていてほしいんですよ
私たち保護者は、先生に、学校内で輝いてもらうために、
協力できると思うんですよ

だから、宿題はやっぱりいらないと思うのです

最後にどんぐり指導者として書くならば、
どんぐりでは最初から上記のような子どもの力(自然体験やホンモノに触れる実体験を通じて醸成される豊かな感性や、多くのアイデアを生み出す思考の流暢性、感性や知性に基づく独創性と対話を通じて更に世界を広げる創造力、苦心してモノを作り上げる力、新しいものや変わっていくものに対する好奇心や探求力、実践から学び自信につなげていく力)を必須だと思っていたし、別に、これからAI時代が来るから急に「必須の力!」って叫んでいるわけではないし、これからどんな時代が来るのかなんて、誰か、明確に、絶対に、全部説明できる人っているのかな?って思うし、とにかく、子どもはもっと「子ども時間」をじっくりと過ごさなくちゃ健全な大人には、なれないーって思っているわけで

それには、忙しすぎるでしょ、って言いたい訳なので
それには、窮屈すぎて、自由度が低すぎるでしょう、って

規則を守るのも、指導されるのも、体験としては必要で、集団生活のルールを学ぶこと、いろんな人と出会うことのために学校はある(みんなと同じ給食を食べることや、列を作って歩くことも)と思いますが、それより先は、やはり、各家庭の判断と、選択でやっていく

そういう時代になるのでしょう?やっと、そうしていいよ、ってなるのでしょう?
それなら、そこに向かっていく過渡期の今の子どもたちのことも、
見過ごすわけにはいかないと思うのです

ひとりひとりが、このような「国の方針」をもっと知ったら、
先生との話にも引き合いに出せると思うし、先生にも考えてもらうきっかけになると思うのですよ

これらの「国の方針」を、間違った方向に向けないためにも、「現場」である、実際の子どもたちのそばにいる私たちは、もっともっと、深く知る必要があると思うのです