先週、DK生と質問メールのやりとりをしているときに、
ある子が書いてきました
「先日のテストの、国語の文章題の問題文を読んで、怖くなったのです」と
「わたし(自分たち)のことを言われているようだ、と」
概要として、「手っ取り早く覚えるだけの勉強、理解でなく暗記に頼る勉強は、身体の記憶として残らない促成ノウハウである」というようなことが書かれている、とあったので、すぐに、そのテスト問題の写真を撮って送ってもらいました
出典を見て、「そういうことか」と納得し、抜粋され国語の問題になったその部分を一通り読んでから、私はこの本を取り寄せてすぐに読みました
『「わからない」という方法』 橋本治著 集英社新書 2001年発行

橋本治さんかあ!
惜しくも、昨年亡くなってしまったけれど、かつて私も何冊か読みました
古典が好きなので、古典関連の本はほとんど読みましたが、ずばり、「頭のすごくいいひと!」という印象を持っています
私より少し上の世代の方々にとっては、超有名な方です
芸術家なのか、文芸家なのか、とにかく天才で、ユーモア溢れる方と思っています

そんな先入観を持って読み始めたのもありますが、あらためて、橋本さんの書いていることがどんぐり的にも心に響くことが多いので、何回かに分けて、この本の中身を紹介しようと思います

まずは、私のかわいい、大切な生徒をおびえさせた一節を今日は紹介してみます

「わかる」とは納得することである
 「わかる」とは、順を追って理解していくことである。そうすることによって、学ぶ側に「納得」が起こる。「わかる」とは「納得すること」なのだから、「わかって行くプロセス」とは、「我が身を納得させる時間」に等しい。すべてのものが、初心者に対して「基礎を確実にマスターする」を要求するのはそのためである。
 そして、初心者にとってなにが一番いやかと言えば、「基礎を確実にマスターする」の間のチンタラした時間である。「それをマスターして、さっさとカッコいいものになりたい」と思う人間にとって、「基礎を確実にマスターする時間」はカッコいいところがなにもなくて、おもしろくもなく、下手をすれば「ぶざまな自分」にも直面してしまう、「いやな時間」でしかないのである。
 「基礎を確実にマスターする」をしたくない人間は、だから、「なにかをマスターする」ということ自体から手を引いてしまう。「そんな面倒なことに手を出す必要なんてない」と思えばいいのである。ところがしかし、事が「はやりもの」になってしまうと別である。必ず流行に乗って、「先生、なんとか一つ手っ取り早く」という人間は出てくるのである。
 「めんどくさいことはしたくない。しかし、流行の波にはは乗り遅れたくない」と思う人間はいくらでもいて、そんな人間のために案出される方法が「これだけ覚えればもう安心」という種類の促成ノウハウである。
 こちらは「順を追って理解する」を生徒に要求しない。「手っ取り早くこれだけ覚えればいい」である。覚える量は「これだけ」だから、いかにも少ない。その量の少なさが、「ああ簡単だ」という錯覚を生むのである。
 促成ノウハウが要求するのは、「理解」ではなく「暗記」である。「時間をかけて我が身に刻む」ではない。「さっさと脳に記憶させる」なのである。脳が「わかった」と思えば、もう「知っている」ということにはなる。脳が勝手に考える仮想現実(バーチャルリアリティ)の中でだけ、「達成」は起こって、当人は「もう理解した」と思う---だから、それ以上の面倒は不要なのである。
 暗記して、そして、それはただ暗記しただけなのだから、身体への記憶としては残らない。時がたてば忘れられる。もちろん、その時にはもう「流行」が去っているのだから、「それを覚えている必要」もなくなっている。「一時的に必要だから、一時的に暗記した」---それですべてを通して行けば、すべてが「その場しのぎ」になって、結局はなんにも残らない。「さっさと覚えてさっさと忘れる」---促成ノウハウとはそんなものである。
「暗記」は無意味な忍耐である
もちろん、この私は無意味な暗記が嫌いである。なぜ嫌いかと言えば、私が脳味噌で生きる人間ではなく、身体で生きることを本分とする人間だからである。

 暗記とはなにか?暗記とは、身体にとって「無意味な忍耐」なのである。
 暗記するのは脳である。脳の方は、それを暗記することに「意味がある」と思って暗記をする。しかし、暗記とは、一時的に思考を停止して、「暗記」という忍耐を脳が受け入れることなのである。私はそのように解釈する。
 脳の方では、その苦痛=暗記に「意味がある」と思う。しかし、脳以外の身体にとって、それは「無意味なこと」である。思考停止になっている暗記の間、身体は放ったらかしにされる。放ったらかしにされた身体は「またなんかつまんないことを、脳はやってやがんな」と思う。そして、「つまんねー」というようなサボタージュ信号を脳に送ってしまう。だからこそ、暗記は退屈でつまらない。すぐに飽きるのである---そう思うのが正しい身体のあり方で、暗記を苦痛としない、促成ノウハウが好きな人は、自分の身体性に無関心な人なのである。
 私が暗記を「無意味」と思うのは、その間、本来だったら「納得する」という方向へ進んでいるはずの身体が、置き去りにされているからである。「身体を活用しない」という点において、暗記は「無意味な学習」なのである。脳は、「これだけ暗記すればすむ」と勝手な勘違いをしているが、身体は、「俺たちを納得させてくれよー」と叫んでいる。私がやたらの数の絵を「セーターの本」で描いたのもそのためで、私は「脳に届く暗記」ではなく、「身体に届く納得」を目指したのである

次回は、この引用文中に出てきた「セーターの本」についての部分を引用したいと思います
ここがまた、糸山先生のどんぐり理論と重なって、非常に興味深い部分となっています
視覚イメージの再現が、いかに思考力と直結しているか、と論じられています

さて、ここで「暗記」する勉強法について考えてみたのです
たとえば、私に集まる質問の多くが「学校の先生にこう教わったのですが…」という切り出しです
学校の先生に教わった、教科書に書いてあった、などなど、切り出しは様々ですが、私は必ず聞き返します「自分ではどのように考えたの?」

コロナ休校中のオンライン授業で、小学生と特別授業をしました
それは、分数や割り算の仕組みを説明する糸山先生の「お宝算」の授業をするための企画でしたが、試しに参加した子どもたちに雑談として聞いてみたのです

さと「三角形の面積はどう求めるの?」
生徒「底辺×高さ÷2~!」
さと「なんで?」
生徒「…なんで…ってそう教わったよ」「教科書にあったよ」「先生が言ったよ」
さと「でも、なんでなの?なんで÷2するん?」
生徒「…なんでだろう…」

この話は、どこかに書いた気もするので、ここに書くことは省きますが、
何度でも書けますので、リクエストがあったら続きを書くことにします(笑)

このような公式の説明は、教科書には書いてあるし、先生もさらっと説明はしているはずです
それでも、子どもたちの脳内に残っているのは、公式を暗記するために何度も繰り返した練習問題や、宿題のドリルの問題なのでしょう
だから、「なんで底辺×高さ÷2なのか」考える必要も、覚えておく必要もない、と脳が判断しました

だから、公式を忘れたら解けなくなるし、うっかり「÷2」をし忘れることも多々あります
そして、三角形を2つ合わせれば必ず平行四辺形になる、という公式の変形が、いつか、中学数学に役に立つかもしれないところも、そのとき、接続されることはありません
まったくバラバラにただ「暗記」しているだけの知識は、あとあと繋がってこないので、思考の広がりに役立たないのです

それでも、ある子は言いました
「社会は暗記科目でしょう?」と
「英単語だって暗記しないと先へ進めません」と
確かに、「覚えて」いないと始まらないことって実際にはあります
でも、先日、あるどんぐり卒業生の話を聞いていて、はっとしました
「社会を暗記しているつもりはありません」とその子は言いました
「覚えよう、と思って勉強していないというか…」
その子自身は自分の中で起きていることを説明するのが難しそうでした
現在高校生ですが、社会は特に勉強しなくても成績に問題はないということでした
でも、私にはなんとなくわかりました
たとえば英単語をよく覚えている子が、クラスで最も多く単語練習に時間を費やしているかというと、決してそんなことはありません
むしろ、英単語練習に費やす時間でいえば最下位に等しいのではないか、というレベルです
逆に「暗記しなくては!」「どうしても覚えられません!」と言っている子の方が、「英単語練習!」と銘打った時間を多く作っているように見えることもあります

なぜそんなことが起こるのか、それは、同じように英単語を書いていても、動かしている脳の部分が違っているのではないかと考えられます
私は脳科学者でもないので、正しい分析はできませんが、「覚えよう、覚えよう」と思いながら書いたり、もしくは、もっとひどいのは、「とにかくたくさん書けば覚えられるかもしれない、覚えられるかもしれない」さらにひどいのは、「こうして一生懸命ノートを埋めることで、頑張った痕跡がのこって怒られずに済むかもしれない、済むかもしれない」さらにさらにひどいのは、「やりたくないけど宿題だからしょうがない」と…ただただ、「書いている」だけ
そうでなくても「覚えよう、覚えよう」としながら書いても、実は覚えられないのです
それが「暗記」のやっかいなところです
脳内を「覚えよう」という言葉が占めている、と考えれば簡単です
たとえば「possible」という単語を覚えようとして練習をするとき、脳内で、「覚えよう、覚えよう、p-o-s-s-i-b-l-e…」と唱えているのと、「ポッシブル?“ミッション・インポッシブル”って映画と関係あるのかな、possibleは「可能」って意味だからimpossibleは「不可能」って意味で…じゃあ、mission impossible…「不可能な指令」とかそんな意味かあ…」なんてブツブツ考えながら書いているのと、どちらが脳内に残ると思いますか?さらに実は-bleというのは、可能な、という意味を加える接尾語なのでedibleとか、countableとかどんどん派生語が見つかるのですが、それは高校英語以降として…
中学生にだって、好きなミュージシャンの歌詞や、タイトル、映画やドラマや看板などで見た英語が今勉強していることと「つながった」ならば、書いている間にあれこれ余計なことを考えて、それが実は、その記憶を脳内に自然と結びつけ、定着させる結着剤のような役割を担うことになるのです
一方、いくら「覚えよう、覚えよう」と思っても、ただ「暗記」することの退屈さ、身体の無反応は橋本さんの文章からもおわかりの通りです
いくら頑張っても、定着しない、結局、跡形もなくなっている
残念ですが、その結果は歴然としています
実は暗記であっても、一度記憶したことは必ず脳内のどこかにあるはずなのですが、「快」を求める脳にとって、おもしろくもなんともない記憶は脳内の引き出せない部分へ封じ込められてしまうようです

さあ、ある生徒は、この文章を読んで「恐怖」を感じた、というのです
大人のみなさんにはこの子の恐怖がわかるでしょうか

子どもたちは、学校でどのような授業を受け、どのような課題をこなしているでしょうか
物事をできるだけ深く掘り下げ、その真理を追究し、しっかりと理解できるまでじっくりと取り組むような授業を受けているでしょうか
実は、小学校の教科書のほとんどに、単元の導入ページがあり、そこの部分に真理が明記されているものが多いのです
だから、学校の先生も、新しい単元に入るときに、その部分の説明を、一通りしていると思われます
でも、前に書いたように、なぜか、その後、「その単元に出てくる問題がきちんと解けるようになるために」たくさん、たくさん練習をさせます
たとえば、かけ算九九なら、つかえずに暗唱できるまでコンテスト形式、昇段式などでしつこいほど練習させます
もちろん宿題でも出され、家庭で一生懸命練習させた方も少なくないでしょう
でも、聞いてみてください「2×3ってどういう意味?」

そんなことそのとき分からなくても、いつか分かるようになるでしょ、「にさんがろく」でいいじゃない!?と思う方も多いかもしれません
でも、これが象徴的で、この後も、小学校算数は、
「これだけ覚えればもう安心」という種類の促成ノウハウである。
こちらは「順を追って理解する」を生徒に要求しない。「手っ取り早くこれだけ覚えればいい」である。覚える量は「これだけ」だから、いかにも少ない。その量の少なさが、「ああ簡単だ」という錯覚を生むのである。促成ノウハウが要求するのは、「理解」ではなく「暗記」である。
と橋本さんが書いているような状態に陥っていきます
決して、先生が説明していない訳ではないのです
あまりにも、子どもたちに考えさせる時間が少なく、「手っ取り早くできるようにさせる」ことを目標にしすぎているのです
それは先生たちだけの責任ではなく「とにかくできるように」を求めた親たちの責任でもあります
子どもたちはいつの頃からか、「わかる」と「できる」の違いを、自分でもわからなくなってきています
だから、「底辺×高さ÷2」が「なんで」なのか、どんぐりっこでも説明できない子が多いです
それに、テストが終わってしまえば、その単元について先生が補習したり、個別に心配してくれたりすることもありません
「そのときできればいい」という間違いが、学校と家庭の悪循環を生んでしまい、もはや、止められなくなっている印象を受けます
どちらか一方の責任ではなく、一緒にここまで来てしまった、と見えます(28年間の定点観察の結果、そういう感想を持っています)

ただ、真面目に学校の授業を受け、なんなら真面目に宿題をこなしていただけなのに
テストがあるから、と頑張って覚えて、一生懸命取り組んできたのに
そんな模範的な生活を続けてきた結果、「考える力がついていない」という悲劇は、どんどん生まれています

私の好きな林修先生は、記憶力も思考力も抜群のとんでもない秀才です
「暗記しているじゃないか!」と思われる方もいるかもしれませんが、ああいう方の「暗記」は、ただ表面的に覚えるだけ、手っ取り早くできるようになる最短距離の「暗記」ではないのです
以前、私が英会話のレッスンを受けていた頃、受講者の全員が大学受験経験者でしたが、ひとりの方は英語関連の学部を目指していたため、難関大学の英語を受験するための勉強を経験していた方でした
もう、高校時代は懐かしく思い出されるほどの年齢になってはいましたが、とにかく、雑談形式で進む楽しいだけの英会話の中で、彼女から出てくる英単語の量に圧倒されました
彼女は「受験のためにただ暗記したと思っていた大量の英単語が役に立った」と言っていました
それでも、私から見ると、彼女はただ「暗記」したのではなく、その他の広い知識のもちようや、いろいろな事に興味を持って、好奇心旺盛なところを見る限り、結局、本当に頭のいい人が「暗記」なんかしたら最強なんだな、と当時感じた覚えがあります
つまり、林先生も彼女も、暗記が得意だから秀才なのではなく、秀才は暗記もできてしまうだけで、前に書いたどんぐり卒業生の高校生も、「覚えてはいるけど、暗記しようと意識したことはない」と言っているのは、そういうことなのだろう、つまりは、結局、思考力なのだろう、という結論に至るのです

さあ、小学生以下のお子さんをお持ちの保護者の方は、今日からどのように子どもと過ごしていけば子どもの思考力は伸びていくのでしょう
学校の指示通りにしていても思考力がつかない!?学力もつかないだって!?
…じゃあ、塾に入れなくちゃ…でしょうか
塾も同じですよ、「できる」結果を大人が求めるのですから、「できる」ように仕上げるのが塾の仕事ではないですか
まずは保護者として、実は子どもに求めてしまっているかもしれないことを見直すことから始めるといいですね
結局、「わかってないけどできているから、ま、いっか」でやり過ごしていませんか

子どもさんは、じっくり考えて取り組むことを面倒がりませんか?
算数は好きだけど文章題は嫌いだ、とか言いませんか?
漢字テストはできるけど、文章を書くと漢字を使わなかったりしませんか?

そういう危険信号を見逃し、点数が取れているからまあ、大丈夫かな…なんて「小学校のテスト」で実力が測れていると勘違いしてしまっていると、中学生になってから子ども本人がとっても苦労することになります
「塾のテスト」なら実力が測れているかというと、それも謎ですよ、わかっているのか、ただできているだけなのかは、普段見ている先生が一次データ(答案そのもの)を見ればすぐにわかることです

さあ、中学生になると、本人が苦労する上に、なぜだか大人たちも「努力が足りない」「もっと頑張りなさい」なんて発破をかけ始めるのです

それでも私は、中学生と勉強し続けます
それぞれに、思考力の差はあり、中学生以降、その差を埋めることは正直不可能です
思考力は、生まれてから5歳くらいまでにそのベースが作られ、9歳までのとても大切な経験を経て、12歳までに完全に整頓されます
それ以降、付け足すことは不可能に近いです
じゃあ、思考力の差によって、その子の将来の「優劣」は決まってしまうのか?なんて愚問はやめてくださいね
人生に優劣などないし、学校の成績やレベルでその人を判断するのはナンセンスです
どんな学校に進むのかは本人の選択ですし、どんな学校を出てどんな職業に就いても、そこで生きていくのは本人の選択であり、意志です
それを、一番身近な家族は、心から応援し、支える以外にどんな任務があるでしょうか

この文章が怖い、と言った子に、私は未来を感じます
必ずその子は、自分の思考力で自分の未来を切り拓くでしょう
いま、その恐怖を感じている感性が、その子を確実に成長させています

これからもDKでは、「なんで?」と問いかける授業を続けます
ただ公式を覚えて解くのではなく、すべての科目、すべての問題に理由があることを、生徒たちと一緒に考え続けます
私がすべての正答を知っているわけではありません
生徒たちの疑問から私の疑問に繋がり、一緒に悩むことも多々あります
でも、ただ丸暗記することよりも、ずっと脳を動かしている実感があります
目先のテストでただ点数をとらせるための授業ではありません
でも、点数をとりたい子は、自分なりに工夫して、それなりにとっています
点数をとってきなさい!って私は言ったことはないけど、
「丸暗記すれば点数はとれるよ」と話してはいます
そんなことをしても意味はないけどね、と

でもね、余力のある子は、深く考え、納得するまで前に進まず、一見、遅々として見えるのですが、最終的に底力をつけています
面倒くさい、なんて一切言わず、常に好奇心満タンの目で取り組み、ポジティブです

人生を楽しむために、勉強するんです
それ以外の目的は、とってつけたよう
私にはそう思えます

次回は橋本治さんの「セーターの本」について
とても興味深い部分を引用します