どんぐり学舎では、
月に一度、「さとぷり」という私の手書きの自作プリントをしています
いまのところ、今年度いっぱいで「さとぷり」は終了予定です
なぜなら、あらためて、毎回、全ての生徒の国語と算数の教科書進行を調べ、
生徒さんの住む地域の範囲が広いので教科書も一社ではなく、
あれこれ資料を広げて毎月手作りしてみたものの、
どんぐり問題を進める以上にこのプリントの持つ意味ってあるのかな?
と考えると、結論としてほとんどなく…
やっぱ、どんぐりだけで十分だな!ということがわかったからです
そして、
申し訳ないけど、やはり、生徒たちは、学校の授業を通して「わからなくなっている」現状が、手に取るようにわかってしまったわけです
そして、
どんぐり問題でやっとこさ身についた「自分で考える」ということが、ちょっと国語よりの、ただの自由作文だったり、創作作文だったり、ほんの短い文でも「習ってません!!」とか言い出す子が多数
いやいや、教えてません!習うもんじゃありません!自由に書いてちょうだい!と笑って言うのですが、書き出すまでに時間がかかる子がほとんどで…
ほんの少しのメモから子どもの表現の楽しさを引き出す作文上達法とか、糸山先生のひとこと作文みたいなのとか、少し前の生徒達ならわくわくしてどんだけでも書いたけど、最近、ますます書けなくなってきています
でも、みんなの中にはちゃんとある
上手な作文を書かせたいわけじゃない
書けないならおしゃべりだっていい
言葉を使って表現することの素晴らしさと楽しさの片鱗を、小学生でも味わってほしいし、その先へつなげていきたい、と私は考えているけど、年々、子どもたちの「表現意欲」は低下しているのです
それは…以前にも書いた、評価されることへの不安、抵抗感なのか…
今週のさとぷりは「習ってません!」からスタートしたわけですが…
4年生の、計算問題で驚きました
もうだいぶ前に過ぎた単元で、加減乗除が混じった計算です
知識としては、ほとんどの4年生が「かけ算と割り算が先」と覚えていました
でも、そのあとどうしたらよいか…
手が止まっている子が多く、
解けた子の書いたものの多くは上の写真のようなものでした(泉代筆)
小学校で教えられる計算方法は、さくらんぼ計算はじめ、「余計なことをしてくれるなよ…」と泣きたくなるほど困った方法が多いのですが、この場合、どのような教え方をしたのか、少なくとも、全く「書き方」がわかってないじゃないか…と頭を抱えました
でも、たった一人だけ、こう書いた子がいたのです
普通に模範的な書き方ですが、私はびっくりしてしまいました
この違いはなんなのだろう
他のほとんどの4年生は全くこのような書き方をしていないのに、
この子はなんの迷いもなくこのように解きました
上の写真との違いが、わかりますか?
私は長年中学生の勉強をみてきて、当たり前に感じています
意味を考えずに表面的にできるようになっても、定着しないし、力として身につかない、ということを
小学校で「等式」が出てくるのはもちろん1年生の足し算ですが、学校の先生は「等式」の意味と、「等号」の意味を、どこまで説明しているのでしょうか
1年生に教えても難しくてわからないから、と、教えていないのでしょうか
でも、その結果、上に書いたような、「等式」とは言えない「等式」で、「等号」の意味を持たない「等号」を平然と書いてしまうようになっていきます
ずーっと昔に勉強したシュタイナー教育の算数では、「等号」を理解するまでものすごく長い時間かけて授業をしていました
式を書くとか、正しく計算するとかいう以前に、「数」とは何か、なんのために「演算」はあるのか、そして、何より「からだ」で数感覚を味わって、理解するのです
※ちょっとデンタ君に近い考え方
引用
授業ではまず全体を教え、それを分割していくことで加法を導入し、その次に部分を総合していくことで全体に向かうのをほのめかします。これを進めるに当たって、ひとつには、こうした演算をトチの実、石ころ、棒など、できるだけ多くの素材で練習することが大切です。さらには、できるだけ早期に応用例を取り上げるのも重要です。ちょっとした計算物語によって、計算問題が出てくるような状況を描き、子どもたちに課題を与えてみましょう。
分析的・総合的な加法を始めてから、すぐにその他の演算へ移行します。差分計算をさせるためには、よく好まれている〈指当て〉を、すでに述べた〈数当て〉の特殊な場合として取り上げます。子どもの目をつむらせて、その子の指を何本か掴みます。そして、その掴んだ指の数を当てさせます。この〈指当て〉は、意識を指に向けさせるのによい練習です。最初の質問に続いて、こう問います。「それじゃ、掴んでいないのは何本?」これに対して子どもは、もちろん最初の場合と同じように、掴まれていない指に意識を集中して答えることもできます。全部で10本の指があって、6本を握られました。それだったら、4本が掴まれていないわけです。
本当の意味での差分計算は、だいたい最初のエポックの第三週目くらいのメインテーマになります。そのときには、子どもがお使いに行ってリンゴを買ってくる場面を話してみましょう。子どもは1000円持っています。リンゴは全部で400円で、100円玉をおつりに6つもらいました。片手に袋に入ったリンゴと、もう片手にはお金を握りしめて、急いで家へ帰ります。すると、道路にチャリーンという音がしました。子どもが立ち止まって手の中を見ますと、100円玉は2つしかありません。見ると、道路にお金が散らばっています。さて。いくつ探さなくてはならないでしょうか。これがわからないと、いつ探すのをやめていいのかわかりませんから、もしかしたら一日中探し続けていることになります。何かをなくしてしまったときには、いくつなくしてしまったのかがわかっていると、どんなときにも役に立ちます。そうすれば、ずっとうまく探せます。
本来の意味での減法は、第2段階として取り上げます。つまり、100円玉6つのうち4つをなくしてしまったら、いくつ残るでしょうか。2つです。初めの状況では、本来あったもの(結果)と新しい状態(受動)から変化(能動)が問われています。第2の場合では全体と損失から新しい状態が問われています。第1の場合では、与えられた2つの状態の関係、つまりまさに差分が問われていますし、第2の場合では、減法の結果が問われています。
引用終わり
※どんぐり問題みたいでしょ
さて、等号を縦に揃え、等式のルールを崩さない見事な計算の書き方をした4年生に私は尋ねました
「この書き方は、学校で教わった通り?」
「はい。」
覗き込んだ5,6年生が口々に「イコールは縦に揃えるんだよね」とか言い出す
「中学ではそれは当然だよ」というと、
「最初からそうすればいいのに!最近急にだよ!」と
低学年はぽかん
なにより、私は自分の娘たちの算数のノートに驚愕
「イコールは横にどんどんつなげる」と教わっていたからです
それも今は昔、変わってきているのか…?とも思えず
だって、4年生でこう書いたのはひとりきりだったのです
横に繋げるとしても、等号の意味をしっかりと教えておかないと、なんでもかんでも適当につなげてしまうではないの…
娘の頃も先生と何度か話しましたが、当時納得するような先生はいませんでした
それで、中学生にぴょんと飛んでいくと、
複雑な計算になればなるほど、整理して書けないので解けなくなります
複雑な連立方程式などは、場当たり的な解き方をして正解がでるはずもなく、
いったい自分が今、なんのための計算をしているのかさえわからなくなってしまう子もいます
ただ整然と書く、ということだけで解決することなんだけどな
それで、この26年間の変化をみていて思うのは、
「型にはめる教育はよくない」という理論の中にある「型」と、「演算の型」ということを同じようなものとする間違った考え方です
それは英文法も同じです
私の教室には英日バイリンガルの子が何人かいます
だから、日本人向けの英語教材について「実際にはそんな風に言わなくても通じる」などという話題になることは多いです
でも、私たちが中学生の間に学ぶのは、英語の「あいうえお」です
文字や言葉を覚えたばかりの小さな子どもに、「ご飯を食べる」の「を」は、別に「お」でもいいんだよ、なんて、JKがふざけてLINEに書くような「わたしわ~」的な誤用を積極的に教える必要はありません
そして、英語は「型」だよ、と私は何度も、何度も教えるのです
型なんか知らずに24時間365日のリスニングとシャドーイングで、私たちは生まれて3年ほどで日本語を習得しました
でも、日本にいながら英語などの外国語を習得しなければならないとき、
24時間365日のそんなことがかなわない場合、「型」から覚えるしか、方法はありません
少なくとも、中学校3年間の英語の「型」なんて、たいした分量でも種類でもないし、基本的には同じような原則を覚えれば済むことなのですが、これもまた、ちっとも身につかないのです
数学の「型」と同じことなのでしょうか
私はかつて、ある武道をやっていました
武道はそれこそ「型」だらけで、一挙手一投足、角度や置く位置まで決まっています
それを自己流に崩すことは許されません
最初は、その型を覚えるので精一杯でした
でも、部活動でしたし、武道でしたから、その制約の中で、段々と、自分の力をつけることや、同じ型をとっていてもそれぞれに力が違うこと、魅力が違うことなど、わかってきたのでした
不思議なのは、やめて何年たっても、その「型」を身体が忘れていないことです
昇段試験には筆記試験もあったので、教本を暗記して試験に臨みましたが、もちろんそっちは全部まるごと記憶から消えてしまっています
でも、試しに「型」を始めてみると、最初から最後まできちんと作法ができるのです
海外で日本の武道が人気なのは、この「型」を大事にする部分が魅力でもあるのかな、なんて素人考えですが、少し思います
実は算数・数学・英語にも「型」があって、それは「パターン学習」とも全く違っています
(ああ、ちなみに高校入試前にならないと教えませんが、国語も「型」があります)
大工道具がないと大工仕事ができないように、
電源がないとパソコンが使えないように、
全ての学習において、ひととおりまず揃えなければならないのが「型」なんです
型にはまらず自由に学べよ!
自分流で伸び伸び学べよ!
と、大きな声で叫んでいるとっても賢い人たちはきっと、
そんな「当たり前」の型は一度見ただけで覚えてしまうくらいの力を持っています
そんなことはできて当たり前だろ、って素通りする部分です
現場を見てください
「式の書き方」さえ、体得しないまま、小学校の算数は進んでいます
教わった通りぴったりじゃなくていいけど、等式の意味と等号の使い方を知っていたら、自分流でもいいから書けるはずなのに、どうしたらよいかわからないで止まってしまうのです
それは、自由作文を「習ってません」といって書けないのと同じように
意味を教えずに、型だけを教えたらそれはパターン学習です
意味がわかれば型が生きる
整然と計算を書いて解いたこの子の中には、等式の意味と型がきちんと納まっているのです
「褒める子育て」を勘違いしている人が多いのと同じように、
「型にはまらない勉強法」を勘違いしている人も多いのかな、ということを感じます
なんでもいいよ、自由でいいよ、っていう方法と、
先生の教えたとおりに、とにかく何も考えずに真似して解きなさい、って方法が
子どもたちの中に混在している気がします
そう、ほとんどの子どもたちは、意味を考えなくなっているのかもしれません
ちなみに計算がうまく書けなくても、どんぐり問題は解けます
でも、5MX6MXまで行くと困難になってきます
そのまま中学生になるのも危険です
計算が便利なツールだな、と気づいた子は、中学数学でも苦労していません
学校で変な方法を教わっても、「先生が教えたいのはこういうことだろうけど、こういう方法もありだよね」などと言ってくるどんぐりっこはいます
学校の先生がこう言っていたから!!と意固地になっていると、中学で壁にぶつかるのです
先生が全てじゃない、先生は一例を挙げている、なにより信じるのは自分の思考力だ、と気づいている子は強いです
…しかも先生は責任をとってくれませんから…
そこまで逞しい思考力を小学校で手に入れることができたらいいですね