引用します
「話を聞きなさい」なんて指導は本当は間違っている
公立中学が挑む教育改革(1)千代田区立麹町中学校・工藤勇一校長インタビュー
多田慎介 (ライター)(2017年11月1日)
教育現場にはびこる「目的と手段の履き違え」

 第三者から見て型破りに思えるのは式辞だけではない。今年の夏休み、麹町中学校ではほとんど宿題が出なかった。生徒に課したのは、どうしても外せなかった千代田区指定の作文だけだったという。同校が極力宿題を出さないようにしているのは、工藤氏の教育方針によるものだ。

「多くの教員は勉強することの意味を履き違えてしまっていると思います。だからむやみやたらに宿題を出す。本来の勉強の意味とは、生徒たちが『分かる』『分からない』を自覚し、分からないことを分かるようにすることです。一律に宿題を課せば、すでに分かる状態にある生徒に無駄な時間を強いることになります」

 工藤氏が例に挙げるのは、最多連勝記録を塗り替えて話題となった中学3年生のプロ棋士、藤井聡太四段のエピソードだ。その人柄を伝える報道の中で、「藤井四段は宿題をやらない」と紹介された。担任教諭に対して「授業をきちっと聞いているのに、なぜ宿題をやる必要があるのか」と語ったという。

「藤井四段の言いたいことはよく理解できます。自分にはすでに分かっている範囲のことなのに、単なる作業として宿題に取り組み提出しなければならない。優秀な成績を収め、『やりたいこと』が明確な生徒にも一律に同じ内容の宿題を課すことが、正しい教育だと言えるでしょうか?」

「私が見てきた限り、宿題を課された生徒は分かる範囲には積極的に取り組みます。しかし残り2割ほどの分からない範囲はやらない。それでも8割はできているから教員はOKを出すんです。これで『宿題を出すというタスク』が完了したことになる。このやり方では学力は伸びません」

 こうした問題について、工藤氏は「目的と手段を履き違えている」と語る。

 学校は社会で活躍する人材を育てる場所である。そのことは多くの教員が認識しているはずなのに、気づけば学校にとって都合の良い生徒を作ろうとしてしまう。宿題をやらせることが目的になっているのはその典型例なのだという。

 手段が目的化している例は他にもある。学習指導要領で定められた道徳や総合学習の時間を埋めるために作文や目標を頻繁に書かせたり、学級新聞の制作に協力することそのものが目的になっていたり。

「作文にちゃんと取り組まない生徒はダメ、学級新聞の制作に協力しない生徒はダメだと言われます。でも本来考えなければいけないのは、『その新聞、本当に誰かが読むの?』『何のために書くの?』ということ。これからの時代はむしろ『こんなの必要ないじゃん』と言える子が必要なのに、教育現場では真逆のことをしているわけです」

*対談記事全文はこちら*

引用を終わります

先日、中学校で外部講師を招いてのセミナーが行われました
私は保護者としてそういったセミナーはできるだけ参加するようにしているので、
今回ももちろん参加してきました
生徒全員とも一緒に話を聞くので、子どもたちとも体験を共有できる、それが一番の目的です
始まる前に校長先生やPTA会長さんは言いました
「大変貴重な話ですから、よーく聞いてください。」
「とても感動的な話ですから、しっかりと聞いてください。」

…聞き終わると、確かに、とても大変な経験をなさった講師の方の、
涙なしでは聞いていられない内容のお話でした
親として…講師の方の経験はとても悲しくて、壮絶なものであったことを想像すると、
恐ろしくもあり、悲しくて途方にくれるほどで、10年たった今、やっと人前で経験を話せるようになったことを心から尊敬しました
私にはできないかもしれない…

さて、セミナーが終わって生徒達は先生に言われました
「教室に帰って感想文を書くように」

…出た!!!

これが、ですね、この中学だけの話ではありません
だからこの中学を批判するつもりで書くのでもなく、
この事実を知っていただきたくて書くのです
これを、子どもたちは小学校1年生の頃からやっています

何かしたら感想文
どこかに行ったら感想文
誰かが来たら感想文

子どもたちのほとんどが、感想文を嫌っています

なぜか

ちゃんとしたことを書かないと、注意されるから

だから、小学校低学年でも、本当に自分の思ったことを書く子はいません
先生にはなまるをつけてもらえる文を書きます

中学生なんてそういうことのベテランです
心の中を素直に表現する作文など、「書けなく」されているのです

素直に書いて朱書きされた経験のある子は本当に多いです
最初は書くことが嫌いじゃなかった子たちも、
感想文とその添削によって、どんどん、文章を書くことが嫌いになっていきます

かく言う私は小学校低学年の頃から文章を書くことが大好きでした
…それはお察しの通りで…
読書感想文の宿題も、「何かしてきたら感想文」という先生の命令も
やっほー!!待ってました!!と言わんばかりにうきうきで書いていました
先生に止められるまで、何枚も、何枚も原稿用紙をもらいにいって、
あからさまに迷惑そうな顔をされても平気でした
朱書きされることもあったけど、それで文章を書くことが嫌いになるようなことはありませんでした
それは、学校に提出する文章より、友達に書く手紙や、自分だけしか読まない日記的なものや、随筆的なもので、文章を書きたい欲を満たしていたからかもしれません

今でも、自分が過去に書いた作文がとってあるのですが、どうやら私のピークは小学校2年生くらいです
プロの目で見ても、私の小学校2年生の頃の作文は素晴らしいのです
でも、それ以降、どんどん、どんどん、つまらない作文になっていきました
高学年になって作文でなにかしらの賞を受賞したこともありましたが、
自分で書いていてもつまらなかったし、読んでもつまらないので、どこにもとってありません
中学生になると、先生がどういう作文を評価するのかわかったので、それにあわせて書くこともありましたが、やはり、人に見せる文章で本当の気持ちを書くことなんて絶対にしませんでした
朱書きされるのがいやだったからではありません
文章を書く、ということは、心の内を開く、と、自分では思っていたからです
多感な中学生に、そのようなことを求めることはどうなんでしょうか

ただ、素直に何でも書ける「文字を覚えたて」の頃から、自分の気持ちを言葉に書いて表現することの素晴らしさをもっと丁寧に、そして、大らかに認めてもらえていたら…
中学生になった子どもたち、自分も含めて、違っているのかもしれません

たいていの子は、先生に何か赤字で否定的なことを書かれるのが本当に苦手です
私にはわかります
おおげさかもしれませんが、それはまるで子どもたちの心をえぐるような行為です
それは作文に始まったことではないのです
「型にはめる教育」の賜なんでしょう

工藤先生は教室に掲示する「個人的な目標」的なものもなくしたそうです
みんなの目に触れるところに掲示するものに、本音など書けない
何か書けば突っ込まれる
いじられる
そんな時代の中学生が、本当の目標を書けるはずはないのだ、と

どの学校の子どもたちも、文章を読んだり書いたりするのが好きな子も、「感想文は好きじゃない」と口を揃えます

子どもたちは小学校低学年の頃から、遠足に行ってくれば作文、運動会の後も作文、
今回のような、外部講師の話を聞いても、作文…

中学生が、本当の気持ちを書くでしょうか
どんな言葉で、全員の教室で、ノートに?原稿用紙に?書くでしょうか
先生は、書いているのでしょうか?
先生は、見せてくださっているのでしょうか?
心の中を表現するということの、手本を示してくださっているのでしょうか?

子どもたちは何か活動しながら、誰かの話を聞きながら、
「これってあとで感想文だよね」とささやき合っています
そして、当たり障りのない言葉で、原稿用紙を今日も埋めています

そして、高校入試ではまだ作文を書かせます
進学塾も作文講座を開きます
全国作文コンクールの審査員さんの本音を誰かの投稿で読んだことがあります
コンクールに出される作文は先生がてこ入れをします
作文ではありませんが、娘の作品があるコンテストに出展されることになったとき、
親が手を入れるように具体的に学校から指示されました(手をいれませんでした・笑)
審査員さんの中には、「今年はこれか…」と、その年の先生方のてこ入れの傾向に辟易することがあると書いていました
でも、多くの審査員さんは型どおりの作文を評価するのでしょう
そして、高校入試の作文は…誰がどのように評価するのでしょう

「学校は社会で活躍する人材を育てる場所である。そのことは多くの教員が認識しているはずなのに、気づけば学校にとって都合の良い生徒を作ろうとしてしまう」

いつまでこんなことを続けるんでしょうか

子どもたちを自由にしてください
年老いていく私たちには責任のとれない、未来のために