以上、どんぐり文庫より

先日、北海道のどんぐり先生(紀のこ先生)と、
東京のどんぐり先生(はちたま先生)と
どんぐり学舎でおしゃべりをしました

その時に、
話題になったことを今朝、ふと思い出していました

それって、全てに繋がることなんじゃないか…
当たり前すぎて、みんな、見えなくなってる
それほどでもないよね、ってみんな、たいしたことないって思いこんでしまっている
でも、それはとてもとても、大切で、
そして、それを失ったら、それは、とてもとても、まずいことになる…

それは、
「ゲームそのものが悪いというより、ゲームをすることで使う時間が問題なのではないか」という話題でした

それは、私がどんぐり学舎の保護者さんから聞いたあるエピソードからの話題でした

どんぐり学舎の生徒さんが、小学校の修学旅行から帰ると、いつものようにお母さんに、どれだけ修学旅行が楽しかったか、それはそれは幸せそうに報告しました
あんなことがあったよ、こんなことがあったよ、先生がこうしたよ、ぼくらはこうだったよ…
きっと、キリもなく、息つく間もなく、話し続けたんだろうな…と私も想像できます
そのことを、保護者さんが担任の先生に伝えたところ、先生はたいそう喜んでくださったそうです
ただ、担任の先生の調査によると、クラスの中で、他に、親に修学旅行の話をした子が、ほとんどいなかった、という衝撃の事実が発覚…
それには先生もびっくりなさっていたようです

そのエピソードを紹介すると、
どんぐり先生達との話の中で、「なぜ、修学旅行の話をしないのだろう」
という話題になりました

我が子が、学校から帰ってきた時や、修学旅行などから帰宅してきたときのことを思い出していました
私は子どもが帰宅する時間には、在宅していて、その時間帯だけは家事や仕事をしないように調整していました
その前後はずっと仕事をしているのですが、帰宅する時間だけは、という調整ができる自宅自営業の利点です
すると、もしかして、いま、夜までフルタイムでお仕事をしている親御さんが多い昨今、子どもは、帰宅しても誰も話し相手がいなくて、ひとりですごしているうちに「話したい!」という気持ちが半減していくのかな…と想像できました
そして、ひとりで待っている間、ゲームをしたり…テレビを観たり…ネットをしているとしたら
「ただいまー」と親御さんが帰ってきたら、すぐにゲーム等をやめて「あのね!今日ね!」とか、「あのね!修学旅行でね!」とか、そんな感じにはならないでしょうか
また、忙しく帰宅した親御さんが晩ご飯の支度をして食卓に家族でついたとき、「あのね!今日ね!」とか「あのね!修学旅行でね!」とか、そういう話題にはならないでしょうか
また、子どもが「あのね!」と飛び付いてきたとき、「ちょっと待って、今忙しいから」と他のことを優先したり、親御さんご自身もスマホを見ていたり…そんなことはないでしょうか

クラスの多くの子が、修学旅行から帰ってもその話を親御さんにしない、という状態

私にできる想像はそのくらいです

ゲームやネット、テレビの「悪影響」はその内容ではなく、
家族と話すよりも、家族と過ごすよりも、また、友達と交わるよりも、ずっと楽しくて楽で、自分本位でいられる、そんな風に時間を費やすことで感覚を麻痺させてしまうこと、他のことを面倒くさく思わせてしまうこと、そういうことなのではないかと、どんぐり先生達と話しました

なぜ、子どもたちは、ゲームやネットにのめり込むのか
もちろん、楽しいからに決まっていますが、元々は、生まれつき「そっちのほうがいい」とは脳はできていないんじゃないか、と私は考えています

赤ちゃんは、よく目が見えなくても動くものを目で追い、ただの単調な模様や無地のものよりも、人の目玉のように見えるような絵に集中する傾向がある、という実験結果があります
私の経験でも、生後2ヶ月くらいの頃に読み聞かせた絵本の中で、子どもが好きだったページを覚えていますが、それは、人間に似たサルの親子のイラストが描かれたページでした
そのページをめくると嬉しくて手足をばたつかせていましたし、もう少し月齢が上がると、そのページをめくる前に、「くるぞ~くるぞ~」と私の腕をぎゅっとつかんだりして「楽しむことを覚悟する」ような仕草がありました

人の目が好きなんですね
興味があるんです

子どもは、夢中で遊んでいても、ときどきはっとふりかえり、親を探します
少し離れていても、親と目があって、にこっと笑い合うと、また安心して遊びを再開します

そんな些細なコミュニケーションが、幼少期の子どもの好奇心や、自信、学習意欲につながっている気がしてなりません

はっとふりかえっても、親がいなかったら
また、親がいても、自分じゃなくて、スマホに夢中だったり、おしゃべりをしていて、全く自分の方をみていなかったら

小さな子どもにとってそんなに不安なことはありません
「大丈夫だ」という確認作業は完遂できません
そんな時、子どもは急に泣きながら親に近づいてきたり、また、他の子にちょっかいを出してストレスを解消しようとしたり、手近にいる大人にかまって攻撃を始めたりします

そういうことの積み重ねで、
「親を探しても意味がないな」「親に話しても意味がないな」などと繋がっていく気がしてなりません
小学生になって急に、「なんで話してくれないんだろう」って思っても遅いのです

少し前に、
発達障害と診断された親御さんからの相談を受けました
凶悪な犯罪などが起こると、その容疑者の半生が紹介される中で、
発達障害の病名が出てくることが多く、
我が子も、いつかそんな犯罪を犯す可能性があるのでしょうか、というような内容でした

私は、長年この仕事をしてきて、医師に「発達障害」と診断された子もたくさん見てきましたが専門家ではなく、また、診断されていないものの、明らかにグレーゾーンだぞ、と親御さんもわかっているようなケースもよくありました
また、親御さんも気づいていないけれど、少し、ケアが必要だな、と思われる子も見てきました

また、一時期、発達障害の専門家の話を聞きにいったり、専門書を読みふけった時期もありましたが、そのたびに「私も発達障害じゃん」って思ったりもしました

たくさんの項目があり、もしかしたら誰でも当てはまるんじゃないの?というようなことが多いのです

犯罪を犯すのかどうか、なんて私にも、誰にもわからないのですが、私の経験で、確実に、わかっていることがあります

それは、発達障害って名付けられていようが、健常児だろうが、そんなことは関係のないことです

あれ、急に話が変わったぞ、って思いましたか?
親に話をしない子どもたちのことじゃなかったっけ?って
発達障害の話だっけ?って

変わってません
私がわかっていることを書いています
その両方に大きく関わりがあります

やはり、大事なのは子ども時代なんです
まだ言葉も上手に使えない、
まだ自分のことをちゃんと自分でできない、子ども時代
その時から、子どもの人生はずっと先までつながっていて、
親(または親に代わる存在)との関わりの中で、その先の人生における、子どもの生き方、人間としての存在のしかたが変わってくるのです

どうしたらいいのか
簡単なことです
子どもが親を探した時に、そこにいてあげられること
子どもが親を見つけた時に、目があって笑い合えること
これは、
お仕事から帰るのが遅い人には不可能!なんてことはありません
私の友人は、
女手ひとつで子どもたちを育てましたが、フルタイム勤務で子どもの帰宅時には家にいられないので、毎日、子ども宛に手紙を書き、おやつを用意してから出勤していました
小学校を卒業するまでの間だけぎゅっと、頑張っていましたよ
また別の友人は、家族間での交換ノートのようなものを作り、キッチンにぶらさげておきました
帰りが遅い時はそこに子どもたちへのメッセージと、家事の分担をお願いする旨、書いておくそうです
すると、急いで帰宅した友人が家に入る頃には、ご飯が炊けていて、子どもたちがテレビを観たりして楽しそうに過ごしているものの、「おかえりー!!」と迎えてくれる、という日々だそうです
永遠に続くわけではなく、子どもの人生で考えたら始まりのほんの少しの間です
その間だけ、親がいつも自分をまっすぐ見ている、と実感させられたら、それだけで、十分なのです
お金や、豪華な旅行や、プレゼントを用意する必要はないのです
ただ、子どもがふりかえったら、親がにこにこと見ている
おーい、と呼んで探せば反応する、そんな距離感でいてくれている
それだけでいいのです

発達障害のお子さんの場合、子どもからの呼びかけやメッセージが、わかりづらいことがあります
他の子が喜ぶようなことを、全身で拒否する子もいます
喜んでいるのに、ぱっと見わかりづらい反応をする子もいます
理路整然と話しても、いちどにいくつものことが伝わらない子もいます
そして、
周囲のみんなができているのに、ひとりだけできなかったり、
努力してないように見えたり、
親から見て、もどかしかったり、切なかったり、することが多いかもしれません

それでも、変わらないんです
やはり親は、
どんなにわかりづらくても、どんなに反応が薄くても、子どもが発するメッセージをキャッチしてあげるんです

思春期には背を向けっぱなしかもしれません
それでも、
ずっと変わらず親は、子どもがふりかえった時にはそこにいて、ほほ笑んでいる
子どもに探されたら、「ここにいるよ」って合図してあげられる
そんな存在でいたらいいんです

もし、犯罪を犯すような人間になってしまったとしたらそれは、
発達障害だからではなく、
発達障害だろうと健常者であろうと
その人は、大切な人に振り向いてもらえなかった、
見ていてもらえなかった、だから、
自分が、かけがえのない唯一無二の存在だなんて、思ったこともなく生きている
だから、
たとえば誰かの命を粗末にできる
自分の命さえも大切に思っていないから
だから、他人の命などもっと大切には思えない

専門家でもない私が書くことでもないけれど、
これまでたくさんの親子と関わってきて、私が知っていること、気づいていることを書けばそんなところです

同じように勉強しても、どうしても文字が認識できない子がいる
一緒に数えても、どうしても、数量感覚が鈍い子もいる
そこでその子の人格を否定するようなことを、先生はもちろん、親も言ってはいけないんです

じゃあ、どうしたらこの子がひとりで強く幸せに生きていけるかな、って
考えるんです

犯罪者にならないために、じゃない
自分の命も、他人の命も、当たり前に大切にできる人間に育てるために

自分の命が大切、って思えるのは、
自分よりも自分のことを大切にしてくれる存在があるからなんです