まだまだ飽きずにブッカ中
いつ読んだのやら、こんな本もありました
田中保成さんという教育者の本です
埼玉県春日部市で30年個人塾を営み、
東京都文京区で「音羽塾」という個人指導の総合学習塾を主宰している方です
東大に受かる子受からない子、みたいなタイトルの著作もあったかと思われます
だから、少し話題になった時期がありました
どんぐり、糸山先生とは全く違う方針の塾だとは思うのですが、
やはり、長年子どもたちを見てきているので、同じ事を書いていらっしゃる部分が多いのです
そう、どんぐり、糸山先生、わたしたちと

「地頭」という帯の言葉が気になって買って読んだのは覚えています
内容はあまり覚えていないので、また再読リストに加えました

面白かったのは、本の内部にあった折り込みページでした


「解き方が全くわからない問題が論理的思考力を鍛える」
と題字が書いてあり、その下にチャートでその仕組みが説明されています

どうですか?
変なタイトルでしょう
「解き方がわからなかったら解けないじゃない」って思うでしょう

でも、それは実は違うのです
どんぐり問題も解き方は教えません
まっさらのクロッキー帳に、文章を読んで自分で絵図を描いて考えるのです

解き方どころか、描き方も教えてもらえないので、自分で好きな場所に好きなように描きます
始めたばかりの子は戸惑います
「どこに描けばいいの?」「何算で解けばいいの?」

私も長年子どもたちを見てきて、伸びる子と伸びない子の決定的な違いを知っています
それは随所で書いていますし、年齢によって表面化する部分が違っているので、ここで全てのケースを書くことはできません(それはまた別の機会に)が、最も顕著なのが、この、
「解き方が全くわからない問題」に対してどういう態度を示すのか、という部分です

「わからない!!」と苛つくのか
うじうじしていじけてしまうのか
ぼーっと視線をそらして現実逃避するのか
それとも
「どう解くんだろう!」と目を輝かすのか

このチャートにあるとおり、「解き方がわからない問題こそ論理的思考力を鍛える」という「結果」はわかっています
でも、「解き方がわからない問題」に向き合った時、苛ついたり、いじけたり、現実逃避してしまう子に対し、どう向き合わせるのか、という肝心な部分がこのチャートにはありません

題字の下、「基礎準備」というところに、「算数感覚を養う」「算数表現(単位)を学ぶ」「算数の記号の理解」とあります
そのまとめとして「基礎知識」とあり、その下に、やっと「解き方がまったくわからない問題」と書いてあります
そう、そう、全くその通り
これだけのパーツが揃って、算数感覚が養われていて、単位と記号の意味がわかっていたら、「解き方がわからない問題」に前向きに向き合うことで論理的思考力はどんどん鍛えられます

じゃあ、その前の段階としての「算数感覚を養う」の部分はどうしたらよいのでしょうか
そして、どうやったら「前向き」に向き合えるんでしょう

再読したら書いてあるかもしれないので、もう一度読んでみようと思います

ただ、どんぐりは、これらのことを全て網羅しているなあ、とあらためてこのチャートを見ていて思いました

年長さんからどんぐりを始めようと思っている方や、環境設定の努力をしているご家庭ではよくわかると思います

どんぐりは生活そのものからスタートしています

言い方を変えれば、生活の中に「言語感覚」も「算数感覚」も豊富にあって、そういうことを大切にしていればどんぐり問題を始める頃には準備万端、という状態に自然となっているのです

以前にも同じ事を書いたかと思いますが、赤ちゃんと親御さんのための子育て支援のNPOで少し働いた時に、子育て講座の先生が「二語文」の話をしてくださったときのことをまた書きます

これは、言語感覚の話です

二語文、といえば、子育て経験のある方はすぐわかると思いますが
「まんま、たべる」「わんわん、いた」など、2つの単語を連ねて初めて子どもが発する会話文のことです
でも、その講師の先生は「一語文」という話をしてくださいました

「まんま」「わんわん」だけで、子どもが「単語」を発していると思うかもしれないけど、それは、身近な人(親など)に対して向けられたれっきとした文としてのメッセージである、と
「まんま(食べたいよ)」「わんわん(いたよ、見て!)」など、その発語には子どもの伝えたいことがちゃんと込められている、と

家に帰って母子手帳を見ると、1歳6ヶ月健診のページに
「ママ、ブーブーなど意味のあることばをいくつか話しますか。」という項目がありました
その隣のページに、こんなメモが貼ってありました

あらためて見返すと、どれもほとんどが名詞なのですが、
ただの発語ではなく、私へのメッセージだったんだ、と思うと、うきうきしたのを思い出します
こんな単語を発した時に、
たとえばこどもが「わんわん」と言った時に、
「本当だね、わんわんいたね。大きいわんわんだねえ!」などと反復しながら話したのを覚えています(いやいや、いちいちい意識しちゃいませんよ。ただのおしゃべりなだけで)
私がつらつらと流暢な日本語を話すのを(笑)きっと聞き取っていたのでしょうね
365日、起きているあいだじゅうずっと、2~3年間のリスニングレッスンを経て、見事に流暢な日本語を話せるようになったわが子です(どこんちもだがね。しかも上州弁だがね。)
誰だって、自分の発した言葉に誰かが反応してくれて、返事をしてくれたら、嬉しくて、もっと話したくなるでしょ

赤ちゃんや幼児連れで買い物をしている人に会うと、私のように赤ちゃんの「一語文」と会話をしている方もいれば、無反応な方もいますから、全員が全員、会話を楽しんでいるわけではないのねえ、と思うのですが、もし、子どもに豊かな言語感覚を身につけてもらいたい!と数年後、早期教育を探したりなんかして悩むくらいなら、ただただ、子どもとの会話を豊かにすればいいだけなのに、と思ったりもします

同様に、
算数感覚もです
いーち、にーい、さーん、って何でも数えました
歩きながら、拾いながら、空を飛ぶ鳥を見ながら、ぐるぐる回りながら
なんでも数えるのは楽しかったな
数えた日にはこんな絵本を読んで

拾ってきたどんぐりは、並べていましたね
小石も
葉っぱも
庭にあったささやかな砂場で、もりつけて遊びましたね
「あ、お母さんの方が大盛りね」なんて言いながら、遊びました

感覚を身につけるために大事なのは、身につけさせようなんて下心がないことなのかもしれません
ただただ、目の前の我が子を、人間として育てたかった
人間には言葉があり、表情があります(白目のある希少な哺乳類です)
そして、数を数えることができます
小学校に上がる前に親と暮らしながらできることは、そこまでの獲得への準備だな、と私は思っていました
何かを教えるんじゃない、人間が長い歴史の中で獲得した力を、同じように獲得させるためにどうしたらいいか、考えたりもしました

それには私が獲得の手順を踏んでいけばいいんだ、と思いました
子どもと一緒に獲得を楽しめばいいんだ、と

間違ったことを言っても正しませんでした
段階を踏んでいくだろう、と思っていたから
むしろ、幼少期の言い間違いはかわいくて、おもしろくて、忘れないようにこっそり辞典を作ったほどです

びっくりするのは、次女の幼児期に、保育園の年長から低学年だった長女は、次女の言葉の獲得や、数感覚の獲得を、私と同じようにゆっくりと見守っていたことです

私は次女にも、長女と同じようにゆっくりと獲得させていきたかったけれど、上の子がいると難しいんだろうな、というなんとなくの予想もしていました
ところが、長女は次女と一緒に遊んでいる最中、「おかあさん、おかあさん、○○のこと、●●って言ってるよ、かわいいんね、そのまんまにしとこうね」って嬉しそうに、ひそひそ声で報告してきました
そして、正しい言葉を知ってしまうと、「あーあ、直しちゃったんね、かわいかったんね」と残念がっていました

決してバカにしているのではなく、あかんぼ暮らしを小さな姉として満喫しているように見えました
私があかんぼ暮らしを長女とゆっくり味わったのと同じように

いまでこそ、こんな風に文字にできるけれど、当時の私がここまでの理屈をもっていたかというと、そんなこともありませんでした
ただただ、「邪魔をしてはいけない」と、長女を授かった時にどこかから聞こえてきた声に従い、私は、彼女たちがひとりで生きていく力を、人生を楽しむ力を獲得するまでに親としての最低限度のことだけをして、大いに影響してはいけないんだ、と自覚しながら一緒に暮らしました

だから、親にしか教えてあげられないこと(マナーやルールなど)も、年齢に応じてしっかりと教えてはきました

でも、教えてもいないのに、言葉にしてもいないのに、自然と身についている色々なことは、やはり、「こう育てよう」と思ったってそうはいかないんだよ、といういい例だと思います
大いに影響してはいけない、って思っていたって、影響してしまうのは自然のことなのだと
だからより、自分の立ち居振る舞いには気をつけよう、と思ったのでした

そして、だから、どんぐりを選びました
小学校の授業で本物の思考力をつけるのは不可能(そういう目的で授業が行われていない)だということは職業柄知っていたので、小学校の授業が有益なものになるように、その前に備えておくべき力をどんぐりでつけていれば心配ない、と本気で思っていました

もちろん、他の習い事にも一切興味はありませんでした
順番に獲得していく力なのに、急いで間違った入力をしたらもったいない!!と

だから、子どもたちはどんぐりだけで、自分の力で、解いたこともない解き方もない問題を解く、という経験を重ね、思考力を身につけていきました
その上で、学校での整理学習を有意義に活用していました

いま、頭に浮かんでいるイメージを言葉にするのが難しいのですが、
子どもたちの「論理的思考力」とやらを本当に頑丈に育てていくためには、
やっぱりあの大きなクロッキー帳の真っ白なページみたいな、
そんな生活が一番いいんじゃないかなあ、って思うのです
何かを教え込もうとか、何かを身につけさせようとか、何かを買い与えようとか、そういうことではなく、その子本来の育つペースと、獲得していく手順を守るとうことのために、極力邪魔しない、ということ
子どもに言葉や計算を教え込むんじゃなくて、自分が言葉や計算を正しく使う姿を見せること
自分が選択を見せること

たくさんの親子を見てきましたが、やっぱり、親の目論見は、子どもにはお見通しなんだな、っていつも実感するのです
無欲になるのはとっても難しいことでしょうけれど、欲をかいても子どもは思い通りには決してなりません
それならば、せめて、相思相愛の豊かで穏やかな関係を保てたら
ただただ、家族の信頼関係がすべての礎になったなら
子どもがちいさいうちは、人間として育てるための保育者である自覚を
ただ持っているだけでいいのでは

たぶん、その時期に「基礎準備」が備わっているかどうかで、
その後の「学力」は決まってくるのだろうと思います
小中学生になって難問にぶつかり、苛つく、いじける、現実逃避…となってしまうケースは、
恐らく、
幼少期に、自分の思考力を駆使して楽しんである程度の難関を乗り越えるなどの経験をさせてもらえなかったんじゃないかと考えられます

親がかわりにやってしまう
なんでも買い与えて対処しようとした(お金で解決)
すべてを最初から教え込もうとした
ゆっくり考えようとしているのを、急かした
など、
子どもがすべき基礎準備の機会を、大人が奪ってしまっていたのかもしれません

もしその「基礎準備」が備わっていない状態で、
しかも、難問にあたると「苛つく、いじける、現実逃避」というメンタルの状態で、
なんだかわからないけどさらに難しい関門を目指させてみたり、
親の希望をさらに上乗せされたりしたら、
子どもとしてはたまったものではありません

それよりも、今の自分にできることはなんだ!?と子どもが真剣に探せる精神状態を保ち、それを後ろで支えるくらいの余裕が持てたなら

そこのところをよく考えながら、
ぜひ、機会があったらこの本も読んでみてください