上越教育大学 西川純先生の編著

東洋館出版社

 

私は学校の先生でも体育の先生でもないけれど、
先生達はこんな風に授業について勉強しているんだ!と感銘を受けた本です
たくさんの先生がこの本を手にとってくれるといいな…


これは、体育の授業をどんな風に学び合いでやっていこうか、と先生達が考えるきっかけとなる本ですが、体育の授業を通じて子どもたちに学び合いのこころ、経験をたくさん積み上げることができるよ、というヒントが込められている本でもあると感じます

たとえば、第一章にこんな文章があります

算数(数学)・物理・体育には共通する素晴らしい陶冶価値があります。
※著書内では陶冶価値=教育的価値、と説明があります。なぜ陶??と泉、ここで「陶冶(とうや)」を広辞苑で引く…「陶冶…陶器を造ることと、鋳物を鋳ることから、人間のもって生まれた性質を円満完全に発達させること。人材を薫陶養成すること。」
「薫陶(くんとう)…香を焚いて香りをしみこませ、粘土を焼いて陶器を作り上げる意。徳を以て人を感化し、すぐれた人間をつくること。」無知でした…初めて知った言葉です…
数学、物理と並ぶと論理的思考力とか抽象的な思考力かなと思うかもしれません。しかし、体育が並ぶと「え!?」と思われると思います。しかし、三つは同じ陶冶価値があるのです。
三つの教科は、「越えられない壁がある」点で一致しています。この三つの教科ほど、能力差が激しい科目はありません。国語、社会、理科などは、ド暗記で乗り越えられる部分が少なくありません。それゆえ、『学び合い』でクラスの全員が協力すればかなりの達成度を実現することができます。(中略)しかし、先の3教科ではそのようなことはできません。知的な障害のある子は数学(算数)・物理で満点を出すことはできません。そして、身体的な障害のある子、例えば、肢体不自由児は跳び箱を跳ぶことはできないのです。しかし、それこそが素晴らしいのです。
子どもたちの生きる社会では、自分には絶対にできないことを軽々とこなす人と仕事をしなければなりません。そのようなとき、できないからといって卑屈にならず、できるからといって高飛車にならないことを学ばなければ、社会で成功することはできません。それを学ぶには、3教科が最もすぐれた場になります。
ある国の話です。
その国には、人民議会があります。しかし、議事進行に関して、○○党が事前にチェックしています。その党の役員が人民会議に参加し、人民会議議長に指導・助言をします。大きな課題は党会議で審議され、そこで認められたときに人民会議の議題となります。党会議で認められない場合は人民会議の議題にもなりません。国民は、なんやかんやいっても党会議が動かしていることを知っています。
その国で政変があり、西欧型民主主義になりました。ところが、国民は自らが本当に決定に関われるという経験をしたことがありません。そのため、政治参加の意識が低い。人民会議のときは投票したか否かを党の役員がチェックしていたので全員が投票しましたが、そのチェックがなくなりました。そのため、安心して投票しません。
さて、この国の投票率があがるには何年かかると思いますか?
数年、いや、意識改革には十年ぐらいは必要だと思いませんか?

では、文章をほんの少しだけ変えてみましょう。


学校の話です。
学校には生徒会があります。しかし、議事進行に関して、職員会議が事前にチェックしています。その生徒会担当の教員が生徒会に参加し、生徒会長は指導・助言を受けています。大きな議題は職員会議で審議され、そこで認められたときに生徒会の議題となります。職員会議で認められない場合は生徒会の議題にもなりません。生徒は、なんやかんやいっても職員会議が動かしていることを知っています。
生徒は18歳になりました。ところが、自分たちが本当に決定に関われるという経験をしたことがありません。そのため、政治参加の意識が低い。生徒会のときは投票したか否かを教職員がチェックしていたので全員が投票しましたが、そのチェックがなくなりました。そのため、安心して投票しません。
さて、若年層の投票率が上がるには何年かかると思いますか?
数年、いや、意識改革には十年ぐらいは必要だと思いませんか?

子どもたちの意識を変えるために十年ぐらいは必要だとしたら、いったい何歳から子どもたちは本当の意志決定をさせればいいでしょうか?
教育基本法第1条には平和的な国家及び社会の形成者を育成しなければならないと書いています。若者の投票率が低いならば、その責任は学校にあります。
もちろん、子どもに全部任せろとは言いません。教師だって法律に縛られています。しかし、任せられるところは多いはずです。そして、投票するような国民を育成するためには、任せなければならないのです。
では、どうしたらいいでしょうか?

各学年が数人レベルの僻地小規模校での事例です。その学校の全学年の子どもたちに、「全員が楽しめて、技術が伸びるドッジボールをしなさい」という課題を与えました。最初、上級生は横投げをしないなどのルールをつくって試合をしました。試合が終わるごとに子どもたちは円陣を組んで話し合い、新たなルールをつくります。ルールは洗練されてくるのです。
彼らは自分たちの話し合いの中でルールをつくりあげ、評価し、改善をすることを繰り返したのです。素晴らしいと思います。

主権在民、民主主義を学ぶのは社会科だと思われがちです。しかし、社会で学べるのは仕組みです。ところが、体育では実体験できるのです。これは他教科で実現することは困難です。たとえば「1+1は2でなく、3にしてみよう」とか「重力の公式を逆二乗ではなく逆三乗にしよう」と決めることはできません。しかし、体育はそれができるのです。そして、その中には肢体不自由児のように試合に参加しない子どもすらも話し合いの輪の中に入ることができます。

「主体的・対話的で深い学び」という言葉が踊っています。その言葉の正解を探すことは無意味です。「主体的・対話的で深い学び」という言葉で定まっているのは学習指導要領に書かれたもの以上でも以下でもありません。大事なのは、我々が「主体的・対話的で深い学び」を作り出すことです。『学び合い』体育は体育の可能性を豊かにすることが可能です。
(引用終わり)

すごいでしょう?これが体育の授業に関する本なのです
ここから、学年、種目ごとの実用例や手法などが書かれていきます
ぜひぜひ、読んでみてください
学校の先生はもちろんですが、保育園の先生、自然遊びのスタッフの方にも有用性があると感じます

子育てのヒントにも大いになり得ると感じます
陶冶価値…
いい言葉です
”人間のもって生まれた性質を円満完全に発達させること”
なんだろう?わが子が持って生まれた性質って?
それを円満完全に発達させる、って、どうしたらよいのだろう?

そして、
”できないからといって卑屈にならず、できるからといって高飛車にならないことを学ばなければ”
これはカードゲームやボードゲームをしていても感じることがあります
なぜそんなに勝敗にこだわる?
自分一人が悔しがるなら普通
幼い頃なら泣いたりわめいたりすることもまあ、あるのでしょう
でも、
結構な年齢になってもそこが乗り越えられない子は多いです
ひとり悔しがるのではなく、周囲に影響するほど落胆して不機嫌になる
ゲームから抜ける
また、勝つと周囲を蔑む
負けると「つまんない」と言っておきながら、自分が勝つと「もう1回」とせがむ
子どもらしいねえ、と思える状態と、困った状態と、あります
ゲームは楽しむものであり、みんなで遊んでいるのに、
もう、継続が難しいほど荒らすからです

個性の違いはあるのでしょうけれど、
どうしてかなあ?と冷静に観察してきました
勝っても負けても楽しめるよう、言葉掛けも工夫してきました
そんなに複雑なものでもないけど、
どっちにしろガハハ!と笑っておしまいにできるような

外遊びでも感じますが、やはり、圧倒的に経験値が少ないのだな、というのが私なりの結論でした
そして、もしかしたらその力を獲得するために、その経験値を獲得するために、子どもの円満完全な発達を促すために、なんらかのきっかけが必要なのかもしれない、と思うのです
それは、教師であったり、親であったり、年上の友であったり…
手本となったり、導いたりする存在が

視野が狭く、周囲が見えていない
仲間達の年齢や、レベルに応じた自然な気遣いが、できる子もいれば、全く眼中に入っていなくて危険を感じる子もいます

どうしたもんかなあ…と思っていましたが、この本を読んで、学校の体育の授業や学校生活そのものを想像してしまいました
全て決まっていて、その決まりをちゃんと守れたものが優秀
自分で工夫してアレンジすることは歓迎されず、
先生の高評価を予想して行動する子まで現れる

中学生になると、自主的に勉強するようしつこく言われるものの、課題でがんじがらめは相変わらず、テスト前になると毎日の生活の記録、勉強内容と時間の記録が義務づけられます

自分で自分の生活や、勉強についてひとりでじっくり考える余裕もなく、とにかく、言われたことを一生懸命こなしている子どもたち

ひとりひとりのキャパシティやエネルギー量には差があるので、
そこで、出てくるのかもしれません
その違いが…

さて実際、この本に書かれているような体育の授業『学び合い』の手法が、わが子の学校で活用されているのでしょうか?
それに、生徒会の例でもあったように、子どもたちにある程度任せて考えさせる、というスタンスで、大人は見ているでしょうか
学校でも、
家庭でも

びっくりしますが、
子どもは、伸び伸び自由にさせておくと本当に能力を発揮するのです
たとえば私の教室では教室内外、好きなところでどんぐり問題に取り組みますが…


なにせ、集まってくるのは「放課後」で、
学校から帰ってきてほっと一息つく間もなく来る子もいますから、
まずはゆっくりおやつを食べてお母さんお父さんとおしゃべりしてからおいでね~って思っているのだけど、時間を守って集まってくれます
ちょっとトゲトゲした口調の子も、
疲れた顔した子も、
暑くて顔が真っ赤の子も、
おうおう、学校から帰ってきたばっかだもんねえ、って迎え入れて、
いつものように好きな場所で問題を解くのですが、
寝っ転がったり、反対向きに座ってみたり、自由に…

で、どんぐり問題は解き方もないし、誰かに指導されることもないので、
最後に正解が出るかどうかは「あたり」「はずれ」くらいの感覚に思わせていて、
「いよーーっ お見事な!!」と私が解きかけの答案であっても、誤答であっても、もちろん正答であっても、その思考過程に感心するものだから、もう、子どもたちも「教えてよ」とか「ヒント言ってよ」なんて言うのは諦めているし、そんなのどうでもいいことなんだなあ、ってわかっている子の方が多いし、それで、帰る頃にはふにゃふにゃの優しい笑顔になっているというわけなんです

それにしても、なぜ学校ではがちがちに緊張して頑張って、家で癒やさなくちゃならないんだ?と随分前に各家庭の現状と学校に対する提案をもって小学校の校長室に行ったことがあります
学校が楽しくて、行きたくてたまらない場所だったらいいのに、って

その時の校長先生は言いました
でもね、学校が緩めるわけにはいかないんです
と、きっぱり
それから、同席した管理職の教諭はいいました
だって、家に帰ればテレビとゲームでしょう
学ぶ気持ちがあって学校に寄越しているとは思えない
と、いうようなことを

お互いに、責任の押し付け合い
子どもたちは、学校で学ぼうとせず、学ぶ意欲も希望も削がれ、
不安になった親は習い事でフォローし、泣いてでも宿題をやらせ…

この状態を思い描くと、主人公である子どもの姿が、ぼやけてきて仕方ないんです

だーれも方法を知らないのかなあ?と訝しくて仕方ないのです

わたしたち、ここにいるんだけどな。
って、もやの向こうで子どもたちが待ってます