昨日は恒例のどんぐり学舎座談会でした
翌日の雪予報や、インフルエンザの流行もあり、参加予定だった方々の欠席もあって人数はいつもより少なく、またいつもとは違った、濃密な時間が過ごせた気分です
参加したくてもできなかった方のためにも、こんな話をしたよ、あんなことを話したよ、と全部お伝えしたいのですが、今日は私が座談会のあと、夕べからずっと考えていることを書いてみようと思います

昨日は、
初めて参加してくれた若いお母さんもいました
みなさん熱心で、真面目で、まっすぐで、私が何か話すとメモなさっているのですが…
メモするようなこと、何も言ってません…恥ずかしい…

どうかどうか、そのメモをネタにゆすってくださいな
「ちょっと!!どういうことっ!さとちゃんっ!?」ってね

それが「答え」だなんて思わないで
一緒に考えましょう
あーでもない、こーでもない、って一緒に話して、うーん、って悩んで、
…一緒に泣いて、笑って、これからも、なんとかやっていきましょうよ

中学生ともよく話すのですが、質問の仕方を考えている時、また、誰かに説明している時、自分の中の理解度や、思考がぐんと深まるのだよ、と
ただ受け身で情報を集めているだけでは動かない脳の部分が、「あれ?」って思って調べている時、質問しよう、って準備しているとき、ごわごわって動くんだよね、って

大人の相談でも全く同じなんだなあ、って昨日は何度も感じたのです

そして、その時、ご自身は気づいていないかもしれない、でも、考えてみるとそうなのかもしれない、と、もしかしたらこの文章を読んでさらに深い考えに至るかもしれません

「テレビを見せないと周囲の子と違って育つ?」という質問が出ました
“テレビを見せない”という育児の手段を唱える専門家はたくさんいます
どんぐりだけではありません
私はどんぐりを知る前から「子どもを授かったらテレビなし育児をしてみようっと♪」とるんるんで妄想を楽しんでいました(まだ結婚もしていない10代の頃です)
周囲の子と違って育つ?なんて、考えてみたこともありませんでした
テレビが悪いわけではありません
テレビが嫌いなわけでもありません
ただ、赤ちゃんや、小さな子どもにとって、テレビの楽しさや刺激を知る前に見せてあげたいもの、聞かせてあげたい音がたくさんあったので、テレビはその後でいいかな~というくらいの思いでした
進学塾に勤務していた頃、この仕事を通じてたくさんの子どもたちに出会った訳ですが、今よりもメディアの種類は少なく、スマホも動画サイトもなく、子どもの楽しみはゲームか、テレビやビデオくらいしかなかった時代で、それでも、いかにも「毒されている」くらい、それらに没頭している子を、こちらの世界に引き戻すまでの苦労は大変なものでした
学力はもちろんのこと、基本的な交友関係、ものの扱いなどにも影響するほど、脳内がそれらで満たされすぎている子たちをたくさん見てきました
それらと上手に付き合っている子・家族を探す方が大変でした

“周囲の子と違って育つ”の向こう側にあるのは、実は大人の不安です
この質問のケースだと、お母さんご自身ではなく、他の御家族がそう言っている、というものでした
お母さんご自身がそう思っている、という相談を受けたこともありますが、旦那様や、御両親からそう言われて悩んでいる、という例も少なくありません
わたし自身も、親族から「テレビを見せないと頭が悪くなる!」と言われては困惑したものです

周囲の子と違って困るのは子ども本人で、周囲から孤立する我が子を想像するととても悲しい、つらい、という親心がその言葉の真意だとは思います
でも、その言葉の向こう側には、実は、その大人の方自身が、孤立したくない、目立ちたくない、当たり障りなく、波風立てずに普通でいたい、という願望をもっているケースが多いです
つまり、違って困るのは子どもではなく、親である自分自身なのです

わたし自身が、なぜ一定期間テレビと子どもとの距離を置いて育ててきたか、という理由の一部は上に書きました
テレビだけではなく、幼児期までは電子音のほとんどを家庭生活の中では努めて減らしていました
小学校3年生くらいまでは、一切見なかったと言えるくらい、見ていなかったと思います
高学年になると、録画したアニメなどを週に1日、見るかみないか、という感じでしたが、なぜか大晦日の紅白歌合戦は眠くなるまで家族で見る、という習慣ができました(今でも)

たとえばテレビに動物が映っていても、それは、テレビの中で、見たこともない動物であれば、それが初めての出会いになります
日本にいない動物や、野生で、滅多にお目にかかれない動物など、テレビ番組のスタッフさんや研究者が撮影に成功したものなど、貴重な映像を見ることができるのはテレビの素晴らしさだと思います
でも、「出会う前に出会わせたくないな~」と漠然と思っていました
もちろん、全ての「本物」を見てから、なんて無理に決まっているのですが、ある時期までは、テレビの中に面白いものがある、って知らなくてもいいんじゃないかな、って思っていたんです

「初めての出会い」って、とっても大切じゃないかな、って子どもの気持ちになると、思いませんか
私の娘たちは、「初めて板チョコを食べた時」とか、「初めてどこそこに行った時」とか、そういう話を時々していますが、彼女たちにとって「初めて」って印象深かったのねえ、とやはり思うのです
映像を見る、ということは、大人がさらっと見ることよりも、子どもにとってかなりの破壊力…影響力を持ちます
そう感じたことはありませんか?
すごく怖い例えですが、「交差点で乗用車とトラックが衝突事故を起こしました」という文面を読むのと、その実際の映像(今は、防犯カメラなどの事故映像を簡単に流しますね…)を見るのとで、どのくらいの影響力の違いがあるかは、容易に想像できるのではないかと思います

当時、私にはただただ、単純に、「このきれいなかわいい目に、初めての何を映してあげようか」というきわめて前向きな気持ちが主軸としてあったのです
初めて聞く言葉、も同様です
テレビから流れてくる言葉は、こちらが厳選したものではないし、垂れ流しにしていたら、言葉を獲得する時期の子どもにとってどうなんだろう…という(大人にとっては娯楽でも)内容の番組は多いです
番組が悪いのではなく、見せるか見せないかは家庭で判断できるのです、ということなんです

そんなわけで、私は子どもたちとの暮らしの中で、とてもとても、テレビやビデオを見せる暇などないわ~というような時間を過ごしてきたわけなのでした
かっこよく言うと、「感性を守りたかった」のです
「感性」が守れたら、テレビ番組もより楽しめるだろうし、人生そのものも結構前向きに楽しめるだろうな、と

それに、「禁止」という概念もありませんでした
「テレビを見てはいけません」と念を押したこともありません
ゲームは家の中に存在しないので、禁止も制限も必要ありませんし、生まれてから保育園時代、小学校時代…帰宅してから入眠まで、テレビなどを見る時間がなかったのです
それは、早く寝る、というのもひとつあるかもしれません
中学生からは「自己判断」ですが、長女が中学生になってもまだ次女は小学生
でも、「中学生から」という判断を次女自身が理解していて、長女がテレビを見ているからと必ず一緒に見たがることもありませんでしたし、長女も少しは配慮していました
現在、長女は高校生で次女は中学生ですから、ふたりとも「自己判断」
時間を費やしすぎてその後困ったりするのも自分の責任であり、それも経験です
今のところ、それぞれが自分で判断し、まだ時間ドロボウに盗まれてしまったほどの状態ではなさそうですよ

テレビを観ないと周囲と違って育ち、差別されたり、いじめられたりするのか、というと、長年見てきて、どうやら、差別されたりいじめられたりする原因は、そのひとつのことにあるというわけではなさそうです
最初はテレビ番組の話がきっかけであっても、人をバカにしたり、人が知らないことを自分が知っていることで優位に立とうとする人間(子ども)はどんなネタにしてもそういうことをしなければ気がすまないことが多いですし、以前、相談を受けた方の場合だと、「ゲームを持っていないからいじめられる」という息子さんの状態を危惧し、ゲーム機を買い与えたら、嬉々として仲間の元へ走っていき、一緒にゲームで遊ぶようになったものの、1週間後には、次のゲームソフトに移行、そこでまた「お前持っていないのかよ」攻撃の再開
親御さんはまた不憫に思って新しいそのゲームソフトを探して買い与えたものの…
この話は永遠に終わりのないものだとわかりますよね

だから、「テレビを見せないと周囲と違って育つのではないか」という心配は、杞憂です
テレビを見せれば周囲と同じように育つというわけでもない、いじめられない、という保証もない…つまり、そこに関係はないのです
関係があるのはもっと別の場所ですね
テレビそのものにあるはずはないんですね
それについてはまた別の機会に

もし、
ご自身の中に子どもの成長や発達、環境について不安なことがあったり、先のことを考えて心配になったりした時は、その自分の思いの正体はなんなのか、少しの間、考えてみることをおすすめします

子どもは、幼ければ幼いほど、大人のこしらえた環境の中で育ちます
自分で選んで自由にしているように見えますが、実際には選択権はありません
逆に、「これがいいの?」「どうする?」と、子どもに尋ねてばかりいると、子どもは、迷い、選択の方法を学ばずに大きくなっていき、ある年齢になると、その迷いが精神的不安につながり、とても苦しむことになります
それが、集団生活での自分の位置が不明になったり、自分の意志が通らない時の精神的苦痛になっていきます

すべきことがある場合、すべきでないことがある場合、「今はこうしますよ」と子どもを導くことで、子どもは親の選択の方法を見て育つことができます
何の手本もないまま、大事な時期を過ごしてしまうと、子どもは迷うばかりなのです

ましてや、大人の中にまだ迷いや、不安があったならば…

世界にはたくさんの「教科書」が転がっています
大人には、それを子どもより先に見つける力があるはずです
てのひらの小さな端末ばかり覗いていないで、子どもと一緒に外に出てみてください
雪解けのみずたまりを、マフラーをグルグル撒きにして長靴履いて蹴飛ばしに出かけてください

子どもと一緒に見るものには、温度があって、音があって、触り心地があって、においがあるんです

あー、冷たいねえ!
寒いねえ!
子どもはキラキラした目で、私たちを見上げるでしょう
白い息の向こうに、大好きなお父さんやお母さんの顔を見つけて、嬉しくて仕方ない、っていう表情を見せてくれます

迷いはなくなりますよ

もし迷ったら、SOS!送ってください
待ってます