今日は前回も紹介した橋本治さんの『「わからない」という方法』という本から、
「セーターの本」について書かれた重要な部分を引用してどんぐりとつなげて説明してみようと思います

ハイテクとは錯覚である
なぜそんな面倒を?
 「わかる」とは、「納得すること」である。「自分」という部署に所属して、実際にはどういう役割を果たしているのかよくわからない「身体」というぼやけた部下達に、「なるほど、そうか」とうなずかせるプロセスが、「わかる」への道である。それはすなわち、「なんのために必要なのかよくわからないことでも、しょうがないからコツコツとやる」である。だから私は、「なんにも知らない男」を読者対象とする「セーターの本」のために、やたらの数の絵を描いた。「めんどくせーなー」と思いながら、その一々を絵に描いたのである。
 そして、私がそれを、「めんどくさい」と言えば、「なにもそんなめんどくさいローテクに頼らなくても…」という声は出てくる。案の定、その本を出してしばらくしたら、「ビデオ版を作りませんか?」という話が来た。「ビデオでセーターの編み方を教える」である。今なら「DVDで」になるだろうが、私の答は「NO」である。その理由は「ビデオじゃ無理だから」である。
ハイテクでは不可能な領域
 なぜビデオではだめなのか?ビデオではだめである。DVDでもだめである。それでよければ、私は絵なんか描かずに「写真」を使っていた。写真じゃだめだから、それ以前のローテクである「絵」を描いていたのである。
 なぜ「絵」なのか?「絵」というものは、デフォルメがきくものである。「写真」なら、必要な情景を一発で写しとることができる。「絵」でそれをやるのは、とても面倒である。しかし、その面倒な「絵」には、「省略」という利点がある。デフォルメがきく。そこが「絵」というローテクのすぐれているところである。たとえば、「わかりやすい手描きの地図と精密な航空写真とでは、どっちが道案内の役に立つか」ということを考えればいいだろう。
 「そこへ至るまでのすべての道筋」が明瞭に映っている航空写真は、「道案内の地図」としては不向きである。余分な情報が写りすぎている。「道案内の地図」で必要なのは、「目的地へ至り着くための一本の道」で、それ以外の道はすべて「余分」なのだ。デフォルメのきく絵は、本来ならそこにあるはずの「余分な道」をすべて消し去って、「必要な一本の道」だけを提示してくれる。「ここを通ればいい」という、最も基本的な情報だけが静止状態で存在している。一度「わかった」と思って、その後に記憶があやふやになったら、もう一度その地図を見ればいい---それを何度でも繰り返せる。絵というローテクの利点はそこにあって、絵とは、できの悪い生徒の中に「納得」が訪れるまでずっと待ち続けていてくれる、最も愛情あつい教師なのだ。
 「写真」という、そこにある情報をすべて鮮明に写し出してくれる教師は、呑み込みの悪い生徒の耳に余分なことをあれこれと言って混乱させる、せっかちで自己中心的な教師である。その写真を連続して動かすビデオやDVDのハイテク教師は、生徒の都合を無視してさっさと先へ行ってしまう、生徒の進学率と自分の腕だけを誇る最悪の教師である。「絵」というローテクの教師は、覚えの悪い生徒の前で居眠りしているような教師だが、しかしこの教師は、覚えの悪い生徒の呼びかけに応えてくれる。「先生、ここがわかんないよ」と呼びかけられれば、この居眠り教師は「おう、なんだ」と目を覚まして、生徒の疑問にいくらでも答えてくれるのである。どれが一番よい教師かは、言うまでもないだろう。
橋本治著 『「わからない」という方法』 集英社新書より引用



すでにできあがった視覚イメージを動かして楽しませてくれるテレビ、
動かない絵で音も出ない絵本、
それから、絵も字もない、語り
思考力の健全な養成にとって最も効果的なのは何なのか、もうおわかりですよね
いいえ、効果的だから取り入れるのではなく、取り入れるべきではない年齢の間だけ、何を避けて、何を優先すべきか、ということを知っていさえすればいいのです

この部分と、前回引用した部分にヒントはあると思います

どんぐり倶楽部でも、シュタイナー教育でも、子どものテレビ視聴には制限が必要だ、と言っています
私自身、どんぐりに出会う前は、シュタイナー教育に憧れていたので、いつか子どもを授かったら、テレビなし育児をしてみたい~♪と漠然と描いていたのです
私の親も、「子ども劇場」という運動に参加していて、子どもたちに本物を、子どもたちに自然を、という考えで子育てをしてくれていたので、自分が味わった子ども時代がそうそういやでなかったからそういう発想になったのだと思います
小学生の頃は、みんなが見ている夜8時以降の歌番組やドラマを見たことがなかったし、漫画も知りませんでした
でも、自分なりに友達に漫画を借りてこっそり読んだり、ラジオに耳をくっつけて流行の歌を覚えたり、レンタルレコード屋さんに小遣いを握りしめて通ったりしていたことを悲劇とは思っていません
なぜなら、家族で「別荘」と名付けていた山間の空き地や、弟の誕生日にカセットコンロを持って川に行って焼き肉パーティをしたことや(パーティはやたらと川)、他のどの友達の家よりもたくさんの本を買ってもらえていたことが誇らしかったからです
冬にはスキーに数え切れないほど連れて行ってもらえたし、不規則な勤務形態の父は私たちが起きている時間には、自分がほとんど寝ていなくても、とことん付き合ってくれていました
少しは「私も“夜ヒット”が見てみたいな…」とか、「“りぼん”や“なかよし”を買いたいな…」とか思ったりしたことはありますが、どれも一時的な感情で、総合すると、「うちって結構楽しい」という結論に至る子ども時代の私の自問自答でした
なんとなく、メディア制限のヒントがこういうところにあるとは思いませんか?
我が子がどう思っているか知らないし、私が私の親と全く同じ事をしているわけではありませんが

さて、私が出会ってきた生徒の中にはすっかりこの「ハイテク」にやられた子達が結構いました
今ほどネットが子どもの世界に入っていなかった時代では、テレビにはまっている子達が、「あ、それ知ってる」と豪語することが気になりました

当時、「子どもに見せたくないテレビ番組」「見せたいテレビ番組」なんていうのがメディアで公表されて、なんやかんや、議論がありましたが、私にとっては、「見せたい番組」に並んでいた科学の種明かし系番組が、「見せたくない番組」の上位にあるナンセンスなバラエティ番組よりずっと「見せたくない」と思うものでした
バラエティならがはは!と笑って「くーだらない!」でおしまいです
なんなら、テレビの中の人って面白いねえ、テレビの外じゃあんなことできないけどねえ、また来週楽しみに見ようね~くらいで済みます
でも、科学系種明かし番組は、その後が本当に恐ろしい!と当時の私も感じていました
やれ、動物の生態だ、やれ、工場見学だ、やれ、科学的事象の解説だ…
おお!ためになる!賢くなるではないか!
と、一見思うような内容でも、見てためになる、活かせる年齢と、見たら害になる年齢とはっきりと分かれていると思います
それは、引用した文章で橋本さんが書いていらっしゃる言葉で、すべて説明がつきます
「写真」という、そこにある情報をすべて鮮明に写し出してくれる教師は、呑み込みの悪い生徒の耳に余分なことをあれこれと言って混乱させる、せっかちで自己中心的な教師である。その写真を連続して動かすビデオやDVDのハイテク教師は、生徒の都合を無視してさっさと先へ行ってしまう、生徒の進学率と自分の腕だけを誇る最悪の教師である。「絵」というローテクの教師は、覚えの悪い生徒の前で居眠りしているような教師だが、しかしこの教師は、覚えの悪い生徒の呼びかけに応えてくれる。「先生、ここがわかんないよ」と呼びかけられれば、この居眠り教師は「おう、なんだ」と目を覚まして、生徒の疑問にいくらでも答えてくれるのである。
いくら専門的で正しい解説が付属していても、「動画」を見てしまったら、子どもの好奇心は実は終焉を迎えることが多いのです
これは、30年近く子どもを見てきて私自身が気づいていることのひとつでもあります
前回書いたことと重複しますが、すべてを正確に知り、見た時点で脳は最短距離で「わかった」と勘違いします
そして、それ以上そこを考える必要はないと判断し、勝手に結論づけてしまうのです
だから、
○○って知ってる?って生徒に聞くと、「知ってる!!」と鼻を膨らませて話してくれるのはいいのですが、それのほとんどが「実体験」ではなかったりすることが増えてきたなあ、と思った時代を経て、今では、それが「テレビで見た」じゃなくて、Youtubeで実験してるのをあたかも自分がしたかのように語り尽くす、という子が増殖中です
なんでしょうね、「図鑑で見た」「本で見た」「新聞で見た」ともまた違う、「動画を見た」の完結しちゃう感じ
それが、橋本さんの書いている「ハイテク動画先生」の実態なのでしょう
のんびり居眠りしている「手描きの絵先生」が教えてくれることの深さ、大きさ、伸びやかさにはかなわないはずです

私が子どもの頃好きだった「あやとりの本」はこれでした

1982年 福音館書店 さいとうたま (著)つじむらますろう (イラスト)
(わあ!嬉しい、まだ新刊で出ています
私のは実家にあるので教室用にもう一セット買おうかな)

以前、メディア制限しているどんぐり学舎の保護者達との座談会で、
あやとりやけん玉、スライム作りや砂鉄遊びについて、
「動画で超面白いのがあるんだけど、そういうのなら見せてもいいのかな」という話題が出ました
私の結論は確定していますが、保護者さん同士でどんな方向に行くのか、聞いていると、誰かが「いい本があるよ」と紹介して「え!それ教えて教えて!」で話が終わりました
そうなんです
なんなら、写真ではなく、絵の図解がある本がおすすめですよ

いくら面白い動画があっても、それは「ハイテク動画先生」に過ぎません
ハイテク動画先生の授業を最大限に生かすには、こちらの技量と経験もかなり必要です
子どもたちには無理だろうな、と子ども専門家の私は思います
一見、どんどん動画を見て吸収して、技を身につけたり、大人顔負けの成長を見せることもあるでしょう
近くで見ている大人はそんな姿に感心し、動画の威力を感じると思います
それを見て私は思います「で、だから?」

冷たいようですが、やはり小学生までの子どもに「ハイテク動画先生」と上手に付き合うのは無理だと思っています

説明するならば、確かにそのとき、動画を見て難度の高い何かしらの技を身につけたとしましょう
でも、本当に、何度も言っていますが、小学生までの子どもの脳に、そんなことをしている暇はないのです
脳内で、そんな技を身につけることを体験することによって、子どもによっては、すべてのことを動画で習得しなければならないプログラムが脳内に構築されることでしょう
もちろん、たいした影響を受けない子もいるのですが、多大な影響を受け、自分の脳内で絵図や動画を再現できない、作り出せない、という症状が出てきてからでは手遅れなのです
中学生以上の場合でも、わかりやすい動画解説は、見るだけで「わかった!!」と簡単に思える作りになっていますから、前回の投稿の冒頭に書いたように、それを自分で「再現」しない限り、脳内にしっかりと留めることは困難です
しかしすでに、自分で考えることを脳が放棄している場合、それを取り戻すことはさらに困難なことなのです

進学塾で中学生に現代文の文学的文章を教えるとき、挿絵を描かせたり、BGMを考えさせたり、この登場人物を誰に演じてもらうか相談したりする授業をしたことがありました
みんなはただぼーっと、好きなアイドルとか女優とかが出てるテレビドラマをよく見るだろうけど、どうせ見るならその演出を分析してごらん、と
なんでこの女優はこの色の服を着ているんだろう、このBGMはなんだろう、放課後の校庭の隅っこで告白するシーンの前に差し込まれる、外水道の蛇口からしずくがぽちゃーんと落ちる画面は、なんで必要なんだろう、ってね
ドラマや映画は、脚本を映像化するプロが、みんなで作り上げているんだよ、演者は誰で、照明はこうで、音響はこう、って、それぞれに専門家がいてね
みんながもし、監督だったら、この文章にどんな音楽をつけ、どんなアングルでカメラを使う?と
それが、どんぐりに出会う10年前の私の授業でした
どうでもいいことですが、塾のカリキュラム通りの教材をこなさなかったのに、県内模試の国語の塾偏差値はとんでもなく高くなりました

当時、小学校低学年の授業でも同じようなことをして試していました
文章を、絵にできるかな?と
「青い空、白い雲」って言われても、文字にしか見えない子はたくさんいました
漢字で丁寧に書けても、絵にならない子、言葉でも説明できない子、
点数はとれるんだけど、味わっていないのです

糸山先生の過去ログで、印象的なフレーズがあります

その音楽が伝えたいと思っている本体を味わっておくために「自然を味わい感じる」ために「ゆっくり、ジックリ、丁寧に」自然の中で過ごす。
(コンサートに連れて行くことについて)本体を知るべき時にそんなことをしていては頭でっかちのおバカさんになるよ。
「ああ、ヴィヴァルディの四季ね。知ってるよ」で終わり。なんて貧相なことだろう。しかも、こんな結果を導くために子供の貴重な時間を費やしている。クラッシック音楽さえ、聞いて知識があるだけ、ということの意味はない。曲を味わうことは、この曲の背景にある作者の感情に気持ちが重なることだ。

小さな子どもが情感をこめて切ない恋の恨み節のような演歌を歌っているのが滑稽なように、とってつけたような状態に、わざわざ親がすることでもないんです

もっと大事なことをたっぷりと味わって、しっかりと育った上で、ハイテク動画先生と付き合うなら付き合えばいい、きっとその方が上手に付き合える、そう思うのです

今、みなさんの手元にはドラえもんのポケットの中にもなかったような便利でハイテクな機械がすっぽりと収まっています
昔はこんなことできなかったよねえ!という感動の機能がてんこもりですね
それでも、
人体の状態は昔と何も変わっていません
いくら現代に適応した子どもたちとはいえ、脳の成長の速度、視力や聴力の成長に、大きな進化が起こった訳ではない、ただただ、機械が進化しているだけなのです

少しだけ、子どもたちの自然な成長を待つことができれば、健全な思考力を備えた、健康な子どもに育ちます
「もう、あるものだから」と当たり前に触れさせず、避けてやれるのは家族内の大人だけです
いくら「テレビはあまり見ちゃだめよ」なんて「禁止」したって、ゲームを買い与えておいて「30分だけだよ」なんて「制限」したって、子どもたち自身がそれを「不満」に思っているなら、親子関係に亀裂が入るだけです
しかも、すでに「与えて」しまっている場合は、まずは親から子への謝罪と、生活のリセットが必須です
切り替えるのは辛く、大変なことかもしれませんが、なんのためにそう決意したのかを忘れなければ、なんてことありませんし、子どもはすぐに順応するはずです

最初に書いたように、私は、多少の不満こそあれ、総合的には「うちのルール」に納得していました
どの話題でも同じところに着地してしまいますが、それって、親子の問題です
親が真理を知り、制限したり、工夫したりしないと、基本的には思考力を育てる環境下に今の子どもたちはありません
自分の頭で思い描くチャンスさえ、テレビや動画に奪われ、学校からは反復の宿題が出されている
どんぐり問題を解き、絵図に再現することが当たり前になっている子達でさえも、時々混乱することがある
混乱していない子達を見ていると、親が心から納得していて、生活全体が子どもの考える力を育てる状態になっています

暮らすことも、遊ぶことも、話すことも、すべて、子どもが勝手に賢く豊かに育つ状態に、自然となっているのです